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冬麗(とうれい)の光射す喫茶店 ― ひと冬の奇跡 ―  作者: ちとせ鶫
序章 ―― 老いた男の独白

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第0話 序章 光の在りか

失われた場所は、消えたあとも光だけを残します。

届かない相手へ向けて、人は何度も同じ記憶を見返してしまう。

冬の朝の反射は、ときどき忘却より長く残り続けます。

 カウンターの上の写真立てが、

 今もどこかで光を受けているかもしれない、と男は思う。

 ガラスの額縁が冬の斜光を跳ね返し、その反射が木の板目を白く焼いている——

 そういう朝が、まだ地上のどこかにあるかもしれない、と。


 あなたはもう覚えていないだろう。


 あなたには、覚えていない時間のほうが圧倒的に長い。

 消えている間、あなたには何もない。


 朝も、

 冷気も、

 焙煎の香りも、

 石畳を走る光の線も、

 何ひとつ届かない場所にあなたはいる。

 だからこれは、届かない方向へ向けて語ることになる。


 冬の朝だった。

 それだけは確かだ。


 高層ビルのガラスが光を跳ね返している。

 等間隔に並んだ窓が、朝の太陽を小さく四角く切り取って、

 地面に散らばらせている。

 石畳ではない。

 コンクリートの平滑な床面。

 光が滑って、どこにも届かず消える。


 男は立っている。

 マフラーの端を、冬の乾いた空気が引っ張る。


 どこからか、コーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。


 どこからか、というのは正確ではない。

 香りに方向はなかった。

 鼻腔の奥で、唐突に焙煎の底の苦みが燃えた。

 湿度を含んだ湯気の温度が、喉の手前まで届いた。

 次の瞬間には消えていた。


 風がなかった。


 男の網膜の内側で、何かのピントが一瞬合いかけて、外れた。


 白い金属板の囲いが、かつてそこにあったものを四角く切り取っている。

 プレートに文字が印刷されている。

 男はそこまで読まない。

 読む前に、目が他のものを探している。


 扉の木目。

 引き戸の溝に積もった砂。 

 カウンターに走る冬の斜光。


 そのどれも、今の視界にはない。


 コンクリートの床に、ガラスの反射が四角く落ちている。

 光は届いている。

 ただ、写真立てがない。

 写真立てがなければ、光はただ地面を温めるだけで、何も始まらない。


 あの冬のことを、と男は思う。


 語りたいわけではない。

 語る相手もいない——正確には、語っても届かない相手しかいない。

 それでも、網膜の奥に像が残っている。

 焼き付いた像は、光が当たるたびに浮かび上がる。

 今日の朝も、ガラスの反射がその縁をなぞった。


 あなたはもう覚えていないだろう。


 それでも、あの冬のことを。

覚えている側と、もう覚えていない側。

その断絶の中でも、光だけは何度でも同じ輪郭を浮かび上がらせます。

写真立てのない場所で、男はまだ“始まってしまう朝”を見続けています。

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