17.ゼッケン№112
私が子供の頃住んでいた家の私の部屋からは、庭をはさんだ鉄格子の塀ごしに、表通りがよく見えた。
窓の向こうの通りでは、顔見知りの近所の人々や、見知らぬ人々が、のんびりと、あるいはせかせかと、私が見つめているなか、それぞれの行く先へと通りすぎてゆくのだった。
そしてその人々の中で、ほとんど毎日、見かける男性がいた。
男性がどこの誰であるのか、という事は私はまったく知らなかったが、しかし、二十歳後半くらいのその男性は、いつも“№112”、と書かれたゼッケンを胸につけた白いランニングシャツに緑のランニングパンツ、といった姿で、苦しそうな、汗だくの姿で、いつも私がながめているなかを走り去ってゆくのだった。
私は男性のその姿に、彼はマラソンのトレーニングをしているのだろうと思っていた。
それにしても、と、その男性を見かけるたび、子供の頃の私は思っていた。
どうしてまた、自分からすすんで(?)あんな事をするのだろう?
いつもいつも、今にも倒れそうな、苦しそうな顔をして。
あんな目をしてまで、毎日走り続けなければならない理由というものは、いったいどんなものなのだろうか?
その男性は、朝でも昼でも夜でも、時には、深夜や早朝でさえも見かける事があった。
その姿に私は、その男性がなんだか、まる一日中走り続けている様にも思えた。
今から思えば、その男性は勤務時間が不規則な仕事にでも就いていて、仕事の合間に走っていたのだろうが。
それとも、まだ幼かった私が知らなかっただけで、その男性は名の知れたマラソンランナーで、本当に一日中、練習に時間をかけていたのかもしれない。
しかし……まるで一日中走っている様に見える事以外に、やはり今から思えばもうひとつ奇妙に思える事は、その男性がいつも胸に№112のゼッケンをつけていた事だろうか。
マラソン大会中なら、ゼッケンをつけているのも当たり前の事だが……あの男性はどうしていつも、№112のゼッケンをつけていたのだろうか。
あのゼッケンに、なにか特別な思い出でもあったのだろうか。
しかしその男性についての事をそれ以上知る事もなく、それから私たち家族は、他の街へと引っ越していった。
私はその街で成人し、そしてどういった運の巡り合わせか、今では私もマラソンランナーに、それもそこそこに名の知れたマラソンランナーになっていた。
私がマラソンをはじめたのは、やはり、頭の片隅に残っていたあの男性の姿も少なからず影響していた。
学校の授業で、自分もマラソンというものをやりはじめた時、私はマラソンなど好きではなかった。嫌いだった。
マラソンとなると、汗だくの、苦しげな、あの男性の表情を思い出してしまい、そして実際、自分の表情もそういったものになってくるのだった。
が、苦しさに走るのを投げ出そうとするとは、またもあの必死で走りつづけていた男性の姿を思い出してしまい、やめる事はいつでもできるのだから、まあせめてあの電柱の向こうまで走ろう、あの鉄橋の向こうまで走ろう、あの交差点の向こうまで走ろう、などとと走り続けてしまい、結局最後まで完走できてしまうのだった。
ランナーズハイ効果もあるのだろうが、汗と疲労まみれの中での完走後の達成感というものは、苦しくはあっても、まあ悪い気はしない。あの男性があんな表情をしながらも、どうして毎日走り続けていたのか、今では私にもよくわかる気がする。
私は自分にマラソンランナーの素質があるなどとは思ってもいなかったが、いつも記録的にはなかなか良かったため、周りの者にすすめられてトレーニングしているうちに、とうとう現在の様な、各大会での、上位入賞侯補者と呼ばれる様になっていた。
そしてついこの前、私はある大会にむけて、その大会が開かれる一ヵ月ほど前から大会会場近くでトレーニングする事になり、その街へと向かった。
そしてその街というのは……なんと、あの男性を毎日眺めていたあの街だった。
