8. 【二日目】 グレイマンズ・エコー
昨晩取り逃がした敵の「3」のプレイヤーを見つけたのはちょうど昼過ぎの頃だった。
ネアの持つ銀色の板の右下に刻印された光の数字は0。つまり、カウンターは今朝の日の出と同時に0に戻ってしまったということだ。
このまま何もしなければ次の日没で「A」のPMAの固有機能が発動し、第三ステージ突入となる。
そうならないためにも、日没までに最低一人の敵プレイヤーを倒す必要があった。
休憩も終わりにしてそろそろ動き出さなければならないと思っていた矢先の出来事だ。
それまでネアのPMAに浮かんでいた光点は赤色の「2」のものだった。それが変わったのはついさっきから。
マップ上を速いスピードで右へと移動している「3」の光点が現れた。走って移動していると考えられるスピードだ。ネアの黄緑色の光点のすぐ上を通過して、先ほどまで「2」の光点が表示されていた場所へと移動していた。
「妙ですね……」
仲間と合流するための移動速度としてはいささか早すぎる気がする。
そのスピードは合流するためのものというよりもむしろ……。
「逃げている……?」
敵から逃げ出してきて、仲間の所へ助けを求めに逃げ込んでいるような動きに見えた。
そう考える方が確かに納得がいくような気がする。
もしそうだとすれば、今度は追いかけている側――ネアの味方が危険なことになる。一対一では勝てる戦いも二対一になれば結果は分からなくなる。
加勢するべきだろうか。
しかしネアには十五分という制限がある。「A」のPMAの単独行動を義務付ける固有機能によるデメリットだ。
あまり戦闘が長引くようであれば今度はネアの方が危うくなってくる。
それらの兼ね合いを上手く考えなければならない。
……まずは様子見をするべきだろう。
ネアのこれまでの考えが必ずしも正しいとは限らない。
急いで仲間と合流しようとしているだけの動きかもしれない。
そもそも、追っている側が一人だとも限らない。二人以上いるならばネアが出るまでもなくある程度の事態に対処することは可能だろう。
それにネアの活躍の場もなく敵が倒されてしまった場合には味方に話を通して、敵にリタイアされないうちにカウンターを増やしておくのもいいだろう。
どんな場合にしろ、やはり様子見は必要だ。
*****
「はぁっ、はっ、はっ……」
息が乱れる。呼吸が安定しない。全力で走っているのだからそれは仕方のないことなのだが、仮にも鍛えている身である彼がこのような状態に陥っているのには別の理由が存在した。
「化け物、がッ!」
悔しそうに表情をゆがめ、吐き捨てるように呟く。
確かに模擬戦争に「人間以外が参加してはならない」なんてルールはない。
けれどあれはなんだ! なんなんだ!
――――まるで人の皮をかぶった化け物じゃないか!!
彼が遭遇したのはきっと、無邪気な顔をして人間に近づいてきて人間が心を許した瞬間に喉下へ歯を衝きたてて絶命させる、そんな化け物だ。そこらにいる魔獣よりずっと性質が悪い代物。
人間の皮をかぶった奴らは、人間の社会にとけこみ虎視眈々とこちらを殺すその時を待っているのだ。
見た目は人間と変わらない、親しみやすい容姿をした奴らと繋がりができれば、知らず知らずのうちに獰猛な顎で首を咥えられていることだろう。
そんな想像をしてしまい、彼はぞっとする。
自分に近づいてくる人間を誰一人信用できない。人間恐怖症になってしまいそうだ。
嫌な妄想を振り払って走る。
とにかく逃げなければならない。
仲間二人はもうリタイアしているだろう。だからここで彼までもがリタイアするわけにはいかない。
幸い彼の負った傷は軽症。早急に治療が必要なものではない。
優先すべきは情報だ。
敵には化け物がいる。このことを伝えられずにリタイアするわけにはいかないのだ。せめてその情報を提供するくらいはチームの役に立たなければならない。
不意に情けなさが込み上げてくる。
――自分は何のためにこの模擬戦争に参加しているのだろう。
もちろん、故郷のためだ。故郷を敵国の魔の手から救い出すために勇んで参加を決めたはずだった。
にもかかわらずこの醜態。
少しばかり人より剣の腕が立つくらいで、参加したのは間違いだったのか。
