恋するチクワとリコーダー
「素敵」
彼女が彼を見て最初に口にしたのは、その一言であった。
「可憐だ」
彼が彼女を見て最初に口にしたのは、その一言であった。
ゴウンゴウンと腹に籠るような稼働音の中、二人は出会った。
「なんて逞しいのでしょう……」
そう儚げに呟く彼女は、チクワだった。
「食べてしまいたい……」
そう儚げに囁く彼は、リコーダーだった。
二人はまるでロミオとジュリエット。
ラップを施された秋刀魚を挟んでいつまでも見つめ合っていた。
「ああ……」
彼女は思い出していた。
初めて彼と出会った時の事を。
「………」
彼もまた思い出していた。
初めて彼女と出会った時の事を。
それは、遡る事十数分前の出来事である。
*****
それは、夏の陽射しが地に注ぎ、いよいよ以て夏らしくなってきた頃の昼下がりだった。
「フンフンフフーン♪」
安い家賃の古びたアパート。
玄関と外の通路を仕切る鉄製のドアが閉まる無機質な音と同時に、男の上機嫌な鼻歌が部屋に響き渡る。
「フフフンフーン♪」
男はドアに振り向き、郵便受けからひょこりと頭を覗かせたチラシを手に取ると、部屋の中へと進行した。
片手にチクワの乗った皿を持って。
「フフンフフンフフンフーン♪」
軽やかなリズムは尚も部屋に響き渡る。
男は、小さなくすんだちゃぶ台にチラシを投げ捨てた。
バサッと紙の擦れる音で、チラシはくたびれた様にちゃぶ台に舞い降りる。
「フンフフンフフフン♪」
次に男は皿をちゃぶ台に置いた。
まるで紳士が貴婦人をエスコートする様に優しく、それでいて頼もしく、ちゃぶ台に置いた。
「フフンフンフーン♪」
部屋はおおよそ四畳半。
しかし男は苦にならないといった様に畳に腰を降ろした。
「フンフンフーンフン♪」
不意に目を閉じる男。
その顔には、子供とも大人とも取れぬ不思議な表情が浮かんでいる。
「フフンフフフンフン♪」
蒸し暑い部屋の中。
男は、後ろ手にリコーダーを取り出した。
そう、それはリコーダー。
何の変哲も無いリコーダー。
美しく艶めくリコーダーであった。
「フフンフーンフフンフーン……」
澄み渡った音色は、徐々に落ち着き始める。
それはまるで、嵐の前の静けさ。
男はリコーダーを唇に当てがうと、そっと瞳を閉じた。
「………」
暫しの静寂。
真夜中の深い森を思わせるソレは、次第に部屋全体に染みる様にして広がりを見せた。
「………」
チクワは空気に晒されたまま、固唾を飲む様に静寂に取り込まれた。
その時だった。
「~~~~~~~!!」
男はカッと両目を見開くと、構えたリコーダーを吹き始めた。
「~~~~~~~!!」
笛の音は荒野を駆ける跳ね馬の様に荒々しく、しかし堂々とした音色を奏でた。
「~~~~~~~!!」
曲調が変化を見せる。
今までの荒々しさとはうって変わって、水辺で戯れる妖精を思わせる音色に変わった。
「~~~~~~~!!」
またも曲調が変わる。
今度は威勢の良いテンポの早い曲調だ。
「~~~~~~ッ!!」
ふと、今の今まで部屋中を埋め尽くしていた旋律が途切れた。
「………」
男はリコーダーを膝の上に置き、天井を仰いで涙を流していた。
大粒の雫が目から溢れる度、頬を伝い落ちて畳に跡を遺した。
「……フンフーンフンフフーン♪」
男は泣きながらメロディを口ずさんだ。
嗚咽を交えながら口ずさんだ。
チクワと男とリコーダー。
異色の三拍子がこの部屋を支配する。
「……フフフンフーン♪」
男は膝の上に置いた握り拳をギュッと硬めた。
果たして男は何を想っているのだろう?