それも、私が宿泊する部屋は、私が子供の頃住んでいたあの家の、ほんのすぐ近くだった。
街には私がおぼろげながらも覚えている所がまだいくつも残っていて、トレーニングに街なかを走りながらそれらの眺めを目にして、私は懐かしい様な、それでいてまるで幼い頃の夢でも見ている様な、奇妙な気分にもなった。
そして私は何よりも――まだ幼かった子供の頃そのままの世界を走っているうち、ふと前を見ると、今にもあの男性がこちらの方へと走ってきそうな気がした。
もちろん、あの頃から二十年近くも経ってしまっている今となっては、あの男性が、あの頃のままの姿で、今も同じ様に走っているはずもないのだが。
しかし……そう思いながらも、私は見てしまったのだ。
あの男性を。
あの頃の姿そのままの、あの男性を。
それはこの街へとやってきて、一週間ほど経った頃の事だろうか。
私に影響を与えたあの男性のいた街で、こうしてトレーニングをする事になろうとは、と思いながら、夕食後、暗くなった外を、私が宿泊している五階の部屋の窓からぼんやりと眺めていると……その夜の闇の中を、誰かが走っているのが見えた。
家並みの明かりにぼんやりと照らされて、それは白いランニングシャツに緑のランニングパンツ姿の男性だと私にはわかった。
私はそれに、私と同じ様に、一ヵ月後の大会にむけてトレーニングしている選手だろうかと思った。
そしてその男性が、うす暗い夜道の中の街灯の下へとやって来た時、私は男性の姿をはっきりと見る事が出来た。それは……街灯の明かりに浮かび上がったその姿は――
あの男性だった。
子供の頃に眺めていた、あの男性だった。
それに私はまさかと思い、目を見開きながらも、もう一度その男性を見つめた。
が、男性は再び暗がりの中へと入ってしまい、はっきりと見る事は出来なかった。
そんなばかな。私は思った。しかし……
結局その日は、あれはよく似た姿の人だったのだろうと私は思う事にした。
が、私は翌晩も窓の外を眺めていた。あの男性を見つけるために。
もちろん、私は昨晩のランナーが、あの男性であるはずがないとは思っていた。
白いランニングシャツと緑のランニングパンツなんて、誰でも持っているものだ。
実際、私も持っている?あの男性が今もランニングを続けていたとしても、あの男性の姿が、今も若い時そのままの姿であるはずはなく……
私はそう思いながら、遅くまで外を眺めていた。しかし、その日はあの男性の姿を見る事はなかった。
そしてその三日後。
私はいつもの早朝トレーニングで、街なかを走っていた。
すると、ある十字路にさしかかった時、私の行く先で交差している右側の街路から、誰かが走ってくるのが、私の目の端に映った。それは――白いランニングシャツと緑のランニングパンツの男性だった。
白いランニングシャツと緑のランニングパンツ?
その姿に、私は少しばかりはっとなり、その男性を見つめた。
そしてそれは……その男性は――あの男性だった。
あの男性……そう、あの男性だった。
私はなかば呆然として、私の目の前の交差点へと、私の方へと向かって走ってくる男性を見つめた。男性は……あの男性は、あの頃の姿と少しも変わりはなかった。
あの頃より二十年あまり経ってしまった今となっても、今もあの頃と同じ若い姿で……
肌の艶も筋肉も少しも衰えた様子はなく、頭には白髪もなく、あの白いランニングシャツと緑のランニングパンツの姿で、そしてなによりも、私にはそれがあの男性だと確信せざるをえないもの、そう、シャツの、シャツの胸元にはあの……あのゼッケンが……№112のゼッケンが……
私は目を見開けて男性を見つめた。
そして私の目の前を、右から左へと、あの男性は横切って行った。
これもまた、今も変わらない、あの汗だくの、苦しそうな表情で。
彼を見つめていた私には、彼の足音と、荒い息づかいと、すえた汗のにおいまでもが、はっきりと伝わってきた。
そんなばかな。
そんなばかな……?