思い返してみても、彼は役に立つどころが足手纏いにしかなっていないように感じる。
昨晩、彼は敵の「A」と思われるプレイヤーに襲撃を受けた。
その時も結局、顎に一発蹴りを入れられたくらいでダウンして、先輩が腕を折られるのを黙って見ていることしかできなかった。
……先輩。
模擬戦争以前からの付き合いだった。
剣の指導をしてもらったことがきっかけで親しくなった。
今回の模擬戦争の話を持ちかけてきたのも先輩だった。
剣の腕は先輩には及ばなかったけれど、少しでも役に立ちたいと思って参加したのだ。
それなのに彼は、目の前で仲間がリタイアに追い込まれるところを見てばかりだ。
先ほどもそうだった。
途中までは作戦通り上手くいっていたのだ。
奇襲に見せかけた囮役を演じ、本命の奇襲から相手の目を逸らす。その囮役すら彼一人の力では成り立たなかった。もう一人の仲間の、相手への牽制のおかげでせっかく上手くいっていたのだ。
それなのに、そんな常人の努力を化け物は気分一つで木っ端微塵にした。一瞬にしてすべてが水の泡へ還るのだ。
瞬きの後には、形勢がひっくり返っていた。
地に倒れ伏す仲間二人の姿が視界に入る。
一番遠い場所にいた彼だけが一撃目を切り抜けることができた。おそらく化け物と彼との間に化け物の仲間である騎士の男がうずくまっていたのが原因なのだろう。
三人の人間が倒れる戦場。
彼の目には世界が灰色に映った。白と黒の世界。色彩のないその場所に、化け物と彼だけが立っていた。唯一の色彩は化け物の身体だった。赤く燃える髪が風になびく。血に飢えた獣の瞳が、彼を捉える。
その時、声が聞こえたのだ。
「逃げろ」と。
気づけば彼の脚は勝手に動き出していた。
仲間の声だったのか、人間としての本能の警告だったのか、分からない。
けれど彼は仲間のことを見捨てて、戦場から逃げ出した。
それだけが変えようのない事実だった。
*****
自覚はなかった。
記憶もなかった。
けれど世界は確かに灰色に染まっている。
残り火がぱちぱちと弾ける音がする。
それらが何よりの証拠だった。
自分がこれらの惨状を巻き起こしたのだと理解するまでに時間は必要なかった。
耳鳴りがする。
ピ―――――
そんな音が耳の奥を出て行ってくれない。
視界は灰まみれだ。
そのモノクロの世界の中に、見知った人影を見つけた。
父親のように慕っている騎士の男が倒れている。
「――――――――――!!!!」
灰色の少女は絶叫する。
悲しみとも怒りとも悔やみとも異質な、それらが深く混ざり合って熟成されたどろどろとした絶望を吐き出さずにはいられなかった。
*****
理解不能。
それがネアの抱いた第一の感想だった。
ネアの追っていた「3」の男が地面に倒れ伏して気を失っている。
その男の傍に、ひとりの青年。
「……あなたは何者ですか?」
青年の手が止まる。ネアの追っていた男の腕をちょうどへし折ろうとしていたところのようだった。
彼は振り向いてネアの姿を確認し、その身体に動揺が走った。両腕がぴくんと震えたのだ。
表情はフードの作る影に隠れていて見えないが、動揺をしていることだけはなんとなく分かる。そんな仕草だ。
「あなたは何者ですか?」
もう一度訊く。
強気な態度で青年を糾弾するネアだが、実際には彼女の内心は混乱で満ち溢れていた。
ネアは敵の「3」のプレイヤーを追っていた。ネアの「A」のPMAによって、そのプレイヤーが「2」のプレイヤーと合流したことは確認済みだった。
「2」のプレイヤーは「3」のプレイヤーと同じく、ネアの敵チームのプレイヤーだ。つまり「2」と「3」のプレイヤーは仲間ということになる。
しかし現実はネアのPMAが示すものと真逆のものだった。
「3」のプレイヤーの男を取り押さえて腕を折ろうとしているのは「2」のプレイヤーであるはずの青年だった。
いくら確認しても、周りに「2」と「3」のプレイヤー以外の人の姿を確認することはできない。それにネアのPMAも警告音を発していない。これは、青年も青年に組み敷かれている男もネアの味方ではない、つまり敵であることを意味している。
どう考えても目の前の二人は同じチームの仲間であるはずなのだ。
