第4話 兄王子、怒る 〜それはただの破棄ではなく、侮辱だった〜
【シリル・フォン・アストレイン】
玉座の間に通された薬酒師の女性――ライラ・ヴァルトラウテを一目見て、私はそれが父王の拙速な判断ではなかったことを理解した。
彼女は、豪華絢爛な謁見の間に臆することなく、まっすぐに背筋を伸ばして立っていた。その瞳には、己の仕事に対する誇りと、揺るぎない知性が宿っている。そこいらの着飾っただけの貴族令嬢たちとは、明らかに違う空気をまとっていた。
(あれが、今、王都で噂の……)
弟の妃として不足はない。むしろ、あの愚かな弟には過ぎた器量だろう。そう判断した矢先だった。静まり返った謁見の間に、レオナールのふざけた声が響いたのは。
「婚約の話は、やっぱりなかったことにしようと思ってさ。平民にしては上出来だったけど、やっぱりうちの妃には……ね?」
そのあまりに軽い言葉に、場にいた誰もが一瞬、呼吸を忘れた。私は思わず、玉座の横で組んでいた腕を解き、足を止めた。
(……これは、まずいな)
父が結んだ契約を、ただの子供の気まぐれで反故にするというのか。私は立ち上がり、弟の横に一歩進み出た。
「レオナール」
静かに、しかし、怒気を込めて名を呼ぶ。その声に含まれた冷たさに、弟はようやくこちらを向いた。
「兄上、これは私の問題です。口を出される筋合いは――」
「違う。これは、王家の名誉にかかわる話だ」
私は冷たく言い放ち、弟の愚かしい顔をまっすぐに見据えた。
「お前は、あの方がどのような思いで今日この場に来たのか、わかっているのか。我々が提示した契約とは何か、信義とは何か、それすら理解せずにその口を開いたのか?」
レオナールはむっとした顔をして、言い返そうとするが、言葉が続かない。
「ただの平民だと? そう決めつけたのはお前だ。だが、私は見たぞ。彼女のあの目を。あの気高さを。どれだけの時間と努力を費やして、あの薬酒を生み出したのか――あの一滴に込められた信念を、お前は何も感じなかったのか」
「兄上……!」
「お前は、彼女一人を侮辱しただけではない。王家の申し出を、一人の職人の人生を、そして何より、お前自身の品格を、地に貶めたのだ」
私はもう一歩、弟に近づいた。彼の陽光のような金色の髪と、私の夜闇のような暗い栗色の髪が並ぶ。年子の弟とはよく似ていると評されるが、その性根はまるで違うと、今ほど痛感したことはない。
「レオナール、お前は自分が『選ぶ立場』にあると勘違いしているようだが……王たる者は、まず『信頼されること』の重さを知れ。権力とは、信義に裏打ちされたとき初めて価値を持つ。お前のそれはただの我儘だ」
レオナールは悔しそうに目を伏せ、何も言い返せなかった。
◆ ◇ ◆
謁見の後、私はひとり回廊を歩いていた。
西の窓から差し込む夕暮れの光が、磨かれた大理石の床に、私の影を長く伸ばしている。足音を殺して近づいてきた侍従の一人が、そっと声をかけてきた。
「シリル殿下、先ほどのご婦人は……薬酒師ライラ様は、何も言わず、静かにお帰りになられました」
「……そうか」
私は、ほんの短い間しか彼女と言葉を交わしていない。いや、言葉すら交わしていない。だが、その短い時の中に、確かに“何か”を感じ取っていた。
彼女の背筋は、最後までまっすぐだった。その瞳は、決して逸らされることはなかった。あれは、誇りを知る者の目だ。
あのとき――
玉座の上から、弟が婚約破棄を告げるその瞬間、彼女はただ静かに、懐から取り出した薬瓶を掲げるようにして、こう言ったのだ。
『この薬瓶の中には、私の努力と未来が詰まっております。……大変申し上げにくいのですが、契約不履行をされたあなたのために、この価値ある品をお渡しすることはできかねます』
その言葉は、美しく、そして恐ろしいほどに真っ直ぐで、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
私は、ふと歩みを止めた。
開け放たれた窓から吹き込む風に乗って、微かに甘く、そして清らかな香草の香りが漂ってくるような気がした。きっと、彼女が残していった香りだ。
(あれを手放したのが、我が弟でよかった。……私ではなかったことが、幸いだ)
そして私は、誰に聞かせるともなく、小さく呟いた。
「ヴァルトラウテ……薬酒師ライラ。君の名は、いずれ、この国に深く刻まれることになるだろう。弟ではなく、私が先に、そう認めていたと……君がいつか知ってくれるなら、それでいい」
そう思えたのは、なぜだろうか。
――ただの、王族としての関心なのか、それとも……。
だが今は、その感情を言葉にするには、まだ早すぎる。
私は再び歩き出す。王太子としてではなく、一人の男として、その名を確かに胸に刻みながら。