第3話 夜の酒場と、偶然の一杯
【ライラ・ヴァルトラウテ】
その日の夕方、私は久しぶりに外の空気を吸いたくなって、ふらりと工房の扉を開けた。
昼の間は、山と積まれた果実と薬草の整理に没頭していた。けれど、夕暮れの鐘が王都に響き渡る頃になると、不意にどうしようもない寂しさが胸のあたりをきゅうっと締め付け始めた。ひとりでこの静かな工房にいるには、昨日までの私より、ほんの少しだけ心が元気になりすぎていたのかもしれない。
(……たまには、外で夕食でもいいかも)
そう思って、特に当てもなく足の向くまま歩いていると、いつの間にか王都西部の「職人街」と呼ばれる通りに出ていた。昼間は鍛冶の音や織機の響きで賑やかなこの通りも、夜になると人通りはまばらになり、気取らない酒場や食堂が通りのあちこちに柔らかな灯をともす、穏やかなエリアだ。
その一角に、ひっそりと佇む小さな木造の酒場を見つけた。古びた看板には、丸いぶどうの房と、ふっくらとしたワイングラスが楽しげに描かれている。
(たしか、フラゴラ亭……だったかしら)
名前だけは、噂で聞いたことがあった。店主のセンスは少し独特だけれど、出す料理と酒はなかなか評判がいい、と。今日の私には、ちょうどいいかもしれない。賑やかすぎず、静かすぎず、人の温もりが感じられる場所。
私は意を決して、少し重たい木の扉を押し開けた。
◆ ◇ ◆
カラン、とドアベルが心地よい音を立てる。中は、柔らかなランプの灯りと、煮込み料理の美味しそうな匂いに満ちていた。使い込まれて艶の出た木の壁に囲まれたこぢんまりとした店内には、常連らしき人々が数人、カウンターと奥のテーブル席に点々と座り、静かにグラスを傾けている。
「いらっしゃい。おひとりさん?」
厨房から顔を出した店主の女性が、人懐っこい笑みを向けてくれた。四十代くらいだろうか、快活そうなその人柄に、少しだけ緊張がほぐれる。私は軽く会釈をして、「ええ、夕食と、軽く一杯いただきたくて」と答えた。
「あら、いい時に来たわね。ちょうど、うちの新しいお酒が開いたところなんだ。良かったら、少しだけ試していく?」
「……新しいお酒、ですか?」
「ええ。誰が造ったのかは分からないけど、職人街の卸屋さんが『面白いものが入った』って、こっそり回してくれたのよ。香りがすごく良くてね。甘いけど、後味はすっきりしてる。なんだか不思議な薬草の風味があるの」
(……え?)
店主が差し出してくれた小さなグラスには、澄んだ薄琥珀色の液体が静かに揺れていた。
グラスをそっと鼻に近づけた瞬間、私の心臓が、どくんと大きく音を立てた。
(これ……この香りは……)
――間違いない。
これは、私が半月ほど前に仕込んだ薬酒だ。販路を探るため、小さな卸問屋に試験販売として数本だけ卸した、大切な試作品。まさか、こんな場所で出会うなんて。
「さ、飲んでみるといいわ。ちょっと変わってるけど、癖になる味よ」
すすめられるまま、私は震えそうになる指でグラスを口に運んだ。
香草と熟した果実の、丸みを帯びた優しい香り。舌の上でほどける、蜂蜜のような、ほんの少しの甘さと心地よいアルコールの熱。その味は、まさしく『自分の手から生まれたもの』そのものだった。
――そして、背後のテーブル席から聞こえてきた声が、それに確信を与えてくれた。
「なあなあ、親父さん。この酒、やっぱりうまいよな。なんて名前なんだ?」
「さあな。ラベルも何もなかったからな。けど、造ってるのは腕のいい薬酒師だって話だぜ。ええっと、名前は……ヴァルトラウテ……だったか?」
「最近、腕利きの職人たちの間でちょっとずつ噂になってるらしいぞ。王都の南の方に工房があるって、聞いたが」
(……)
私は、手の中のグラスを見つめたまま、そっと唇を引き結んだ。
誰にも気づかれずに、たった一人で造ってきたお酒が、こうして誰かの食卓に届いて、名前も知らない人たちの口から「おいしい」と言われている。
それだけのことが、どうしようもなく、胸にじんわりとしみた。
「気に入ったかしら? 名前も分からないから、うちでは『陽だまり酒』って呼んでるのよ。なんだか、心がぽかぽかする味だから」
「……ええ。とても、素敵な名前ですね」
私はそう答えながら、胸の奥で小さな炎が、静かに、でも確かに灯るのを感じていた。
大丈夫。私の酒は、ちゃんと届いている。
たとえ、まだ名前を知られなくても。
たとえ、王家にその価値を拒まれても。
この街のどこかで、誰かがこうして「おいしい」と飲んでくれるなら、私はまだ、この場所で、薬酒師として生きていける。
――だから、明日はもっと甘くて、もっと強いお酒を造ろう。
いつか、私の名前が、この温かい陽だまりの中に、もう一度ちゃんと届くその日まで。