にもかかわらず、この状況。
模擬戦争で仲間をわざわざ傷つけてリタイアさせることに意味などないはずだ。
状況だけ見れば、青年はネアの味方だ。
しかしPMAは青年がネアの敵だと言っている。
この矛盾をどう説明すればよいのだろうか。
敵のナンバーのPMAの固有機能による妨害である可能性も捨てきれない。ネアのPMAに、実際は仲間である青年のことをあたかも敵であるかのように表示させる機能が存在すれば、確かに今の状況の説明がつく。
ルールにも「他者のPMAの固有機能を変化させる固有機能は存在しない」という記述があるわけでもないし、可能性としては充分。
だからといって青年が仲間であると断言もできない。
ネアの頭ではこの状況の明確な解答を出すことができない。
だから、敵なのか味方なのか分からない青年に訊いたのだ。
――――あなたは何者なのか、と。
質問の回答の代わりに返ってきたのは動揺。ますます怪しい。
袖の長いフード付きシャツという奇抜で模擬戦争にはまったく適さない格好も怪しいし、敵なのか味方なのか分からない行動も怪しかったけれど、ネアが姿を現した時に動揺したことが中でも最も怪しい。
やはり敵なのかもしれないと思い、万一の場合に備えて腰の剣に手をかける、
――――と。
「待ち待ち待ち待ち、ちょっと待ちぃや」
ネアに声をかけられてから動きがなかった男が、今になって騒ぐ。
しかし……待てと言われても、ネアには自分から男を攻撃しようとする意志はない。
仕方がないので、青年から距離をとって安全を確保したところで剣の柄から手を離す。
その間も青年は組み敷いた男の上から退くことはない。ネアよりもむしろ昏倒している男の方を警戒している様子だ。
もしも青年が味方を演じているだけの敵ならばネアを襲ってきてもよさそうなものだが、そんな動きもない。
ますます青年のことが分からない。
「自分、姉ちゃんの味方や。エッジドルクの人間」
「証拠は?」
「あー、えと、それはその……」
困ったように苦笑いする青年。その顔はちらちらと自分が組み敷いている男に向いたりして、落ち着かないことこの上ない。
それがネアを油断させるための演技だとしたら、模擬戦争に参加していないで役者になったほうがいいだろうと、半ば本気で思う。
仕方ないな、とも思った。
どうにもこの青年が敵であるとは思えないのだ。
彼の態度に毒気を抜かれてしまう。
「まずはその男から離れたらどうですか」
「いや、それはできへん相談なんよ」
「……私は『A』です」
プレイヤーナンバーを教えたのは賭けだった。もし青年がネアの仲間ならば問題はない。しかし敵のナンバーのプレイヤーに自分が「A」であると宣言することは、「自分は陰からあなたを狙っていますよ、狙われたくないのならこの場で倒してください」と、そんな風に宣言しているのと同じことだからだ。
「……それは本当やな?」
「はい」
PMAを取り出すと起動ワードを呟いて、青年に向ける。彼にはネアのPMAに「A」のプレイヤーナンバーが浮かんでいるのが見えているはずだ。
青年はフードの端を片手で少しだけ持ち上げて、PMAを確認する。ネアは彼の顔をその隙に確認しようとしたが、鼻の頭までしか見えず、結局人相は分からなかった。
確認し終えた青年が「了解や。なら後は頼むで」と言って男の上から退いて、距離を取る。すぐに男に駆け寄って、青年の動向に注意しながら男の装備品をあさって、ネアのものとは微妙に色彩が異なるPMAを見つけ出し、「A」のPMAと接触させた。
ピーンと小気味よい音が鳴る。
これで「3」のプレイヤーの男のリタイアが決定した。
これ以上リタイアした男のそばにいてもメリットはない。
ネアは男と青年の両方から距離を取るように移動する。
「それで、先ほどの話の続きですが……」
「証拠がいるんやろ? なら、ちょいと自分についてきてくれへんか? 自分のほんとのPMAちゃんは今は別のところにあるんよ」
「別のところって……」
「いや、自分にもちょっとした事情があるんよ?」
そう言って苦笑する素振りを見せる青年。
彼の言うことを信用してもいいのだろうか。……分からない。しかしネアが信用しなければ話が進まないのも確かだ。