私は自分の目の前を走り去って行った彼の背中を見つめ、そして動揺したまま前に向きなおった。
だが、私はろくに前など見てはいなかった。
しかしそういったなかでも、私の足は、私の意思から切り離されている機械仕掛けの道具の様に、ただ右、左、右、左、と前へ繰り出していて、私はまるで乗物にでも乗っているかの様に、立ち止まる事なく、ただ前へ前へと進んでいた。
その日以来、私はあの男性を毎日見かけた。
彼は、私がトレーニングで街なかを走っている時でも、窓の外を眺めている時でも、いつもどこからか走って来ては、私の前を通りすぎてゆくのだった。
私には、彼の走る足音がわかった。彼の足音は、別に特徴的なものではなかったが、しかし、私には彼の足音がわかった。
彼はあの足音とともにどこからともなく現れ、そして私の前を通りすぎ、あの足音とともにどこかへと走り去ってゆくのだった。
メトロノームの様に正確に二拍子を刻んでいるあの足音とともに、いつもいつもいつも……
彼はいつも黙々と私の前を通りすぎて行った。
が、彼を見つめている私に、彼も気づいてはいるようだった。
一度……彼が私の前を横切っていった時、彼の顔を見ると、彼は私の方を見るとはなく、口の端に少しばかりの笑みを浮かべた……様な気がした。
しかしそれはあたたかみのある笑みではなく、行く先を見つめながら浮かべた冷笑の様なものだった。
彼はいったい何者なのだろうか?
私には、子供の頃思っていた様に、彼がこの街なかを延々と走り続けているランナーの様に思えていた。
そう、永遠にただひたすら走り続けているよう、この街に縫い付けられてしまった魂が、亡霊となって現れている様な……。彼はいつも私のそばを通り過ぎて行った。
今や彼と同じく、汗まみれで荒い息をついて走っている私のそばを。
まるで私を挑発しているかの様に。
それによって、自分の存在を私に知らしめている様に。
しかしいったい何を?
彼は私にいったい何を知らせようとしているのか?何を……??
が、彼はいつもただ黙々と、私のそばを通り過ぎて行くだけだった。
そして大会当日。
過去からの奇妙な亡靈に気をとられていたにもかかわらず、私のコンディションは上々な仕上がりだった。
この調子なら上位入賞はまちがいないと、自分でも思えた。
私は他の選手と同じ様に早くから身体をならし、そして大会開始少し前に競技会からゼッケンをもらった。
私はそのゼッケンを手にとって見た。
ゼッケンのナンバーは112番だった。
112?
私は手にとったゼッケンをじっと見つめた。
112??
そう、これは……
あの男性のゼッケン№と同じ――
私は一瞬、その場に立ちつくした。
と、その私の隣に、誰かが立った。
ふとその人物を見ると、何とそれは、あの男性だった。
私は息をのんだ。
その私に、彼ははじめて私を正面から見つめ、そして笑った。
だが、やはりそれはあたたかみのある笑みではなく、何やらぞっとさせられる様な、意味ありげな冷たい笑みであった。
そして彼の胸元に目をやると、いつも白いランニングシャツにつけられてあった、あの№112のゼッケンを、今日はつけていなかった。
スタートラインの方で、「選手は整列して下さい」とメガホンで言っている、競技会の役員の声が聞こえてきた。
彼はそれに、私にくるりと背をむけて、ぞろぞろと集まってゆく他の選手たちの中へと入って行った。
私はその彼の後を追う様に、スタートラインへと歩いて行った。
スタートのピストルが鳴った。
私たちはいっせいに走りだした。まるで生きている大きな黒い波の様に。
彼は私のすぐそばを走っていた。そしていつもの様に、彼はなんなく私に背中を見せて、私の前を走り去っていった。
私は彼を追いかけた。
大会の事なんて、もう私の頭の中からは消え去っていた。
追いつこうとしている私をまったく寄せつけず、彼はどんどん先へと進んでゆく。
そして彼は他の選手たちとも大きく間をあけて、とうとう一番先頭へと躍り出て、しかしそれでもなお彼は軽々とした足取りで差をひろげ続け、最後には姿が街並みの中に見えなくなってしまった。
まるで目指しているゴールが、私たちとはちがうところにでもあるかの様に。
そして彼のその後ろ姿は、今まで見ていたなかで、なぜか一番嬉々とした力強い躍動感にあふれていて、私たちを引き離すためではなく、他の何かから解き放たれて、それでぐんぐんと走り去って行ったかの様に思えた。
他の選手たちはその彼に気付いてもいない様だった。
が、私はその彼を追って、序盤では飛ばしすぎなほどのハイスピードで、走りつづけた。
走って、走って、走って……
しかし、それがいったい何になるというのだろう?
先をゆく彼に追いついて、いったい何になるというのだろう?どうしようというのだろう?