チクワは、男から発せられる啜り泣きを全身に浴びながら物思いに耽る。
「……フフンフフンフン♪」
嗚咽の様な鼻歌は、悲しいメロディとなり渦を巻く。
その時にふと、冷蔵庫が鈍い稼働音を鳴らした。
地に沈み込むかの様な重低音。
男はそれを聞いた途端ハッと我に帰った様に顔を正面に向けた。
ピクンと弾けた肩は、活きの良いドジョウか何かを思わせる様に新鮮だった。
「フンフンフフーンフンフン♪」
再び軽やかな鼻歌が部屋に戻った。
聞く者全ての心に優しい気持ちが宿る音色、もう男の表情に翳りは無かった。
「フフンフーンフンフフーン♪」
晴れやかな顔付きの男は、リコーダーを片手に立ち上がると、セロハンテープと先程投げ出したチラシを取り出した。
「フフンフフンフン♪」
男はご機嫌に鼻歌を歌いながらリコーダーにチラシを巻き付け、セロハンテープで止めた。
「フフンフーンフフフンフン♪」
チラシに埋もれたリコーダーをいたるアングルから眺めた男は、満足そうににんまり笑うと、それを押し入れの最上部の引き出しに仕舞い込んだ。
「フフフンフフフンフンフンフーン♪」
次に男は、チクワの乗った皿をひょいと掴み上げると、冷蔵庫へ歩み寄った。
「フフーンフーンフーン♪」
やや肉の付いた手が、大きなドアを引いた。
その瞬間に全身に感じた冷気に、一気に季節感は冬を迎える。
「フンフンフーンフフン♪」
鼻歌混じりでゆっくりと氷河の世界へ仕舞い込まれるチクワ。
コトリと儚い音と共に、今、極寒の地へと降り立った穴の空いた天使は、寒さからか身震いをした。
「フフンフーンフン……♪」
チクワがアイスエイジデビューを果たしてまだ間もない。
やや肉の付いた手は、再びドアを掴むと、今度は門を閉めようと力を込めた。
「………」
徐々に小さく遠退いてゆくメロディを耳に残し、辺りは闇へと変わり果てた。
退屈な暗がりの中、チクワは思った。
世の中は恵まれていると。
私が居れば人々は餓えを知らずに生きてゆけると。
そんな理想郷に思いを馳せていると、再びあのメロディが近付いてきた。
「……フフフンフンフフンフフン♪」
鼻歌のボリュームが上がるにつれて、光が徐々に射し込める。
眩い光に満ちた時、冷蔵庫内に黄色いシャンデリアが灯る。
その時――
「………」
冷蔵庫と言う名の氷の世界に、一人の騎士が降臨した。
まさに白馬の王子様――
その姿を見た瞬間、チクワの全細胞が打ち震え、叫んだ。
『イケメン』
『紳士』
『素敵』
『日本一』
その全ての叫びを感じてチクワは直感した。
彼はソプラノだと。
やや肉の付いた手が伸び、騎士は秋刀魚を挟んで隣に降り立った。
チクワは幸せだと心から思った。
こんなに素敵な男性と巡り逢えたのだから――
二人は見つめ合い、生き物が呼吸をする様に自然と深い恋に落ちた。
そしてチクワは心の中でこう呟いた――
『貴方、里中吾郎っていうのね……』
~fin~
「素敵」
彼女が彼を見て最初に口にしたのは、その一言であった。
「可憐だ」
彼が彼女を見て最初に口にしたのは、その一言であった。
ゴウンゴウンと腹に籠るような稼働音の中、二人は出会った。
「なんて逞しいのでしょう……」
そう儚げに呟く彼女は、チクワだった。
「食べてしまいたい……」
そう儚げに囁く彼は、リコーダーだった。
二人はまるでロミオとジュリエット。
ラップを施された秋刀魚を挟んでいつまでも見つめ合っていた。
「ああ……」
彼女は思い出していた。
初めて彼と出会った時の事を。
「………」
彼もまた思い出していた。
初めて彼女と出会った時の事を。
それは、遡る事十数分前の出来事である。
*****
それは、夏の陽射しが地に注ぎ、いよいよ以て夏らしくなってきた頃の昼下がりだった。
「フンフンフフーン♪」
安い家賃の古びたアパート。
玄関と外の通路を仕切る鉄製のドアが閉まる無機質な音と同時に、男の上機嫌な鼻歌が部屋に響き渡る。
「フフフンフーン♪」
男はドアに振り向き、郵便受けからひょこりと頭を覗かせたチラシを手に取ると、部屋の中へと進行した。
片手にチクワの乗った皿を持って。
「フフンフフンフフンフーン♪」
軽やかなリズムは尚も部屋に響き渡る。
男は、小さなくすんだちゃぶ台にチラシを投げ捨てた。
バサッと紙の擦れる音で、チラシはくたびれた様にちゃぶ台に舞い降りる。
「フンフフンフフフン♪」
次に男は皿をちゃぶ台に置いた。
まるで紳士が貴婦人をエスコートする様に優しく、それでいて頼もしく、ちゃぶ台に置いた。
「フフンフンフーン♪」
部屋はおおよそ四畳半。
しかし男は苦にならないといった様に畳に腰を降ろした。
「フンフンフーンフン♪」
不意に目を閉じる男。