罠があるかもしれない。
注意しながら青年についていくしかないだろう。
すでに青年にはネアが「A」であることを伝えてしまっている。彼が敵なのか味方なのかはっきりさせておかないと後になって困るのはネアの方なのだ。
「分かりました。あなたの言葉を信じましょう」
「その敵のPMAは拾ったものだ、と。あなたはそう言いたいわけですね」
「そそ、そーゆーことや」
レムと名乗ったその青年についていく道すがら、敵のPMAを手に入れた経緯を説明してもらった。当然、彼のことを百パーセント信用しているわけではないので警戒を怠るようなことはない。
レムの証言を整理すると、こうなる。
昨日の昼頃、昼食を摂るためにどこか適した場所はないかとフィールドを歩き回っていたら偶然にもプレイヤーと遭遇した。そのプレイヤーは地面に落ちている「何か」を興味深そうに眺めていた。
しかしレムが食事を一緒に摂らないかと誘うと、「何か」を眺めるのをやめてレムの誘いを快諾してくれた。
そうして二人で食事をしていた。
その最中に、何の前触れもなくそのプレイヤーが襲い掛かってきた。
けれどなんとか返り討ちにすることに成功し、相手を無力化した。
そしてその場を立ち去ろうとした時に、敵のプレイヤーはレムが話しかけるまで地面に落ちていた「何か」を注視していたことを思い出し、レムも見てみることにした。そこで見つかったのが敵の「2」のPMA。
どうして敵のプレイヤーが注視するだけで拾おうとしなかったのかは分からないが、レムが手にした時点では誰にも所有されていなかったらしく、レムが「2」のPMAの所有者になった。
「ちなみに訊きますが、あなたはその方――敵のプレイヤーが敵であると初めから分かっていて声をかけたのですよね?」
食事中で敵が油断している隙に攻撃を仕掛けて一気に決着をつける。そんな作戦を立てていたが間抜けにも敵に先制攻撃を許してしまった。
不自然な点が多すぎるが、このような経緯があったのだと説明されること以外に、ネアはレムの行動に対して、決して納得することができないだろう。そういうことならば、レムが間抜けな人間なのだということでギリギリ納得可能なラインだ。
しかし……。
「そないなわけないやん。自分、敵やって知っとったら声かけてへん。飯一緒したるって言うてくれるから、てっきり味方なんやとばかり思っとったわ」
「………」
呆れて声も出ないとはこのことなのだろう。
ネアは思考を放棄したがっている頭の片隅でそう考える。
この青年は模擬戦争をなめているのだ。
半端な気持ちで参加しているにもかかわらず、彼の卓越した実力によって、確かな戦果をあげている。
怒ることすらできない。
結果が伴えば文句を言う必要などない。大多数の人間が求めているのは、問題を解決する過程ではなく問題を解決したという結果なのだ。
「私たちは誠心誠意取り組みました。けれど負けてしまいました」
……誰がこんな言葉で納得するのか。
レムにとって模擬戦争は本気を出すまでもないもの。そういうことなのだろうか。
敵の「2」のPMAを持って単独行動をしていたのは、そのほうが行動しやすいからだとレムは言う。
彼のことを味方だと勘違いして近づいてきた、もしくは彼自身が近づいた、敵のプレイヤーの不意をついて一気に無力化する。
そのためには自チームのPMAは持っていても邪魔。
「ほんまの仲間に攻撃されるかもしれないっちゅぅ心配はすることになるんやけどな」
彼はなんてことないような口調でその言葉を口にした。
しかし、とネアは思う。
模擬戦争という極限状態において、味方すらも敵になり得るという状況に置かれて、人は果たして正常な精神を保つことができるのだろうか。
逆説的に考えれば、彼にとって模擬戦争は極限状態ではないということになる。
きっと「心の余裕」というものがあるのだ。
それは絶対的な自信が生むもの。
たとえ仲間に襲われても、しのぐことができるという自信。
自分の能力への信頼。
……いや、そもそも。
レムの話が本当であるという確証はどこにある。