私にはわからなかった。
だが私は走りつづけた。彼を追って。
周りの街並みは私の背後へと飛びすさり、ただ目の前に広がっているのは、彼の元へと続いている道だけだった。
私は早くも荒い気をつき、汗まみれの、苦しげな表情で、ただひたすら道を走り続けていた。
他の選手たちの姿は、もうずっと後方に遠ざかっていた。
私の周りにあるのは、私の耳と頰をかすめてゆく風の音だけだった。
それ以外は、街並みも、街のなかをゆく人々も、みな無表情で、私のそばを後ろへと流れてゆくのだった。
そしてこれだけのものに囲まれていながら、いつの間にか私は世の中にたったひとりでいる様な気分になってきた。
誰も私に気付かない。気付いてくれない。誰も……。
ただただひたすら走りつづけ、その中から抜け出す事が出来ない……止まらない。
止まらない。止まらない、止まれない、止まれない、もう自分で止まる事が出来ない。
まるで昔の、傷のいったレコード盤の様に、永遠に……?
そう、私の足は、足自身が意思でも持っているかの様に、くたびれはてても立ち止まる事なく、ただ走りつづけていた。
まるで私の腰から上を、荷物扱いにでもしているかの様に。
走る、走る、走る、ただ走る。
まるで他人の足の様に。機械仕掛けの人形の足の様に。
ただひたすら前へと進む事しか出来ない様に。
しかしこの足は、私をいったいどこへと運んで行くつもりなのだろう?
彼の姿はまだ見えない。そしてゴールさえも。
彼に追いつき、追い越したら、私はここから開放されるのだろうか?
それともゴールしたら?それとも、この№112のゼッケンをむしりとって、彼に突き返したら?
私の周りでは、街並みはゆっくりと姿を変えていっていた。
真っ青の晴天だった空はやがて夕闇へと変わってゆき、そしてなんと夜になっていった。
が、それもやがてはまたぼんやりと明るくなってゆき、きらめく朝の光が目の前の道の上にふりそそぎはじめた。
そしてまたも空は真昼の空となってゆき、街は人々のざわめきにつつまれだし……
しかし、その誰もが私に気付かない。誰も。
ああ、なんて事だろう。
これはもうまともな場所であるはずがない。
彼を追って、とんでもないところへと入り込んでしまった?
そして彼は今頃、私よりも遙か遠くの、まともな世界へと走り去ってしまったにちがいない。
私をこの世界へと置き去りにして。
もちろん彼にはわかっていたのだ。何もかも、はじめから。
彼は自分の代わりを探していたのだ?
この延々と続く、ゴールというもののない道を走りながら。
そして彼は私を見つけたのだろう。
あのぞっとさせられるような冷笑には、そういった意味が込められていたのだろう。
そして彼の代わりに、今度はこの私が、この世界を巡らなければならなくなってしまったのだろう……
ああ、私は気がふれてしまったのだろうか?
いいや、狂っているのは、やはりこの世界の方だ?
走っても走っても出口の見つからない、この異様な世界の方だ?
まるで、耳障りな不協和音を奏で続ける、壊れて止まらなくなってしまったオルゴールの様な。
と、その、時間も街並みも人々も凍りついてしまったかの様な中で、私は自分を見つめている視線にふと気付いた。
私はその視線の方を振り向いた。そこには……
通りすぎてゆく街並みのなかの、ある一軒の家の窓の向こうから、子供が……一人の子供が、私の方を見つめていた。
無表情な人々の中で、その子供だけが、私に気付いてくれていた。
その子供は、塀と庭をはさんだ窓の向こうから、じっと私を見つめていた。
ああ、誰でもいい、誰か私をこの世界から助け出してくれ。
私は思った。
私の代わりをやってくれとは言わない。
ただ、ひょいと手をのばして私の腕を掴んで、私をここから引っ張り出してくれ。
誰でもいいから、この№112のゼッケンを胸からむしり取って、私をこの狂った道の上から開放してくれ。誰でも、誰でもいいから……
そう、あの子でもいいから。
そう思いながら、私はあの子供のいた家の方へ行こうと、くるりと角を曲がった。
ここから抜け出せるようになるまで、何度でも何度でも、あの家の前を、あの子供の前を走り抜けよう……
私は思った。




