第9話 王都へ、ふたりで
【ライラ・ヴァルトラウテ】
北の街アルゼルムでの滞在も、二週間が過ぎようとしていた。
新しい薬酒の試作も順調に進み、クルト氏との商談もまとまった。そろそろ王都へ戻る準備をしなければと考えていた、そんな夜のことだった。
「ライラ殿、近々、王都へ戻られると伺いました」
宿の談話室で、レオンハルト氏が穏やかな声で私に話しかけてきた。この街に来てから、私たちは何度か顔を合わせ、言葉を交わすうちに、すっかり気心の知れた友人のようになっていた。
「ええ。そろそろ工房のことも気になりますし」
「失礼ながら、お一人で?」
「はい、そのつもりですが……」
私の答えに、彼は少しだけ眉を寄せた。
「この時期の北街道は、雪解けでぬかるみ、決して安全とは言えません。よろしければ、私が王都までお送りするのはいかがでしょう。私も、ちょうど戻るところですので」
彼の申し出は、自然で、心からの気遣いに満ちていた。
(この人なら、大丈夫かもしれない……)
警戒心よりも、彼がくれる安心感のほうが、いつの間にか大きくなっていた。私は素直に頷いた。
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
◆ ◇ ◆
二人での旅は、驚くほど穏やかで、心安らぐものだった。
昼間は他愛もない話をしながら馬を進め、夜は道端で小さな焚き火をおこして、温かい食事をとる。
「君は、なぜ薬酒師に?」
ぱちぱちと爆ぜる炎を見つめながら、彼がふと尋ねた。
「……子供の頃、病気の母に、何もしてあげられなかったんです。薬師様を呼ぶお金もなくて。だから、自分の手で、誰かを救える力が欲しかった。お酒という形なのは……それが、人の心を一番正直に、温かくしてくれると思ったからです」
誰にも話したことのなかった、私の原点。けれど、この人になら話してもいいと思えた。
彼は黙って私の話を聞いた後、静かに言った。
「その想いは、本物だ。君のような職人が正当に評価されないのは、この国の大きな損失だ」
その言葉は、どんな賛辞よりも深く、私の心に染み渡った。
◆ ◇ ◆
数日後、私たちはようやく王都の城門へとたどり着いた。見慣れた街並みに、ほっと息をつく。
「レオンハルトさん、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、心強い旅でした」
私が感謝を述べた、その時だった。
城門を警備していた一人の衛兵が、彼の姿を認めるなり、はっとした顔で駆け寄ってきた。そして、寸分の隙もない完璧な敬礼と共に、声を張り上げる。
「シリル殿下! ご無事のお戻り、何よりにございます!」
「……え?」
シリル? 殿下……?
私の思考が、完全に停止する。衛兵たちの緊張した面持ち。周囲の人々の畏怖の視線。そのすべてが、一人の人物に向けられている。私の隣にいる、レオンハルトさんに。
私は、震える声で、ようやく言葉を絞り出した。
「……殿下、って……。レオンハルト、さん……あなたは、まさか……」
彼は、困ったように、けれど穏やかな笑みを浮かべて私に向き直った。
「すまない。少し名前を伏せていたこと、謝罪するよ、ライラ殿」
そして、彼は続けた。その声は、焚き火の前で話してくれた時と同じ、優しい響きを持っていた。
「身分を隠していたのは、君という薬酒師の持つ力と、その信念を、何の先入観もなく、この目で確かめたかったからだ。君は、私が思った通りの……いや、それ以上に素晴らしい職人だった」
(この人が、王子……? しかも、最初から私のことを……)
あのダメ王子、レオナールとはまるで違う。気品も、知性も、そして、人を見る目も。
目の前にいるのは、アストレイン王国第二王子、シリル・フォン・アストレイン。
私の生き方を、誰よりも先に認めてくれた、優しい旅人だった。