第一ステージで「A」以外の敵プレイヤーと遭遇すること自体、滅多にないのに、その上遭遇した敵プレイヤーがちょうど所有者のいない自チームのPMAを取ろうとして、まだ所有していない――手で触れる前の状態の時に、その敵プレイヤーを倒して敵のPMAを手に入れる。
そんな偶然が本当に起こりうるのだろうか。
確かにネアは昨日の朝、まだ誰にも所有される前の状態である敵の「2」のPMAを確認していた。
だかしかし、それでレムの言っていることを信用できるかと言われれば首を横に振らざるを得ない。
「……ま、自分もこないな話して信じてもらえるとは思うてへんよ。自分が別のチームのPMAを同時に持っとること見せても、それが敵やないことの証明にならへんことも分かっとるつもりや」
「信じるも信じないも私次第、ということですね……」
「そーゆーこと。それか、もしくは…………ちみっ娘、やない、えと、リーちゃん……リーヴ・ハクロって知っとる?」
「宮廷魔術師のハクロ先生ですか?」
ぷっ、とレムが吹き出す。「先生って……ちみっ娘が先生……」と何事かを呟きながら肩を震わせるレム。
「どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもあらへんよ。ちょっとした思い出し笑いや」
「それで、ハクロ先生がどうかしましたか」
「いや、自分、あの娘に頼まれて模擬戦争参加しとるんよ。だからあの娘に訊いてもらえば分かると思うんよ」
「ハクロ先生に訊くって、そんな、ハクロ先生に訊けるわけが……」
そこまで言って、ネアは自分の勘違いに気づく。
彼女はハクロがこの模擬戦争に参加していないことを前提に話している。ハクロは治癒の陣魔法のスペシャリスト、つまり研究者だ。そんな人が模擬戦争に参加するはずがないと、先入観ゆえにネアは思っていた。
しかしレムの言葉は、明らかにハクロが模擬戦争に参加していることを前提にしているものだ。
これはつまり……。
「……万が一のために訊きますが、ハクロ先生がこの戦争に参加なさっているわけでは、ありませんよね?」
「いや普通に参加しとるけど……?」
はぁ~、と深いため息をつくネア。今度は彼女が「まったくあの方はご自分の価値を分かっていらっしゃらない……」と何事かを呟く番だった。
「まぁとにかく、そないなわけやからちみっ娘に会ったら自分のこと訊いてくれれば分かるはずやで」
レムがそうやって話をまとめた、ちょうどその時。
ピ――――――――――
ネアのPMAが警告音を発し始める。
一歩後ずさると音が途切れる。
「ここからは自分ひとりで取りに行ってもええけど。どうする、ネアちん?」
「私がそれで納得するとお思いですか? もちろんついていきます。それとその『ネアちん』という呼び方はやめてください」
「了解や。そんなら走っていこか、ネアちん」
「だからその呼び方はやめてくださいと――――ってまだ話の途中ですよ走らないでください」
走って森の中――味方のPMAの五百メートル圏内を進んでいってしまうレム。
「もうっ!」
仕方なくネアは呼び方についての抗議を後回しにして、彼を追いかけた。
レムを追いかけていく時に周りを警戒するのを忘れていたことに気づいたのは、彼のPMAを無事確認し終え、十五分のタイムリミットのこともあって別れた、その後になってからのことだった。
*****
ヒダカとハクロが夕食の場所に選択したのは川沿いの砂利の上だった。
座り心地は悪く、快適な食事場所であるとはたとえお世辞であったとしても言いたくはないような環境であった。
しかしそれでも我慢して食事を摂っている理由はひとつ。敵の「J」のプレイヤーを警戒しているからだ。「J」が使う、草をロープのようにして敵の足首に巻きつける魔法は決して侮ることはできない。
ヒダカとハクロはお互いに背中をあずけあって座っている。とはいえ体格が明らかに違うために、座っているヒダカの背中にハクロがもたれかかるような状況だ。
そしてヒダカは川に背を向けて森の方向の警戒を行ないながらの夕食。
今朝は油断していて敵の接近に気づかなかったが、二度も同じ失敗を繰り返すほど彼も馬鹿ではない。それに戦いの経験がほぼゼロであるハクロに、敵が攻めてくる可能性が高く、それを発見することも難しい森の方角の警戒を任せるには少々不安があったためこのような配置になった。
