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第5話 王子に捨てられた女、って呼ばれるのだけはイヤ

【ライラ・ヴァルトラウテ】


 早朝の王都には、パンの焼ける香ばしい匂いや、石畳を転がる荷車の音が満ちている。


 私は肩掛けのバスケットを手に、いつもの市場へと足を向けていた。薬草棚の在庫が心許なくなってきたのと、果実酒の仕込みに使うための新しい果物を試したいと思ったからだ。


 空はまだ青みを帯びた淡い灰色で、通りにはほんの少しだけ、昨日の雨の名残が光っている。肌を撫でる朝の冷気が、心地よく身を引き締めてくれるようだった。


(……今日こそは、ちゃんと前を向いて歩こう)


 そう、何度目かになる誓いを胸に、私はゆっくりと歩き出す。


◆ ◇ ◆


「おや、ヴァルトラウテ嬢。朝から精が出ますな」


 市場の入り口で一番に声をかけてくれたのは、いつも陽気な果物屋のロッシュさんだった。


「おはようございます。ロッシュさん、今日はラズベリーは入っていますか?」


「おお、ちょうど良いのが入ったところですよ。見てください、この良い粒揃い。……おや、手が少し冷えてますね。裏で熱いお茶でも淹れましょうか?」


 ロッシュさんは、私の手を取りながら心配そうに眉を下げた。その優しさが、じんわりと心に染みる。


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です。今日は気持ちがちゃんと、温かいので」


 そう答えると、彼は何かを察したように、ふっと顔をほころばせた。この老店主との気取らないやりとりは、まるで止まっていた日常が、また静かに動き出したことを教えてくれるようだった。


 少し前なら、こんな何気ない会話すら、胸がずきりと痛んでしまっていた。何もなかったふりをすることすら、息が詰まるほど苦しかった。


(でも、今は違う)


 昨日の夜、知らない誰かが私の造ったお酒を「美味しい」と笑ってくれた。それは、傷ついた心をそっと繕ってくれる、優しい魔法のようだった。


 なのに――


「ねえ、聞いた? あの王子さま、例の婚約を破棄したんですって」


「え、まさかあの薬酒師の娘のこと? すごい才媛だって評判だったのに」


「そうそう。でも、やっぱり出自がアレだから……。平民が王子の妃になるなんて、土台無理があったのよ」


 通りの角を曲がったところで、井戸端会議に花を咲かせる女たちの声が、無遠慮に耳に飛び込んできた。


 途端に、足が鉛のように重くなる。まるで自分の影が、あの日の謁見の間の形に伸びて、足首に絡みついてくるみたいだった。あの手紙が、あの言葉が、今も私の後ろで擦れて、嫌な音を立てている。


 けれど、私は立ち止まらなかった。ぎゅっとバスケットの持ち手を握りしめ、まっすぐ、前だけを見て歩き続けた。


(私は、王子に捨てられた女じゃない)


(誰かの肩書きや庇護で、自分の価値を決めていたわけじゃない)


 そう強く思おうとするほど、心のどこかが、軋むように小さく悲鳴を上げた。


◆ ◇ ◆


 商人ギルドの近くにある広場で、私はひと休みを兼ねてベンチに腰を下ろした。バスケットの中には、朝露に濡れた真っ赤な果実と新しい香草、それからロッシュさんが「おまけだよ」と、そっと忍ばせてくれた干し果物の袋が入っている。


 ぼんやりと噴水を眺めていると、近くで話している若者たちの声が、ふと耳に届いた。


「なあ、この間の陽だまり酒、マジでうまかったよな!」


「だろ? あれ、ただの果実酒じゃなくて薬酒なんだってさ。なんでも、職人街のどこかの工房で、一人の職人さんが造ってるらしいぜ」


「薬酒であの味が出せるなんて、天才すぎるだろ。今度の休みにでも、工房を探してみようかな」


 ――胸の奥が、きゅっと熱くなった。


 さっきの冷たい噂話より、今のたった一言のほうが、ずっと深く、私の心に突き刺さってくる。けれど、それは少しも痛くはなかった。視界が滲みそうになったのは、たぶん、どうしようもなく、嬉しかったから。


(ありがとう)


 思わず、そう呟きそうになって、私は唇をきゅっと結んだ。


 顔も知らない彼らに、ちゃんと「届いて」いた。私の名前がまだ正しく伝わっていなくても、私の造ったお酒は、誰かの心に小さな明かりを灯せている。


 王子に捨てられたとか、平民がどうとか、そんなことは、もう関係ない。


 私は、私の作ったものの価値で――もう一度、私の名前をこの街に刻んでいく。


◆ ◇ ◆


 その日、工房に戻った私は、休む間もなく新しい果実酒の仕込みに取りかかった。


 バスケットから取り出したラズベリーと、温かみのある香りのシナモン。それに、気力を高める薬草をほんの少しだけ。甘さとぬくもりの奥に、凛とした意志のような強さを感じさせる、そんな一杯を。


「今度のお酒の名前は……そうね、『赤い約束』、なんてどうかしら」


 私は真新しい瓶のラベルに、震えのない、しっかりとした筆跡でその名を走らせた。


 これは、誰かと交わした脆い契約じゃない。私自身と交わす、未来への約束だ。


 もう、誰にも奪われたりしない。


 この手で造るお酒も、この手でつかむ未来も、全部――私のものなのだから。

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