その顔には、子供とも大人とも取れぬ不思議な表情が浮かんでいる。
「フフンフフフンフン♪」
蒸し暑い部屋の中。
男は、後ろ手にリコーダーを取り出した。
そう、それはリコーダー。
何の変哲も無いリコーダー。
美しく艶めくリコーダーであった。
「フフンフーンフフンフーン……」
澄み渡った音色は、徐々に落ち着き始める。
それはまるで、嵐の前の静けさ。
男はリコーダーを唇に当てがうと、そっと瞳を閉じた。
「………」
暫しの静寂。
真夜中の深い森を思わせるソレは、次第に部屋全体に染みる様にして広がりを見せた。
「………」
チクワは空気に晒されたまま、固唾を飲む様に静寂に取り込まれた。
その時だった。
「~~~~~~~!!」
男はカッと両目を見開くと、構えたリコーダーを吹き始めた。
「~~~~~~~!!」
笛の音は荒野を駆ける跳ね馬の様に荒々しく、しかし堂々とした音色を奏でた。
「~~~~~~~!!」
曲調が変化を見せる。
今までの荒々しさとはうって変わって、水辺で戯れる妖精を思わせる音色に変わった。
「~~~~~~~!!」
またも曲調が変わる。
今度は威勢の良いテンポの早い曲調だ。
「~~~~~~ッ!!」
ふと、今の今まで部屋中を埋め尽くしていた旋律が途切れた。
「………」
男はリコーダーを膝の上に置き、天井を仰いで涙を流していた。
大粒の雫が目から溢れる度、頬を伝い落ちて畳に跡を遺した。
「……フンフーンフンフフーン♪」
男は泣きながらメロディを口ずさんだ。
嗚咽を交えながら口ずさんだ。
チクワと男とリコーダー。
異色の三拍子がこの部屋を支配する。
「……フフフンフーン♪」
男は膝の上に置いた握り拳をギュッと硬めた。
果たして男は何を想っているのだろう?
チクワは、男から発せられる啜り泣きを全身に浴びながら物思いに耽る。
「……フフンフフンフン♪」
嗚咽の様な鼻歌は、悲しいメロディとなり渦を巻く。
その時にふと、冷蔵庫が鈍い稼働音を鳴らした。
地に沈み込むかの様な重低音。
男はそれを聞いた途端ハッと我に帰った様に顔を正面に向けた。
ピクンと弾けた肩は、活きの良いドジョウか何かを思わせる様に新鮮だった。
「フンフンフフーンフンフン♪」
再び軽やかな鼻歌が部屋に戻った。
聞く者全ての心に優しい気持ちが宿る音色、もう男の表情に翳りは無かった。
「フフンフーンフンフフーン♪」
晴れやかな顔付きの男は、リコーダーを片手に立ち上がると、セロハンテープと先程投げ出したチラシを取り出した。
「フフンフフンフン♪」
男はご機嫌に鼻歌を歌いながらリコーダーにチラシを巻き付け、セロハンテープで止めた。
「フフンフーンフフフンフン♪」
チラシに埋もれたリコーダーをいたるアングルから眺めた男は、満足そうににんまり笑うと、それを押し入れの最上部の引き出しに仕舞い込んだ。
「フフフンフフフンフンフンフーン♪」
次に男は、チクワの乗った皿をひょいと掴み上げると、冷蔵庫へ歩み寄った。
「フフーンフーンフーン♪」
やや肉の付いた手が、大きなドアを引いた。
その瞬間に全身に感じた冷気に、一気に季節感は冬を迎える。
「フンフンフーンフフン♪」
鼻歌混じりでゆっくりと氷河の世界へ仕舞い込まれるチクワ。
コトリと儚い音と共に、今、極寒の地へと降り立った穴の空いた天使は、寒さからか身震いをした。
「フフンフーンフン……♪」
チクワがアイスエイジデビューを果たしてまだ間もない。
やや肉の付いた手は、再びドアを掴むと、今度は門を閉めようと力を込めた。
「………」
徐々に小さく遠退いてゆくメロディを耳に残し、辺りは闇へと変わり果てた。
退屈な暗がりの中、チクワは思った。
世の中は恵まれていると。
私が居れば人々は餓えを知らずに生きてゆけると。
そんな理想郷に思いを馳せていると、再びあのメロディが近付いてきた。
「……フフフンフンフフンフフン♪」
鼻歌のボリュームが上がるにつれて、光が徐々に射し込める。
眩い光に満ちた時、冷蔵庫内に黄色いシャンデリアが灯る。
その時――
「………」
冷蔵庫と言う名の氷の世界に、一人の騎士が降臨した。
まさに白馬の王子様――
その姿を見た瞬間、チクワの全細胞が打ち震え、叫んだ。
『イケメン』
『紳士』
『素敵』
『日本一』
その全ての叫びを感じてチクワは直感した。
彼はソプラノだと。
やや肉の付いた手が伸び、騎士は秋刀魚を挟んで隣に降り立った。
チクワは幸せだと心から思った。
こんなに素敵な男性と巡り逢えたのだから――
二人は見つめ合い、生き物が呼吸をする様に自然と深い恋に落ちた。
そしてチクワは心の中でこう呟いた――
『貴方、里中吾郎っていうのね……』
~fin~