ではハクロは何をしているのかといえば、水中からの攻撃と、川の対岸――断崖絶壁の崖の上からの遠距離攻撃への警戒だった。
とはいえ川は人間がもぐれるほど深くはないので、警戒するとすれば崖の上からの弓矢を使った攻撃か、川の水を使う魔法による攻撃くらいのものだ。余所見さえしなければ、万一敵が攻めてくることがあっても容易に発見することができる。
そうやってハクロに崖の上の監視を任せてしまったヒダカだが、今になって思えば、ずっと崖の上を見続けながら食事を摂るというのは結構疲れるのではないか、と安易に監視役を任せたことを後悔していたりもする。
「ハクロ、つらくないか」
「平気」
さっきからこんな問答の繰り返しだ。
「疲れたら警戒は俺に任せてもいいんだぞ」
「……私だって一人のプレイヤー。足手纏いになるつもりはない」
「別にそういうこと言いたいわけじゃないんだけどなぁ」
「……ヒダカこそ、気が緩んでいる。夕方は比較的安全、でも本当に安全である確証はない」
ハクロの声からは少し不機嫌そうな雰囲気が感じられた。
なので念のため、確認する。
「……なぁハクロ、怒ってる?」
「怒ってない」
「怒っていないか」と訊かれて、「怒ってない」とだけ女が答える時は大抵が怒っている時なのだ。カノンと生活した今までの一ヶ月でヒダカは学んでいた。人間は自分の身に危険が迫っている時ほど、必要な技術の習得が早い。
しかしハクロが怒っている理由がヒダカにはいまいち見当がつかない。
ハクロは自分が子供扱いされたことにイライラしているのだが、その心の機微を察せるほどヒダカは敏感ではなかった。
問題があることが分かっても、その解決策が分からないのでは、結局男は平謝りすることしかできない。そして女は理由も分からずに謝罪だけをする男のことで再び怒り、負のスパイラルが完成する。
安易な謝罪は相手を怒らせるだけ。
それをヒダカは学んでいる。
だから、別の解決方法を選択する。
「……そういえば、ハクロは夕方は安全だって言ってたけど、本当に安全なのか。俺、いまいちそこのところ不安でさ」
「比較的、安全」
「あ、ああ、比較的な、比較的」
正規の解決策が分からない男は戦略的撤退を選択するしかないのだ。
具体的に言えば、話題を逸らして女の気を別の所に向けるという選択。
ヒダカは道化を演じて、ハクロに話題を振ったのだ。
「……そのことは昼間話した」
確かに昼間も話してもらったことだが……。
「ごめん。俺、バカだから一回の説明じゃ理解できなくてさ」
嘘だ。ハクロは言葉こそ片言で味気ない話し方をしているが、その説明は模擬戦争の素人であるヒダカにも分かりやすいものだった。
しかしここは、バカを演じてもう一度説明してもらう。そうやってハクロの気を逸らすのがヒダカの作戦だった。
「仕方ない……」
ハクロは嫌そうにしながらも昼間の話をなぞるように説明を始めた。
彼女の説明に再び聞き入りながら、胸を撫で下ろすヒダカだった。
ハクロが語ったのは「J」が活動すると予想される時間帯についてだった。
昼間にこの話を初めて聞いた時はそんなものが本当に存在するのか、とヒダカは半信半疑でハクロの話を聞いていたのだが、聞き終わってみれば確かに納得させられたのだ。
とはいえ「J」のPMAが時間によって固有機能が変化するとか、そういうことではない。
それは模擬戦争のルールの中に隠された、「J」特有の行動制限のようなものだ。
この制限を理解するためにはまず「J」の固有機能の一つを確認しておかなければならない。
「このPMAは接触した敵チームの『Q』のPMAの機能を停止する。
この機能が使用された時、段階が第一または第二ステージであるなら、第三ステージに移行される」
「J」のプレイヤーの目的は敵の「Q」を倒すことである。その目的を達成した時、第三ステージが開始される。
この不変の固有機能が「J」のプレイヤーの行動を制限するのだ。
もちろん、この機能単体で行動を制限しているわけではない。
その制限が生まれる理由を理解するには第三、第四ステージそれぞれのルールを知っていることが必須だ。
第三ステージ。
「『K』の所持者が競技から離脱、または敵チームの『K』の所有者によって殺害された時、そのチームの敗北で勝敗が決定する。
このステージに移行後、初めての日の出または日没時、次のステージに移行する」
第四ステージ。
「勝敗決定条件は第三ステージと同様。
すべてのPMAのマップに自チームと敵チームの『K』のPMAの位置をそれぞれ表示する。
このステージに移行後、初めての日没時、次のステージに移行する」
「J」のプレイヤーが敵の「Q」を倒すことは、自チームの「Q」と「K」に大きなアドバンテージをもたらすことになる。
第三および第四ステージにおける「K」の固有機能は以下の通りだ。
「このPMAと自チームの『Q』のPMAの距離が五メートル以下の時、すべての敵チームのナンバーのPMAの位置を表示する」
表示対象が敵チームのPMAすべてになって第二ステージの機能よりも強力なものになるが、「Q」の近くにいなければ役に立たない機能だという点では変わらない。
「K」に与えられる固有機能はこの他に「互いの距離が五百メートル以下になった味方の位置を表示する」というものもあるが、敵の位置を表示してくれる機能は「Q」の近くにいなければ使えない固有機能だけしかない。
つまり「Q」のプレイヤーがリタイアすることはそのまま「K」のPMAの目と耳を奪うことに匹敵する。こうなった「K」が頼れるのはプレイヤー自身の肉体だけだ。
そして「Q」がリタイアしたことはすぐに相手チームの「Q」のPMAによって確認され、無防備だと知られることになる。
「J」が「Q」をリタイアさせることは、自チームの「Q」や「K」に大きなアドバンテージを与えることになるのだ。
しかし第四ステージに突入すれば、確かにアドバンテージは残るものの第三ステージと比べてずっと小さなものになってしまう。
第四ステージではすべてのプレイヤーのPMAに両チームの「K」の場所が表示される。これは「K」のPMAも例外ではない。「Q」を失った「K」は第三ステージを乗りきれば、敵の「K」による奇襲に怯えることはなくなる。その代わりに敵の全プレイヤーからの奇襲に警戒する必要が出てくるが、それは双方の「K」に言えることなので、結果的にアドバンテージは小さくなる。
だからこそ「J」のプレイヤーはできるだけ第三ステージを長引かせるために、第四ステージへの移行の条件である「日の出または日没」に最も遠い時間帯である朝早くか日没後すぐに動くのだ。
とはいえ「Q」を倒すこと自体が「K」に情報面でのダメージを与えることにつながるので、夕方だからといって油断していては足元を掬われかねない。
「昼間も思ったんだけどさ。結局ハクロが言ってるのは常に気をつけておけってことだよな? それって考えるまでもない――――ゲホッ、ゲホッ」
ハクロの頭突きがヒダカの背中に命中する。
ちょうど飲み込もうとしていた乾パンを喉に詰まらせて、むせる。
「考察をするのが研究者の仕事。職業病。我慢して」
「だからっていきなり頭突くことはないだろうに……」
「もう一度説明をしろと言ったのはヒダカ」
「……俺が悪かったよ。すまん」
やはり前途多難な二人組みだった。
*****
辺りは黒色の静寂に飲み込まれる。
夕日の残り火も消え去って、夜。
月は厚い雲に隠されて、星明りだけが照らす深い森の中。
ひっそりとした空間に白の光が灯る。
照らされるのは女性騎士。すらりとした身体のラインにきっちりと鎧を着込み、腰まで伸びた藍色の髪が風に揺れている。
端正な顔立ちに浮かぶ表情は、今の状況が彼女にとってあまり好ましくないものであることを示していた。
日没を迎え、カウンターは0に戻った。
ネアのこれまでの模擬戦争の経験から考えると、おそらく今夜中に第三ステージに突入することになる。
夜は昼よりもずっと奇襲がしやすくなるからだ。今回の第二ステージは明け方前から始まっているとはいえ、寝静まった敵プレイヤーを計画的に襲撃できるのは、この夜が事実上初めてことなのである。
たとえ現在の時点で第三ステージへの移行のトリガである機能停止したPMAの数が八個という規定に遠かったとしても、その数字は今夜激変する可能性が高い。
だからといって、ネアがカウンターを増やすことを放棄する理由にはならない。
一度始まってしまった戦争が決着なくして終わらないように、一度修羅の道を歩き出してしまった人間は理由なく立ち止まることを許されない。
ネアのPMAが示す赤色の光点は「2」。レムの持っていたものだ。
今から彼のもとに向かい、カウンターを増やすことに協力してもらってもいいが、それはどうしても日の出までに敵プレイヤーを見つけられなかった場合の保険として取っておこうと考えている。
ひとまずはこの場から離れ、「A」のPMAに他の敵のPMAの赤い光点が表示される場所まで移動するつもりだ。
それにしても、レムという青年は不可解だ。
言っていることが滅茶苦茶で、とても信じられたものではないが、嘘をつくならばもう少しマシな理由を用意するはずだ。突拍子もない言い訳が、逆に真実味を持たせているとういう不可解な状況。
彼は敵ではないと思う。かといって味方と断言するのにも抵抗がある。模擬戦争には敵と味方しかいないのに、彼はそのどちらでもないような気がしてくるから不思議だ。存在するはずのない第三勢力を確認してしまったような気分だ。
どちらの味方をするわけでもなく、戦場を引っ掻き回して去っていく。勝敗に関与しない傍観者。そういう肩書きが一番しっくりくると、ネアは思う。
「あなたは何者なのか」という質問にも明確な回答をもらえていない。
教えてもらえたのは唯一、レムという偽名のような名前だけだった。もしかすると本名なのかもしれないが、家名は名乗らなかったし、おそらく偽名なのだろう。
レムはネアがエッジドルクの人間だと知っていたのに、ネアは彼に関して何一つ本当の所を知らない。なんだか気持ち悪い状態だ。
彼が実際は敵の人間だというのならば、納得がいく。
ガゼンはエッジドルクのように急ごしらえの人員で模擬戦争には参加しておらず、メンバー同士の顔合わせも済んでいることだろう。
彼がガゼンの人間だったのなら、面識のないネアがエッジドルクの人間であると分かるのは道理だ。仲間である「3」のプレイヤーを襲っていたのは何故なのか、という疑問は残るが、ネアの問題については解決する。
しかし、宮廷魔術師であるハクロの名前を口にしたレムがガゼンの人間であるとはどうしても思えないのだ。確かに彼女は有名だ。ガゼンの人間でも知っている者がいてもおかしくはない。
破綻があるわけではないが、レムがガゼンの人間であるとするのは不自然なのだ。
ハクロのことをちみっ娘と呼べる、つまり治癒魔法陣研究の第一人者であるリーヴ・ハクロの容姿が幼い娘であることを知っているガゼンの人間ははたして何人いるのだろうか。関係者でもないと予想できないことだ。
加えて、レムはハクロが模擬戦争に参加していると証言した。
研究者が模擬戦争に参加しているなどということは、普通の人間の感性を持っているならば到底信じられないだろう。嘘ならもっとマシなものをつく。それに彼がガゼン側のプレイヤーだとしたら、エッジドルクも当然事前に顔合わせをしていると思い込んでいるはずだ。事前に顔合わせをしていないという、エッジドルクの不利になるような情報をわざわざ敵に流すようなプレイヤーはいないだろうから、彼がガゼン側だという仮定はそれこそ破綻してしまう。
すぐに見破られる嘘をついても信用を落とすだけだ。それは自分のことを信じないでくれと言っているに等しい。
レムが味方である可能性は、彼がハクロの名を口にした瞬間に一気に跳ね上がったのだ。
最後に一つ残った疑問は、レムがネアのことをなぜ知っていたのかということ。
エッジドルクは事前の顔合わせを行なっていない。にもかかわらず彼はネアがエッジドルク側のプレイヤーだと知っていた。
彼とネアの間に面識はないはずだ。城下街で一度くらいならすれ違っているかもしれないが、それだけのことで初対面の相手に「あなたはエッジドルクの人間だろう」と断言できるとは思えないのだ。
結局答えは出ずじまい。
偽名を名乗るような得体の知れない人物に、一方的に自分のことを知られているという薄気味悪さだけが残った。
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