第2話 工房にて、酒と未来の仕込みを
【ライラ・ヴァルトラウテ】
工房の扉を閉めると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。
ほのかに鼻をくすぐる、甘い薬草の香り。踏みしめるたびに優しく軋む、古い木の床。天井近くの棚に整然と並ぶ、大小様々なガラス瓶たち。いつもと変わらないはずのこの空間が、今はどうしてか、ひどく冷たく、まるで他人の家のように感じられた。
(……帰って、きちゃった)
心のどこかで、まだあの謁見の間にいるような、ふわふわとした感覚が抜けない。私は深く息を吐きながら、腰から旅用の外套を脱ぎ、壁にかけられたフックに力なく引っ掛けた。いつもは仕事に入る前の、心を整えるための習慣。なのに今日は、その布一枚ですら、ずしりと重たく感じられた。
カウンターの奥に進むと、磨き込まれた作業机の上に、朝仕込んだばかりの薬酒の瓶が静かに佇んでいた。琥珀色の液体が、西日に染まった窓辺でゆらりと揺れる。
私はその瓶を、祈るようにそっと両手で包み込んだ。
この中には、私の技術が詰まっている。五年間、この王都で必死に積み重ねてきた努力の証。そして……私が、未来を賭けた婚約の、対価となるはずだったもの。
「……馬鹿みたい」
乾いた笑いが、唇からこぼれた。王太子との契約は白紙。婚約も、研究支援も、すべては幻になったのだ。私はその瓶を、まるで大切なものを壊してしまわないように、そっと棚の奥に戻した。
もうひとつ、やるべきことがあった。カウンターの一番奥の引き出しを開ける。中には、王家の紋章が刻まれた、あの婚約の申し出の手紙が眠っていた。破り捨てることも、暖炉に放り込むことも、なぜか気が引けていた一枚の羊皮紙。
でも今日は、できる気がした。
私は空の薬酒瓶を一つ取り出し、その中にそっと手紙を丸めて押し込む。コルクで固く封をし、魔術式の刻まれた熱い封蝋を、祈りを込めて押し当てた。ジュッ、と小さな音を立てて、私の過去が封じられていく。
「これで、おしまい」
王家との縁も、私の淡い期待も、この瓶の中で終わりにする。手放すための儀式。次に進むための、ささやかな通過儀礼だった。
ふと、扉に付けた真鍮のベルが、チリンと澄んだ音を立てた。
「おっと、ごめんよ、開いてたかい?」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、近所の雑貨屋を営む女性――ベラさんだった。少し丸めがちな背中と、いつも好奇心で輝いている瞳。年のころは五十を過ぎたくらいだろうか。王都に出てきたばかりの頃、路地裏で行き倒れかけていた私を助けてくれた、大切な恩人だ。
「あら、ベラさん。こんにちは」
「はい、こんにちはじゃないよ。また何かあったんでしょ? あんたの顔が全部語ってる」
「……そんなに、分かりやすいですか?」
私が力なく笑うと、ベラさんは「そりゃあねぇ」と言いながら、皺の刻まれた手で私の頬を優しく撫でた。
「あんたは嬉しいときは目がきらきらするし、悲しいときは捨てられた猫みたいに、しょんぼりするからね。で、今日はどっちだい?」
「……猫のほう、です」
「やっぱりかい。ほら、これでも食べなさいな」
そう言って布の包みから取り出してくれたのは、まだほんのりと温かい、大きな干しぶどうパンだった。香ばしい小麦の匂いに、思わずお腹が小さく鳴る。
「今日はちょうど焼き立てでね。どうせ、あんたは昼もろくに食べてないんだろうと思ってさ」
「ええ……まあ、ちょっと、食欲が」
パンを受け取り、一口かじる。ふわりとした生地の優しい甘さが舌に広がった瞬間、ずっと張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた気がした。こんなときに、こんなに優しい味はずるい。
「……ありがとう、ございます」
俯いた私の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「礼なんていいのさ。泣きたいときは、思いっきり泣きな。パンは逃げやしないから」
そう言って悪戯っぽく笑うベラさんの顔が、涙で少しだけ滲んで見えた。
◆ ◇ ◆
それから小一時間、ベラさんは他愛もない世間話に付き合ってくれた。隣のパン屋の新作がどうだとか、市場の野菜が安かったとか。その何気ない会話が、ささくれだった私の心を少しずつ癒やしてくれた。
ベラさんが帰っていくと、ひとりきりの工房に、パンの甘い残り香と静寂が戻ってきた。私は椅子から立ち上がり、大きく一度、深呼吸をする。そして、薬草が並ぶ棚へと手を伸ばした。
「やらなきゃ、ね」
次の試作に使う予定の果実と薬草を、手際よく選んでいく。その時、私はようやく、自分の指先からあの嫌な震えが消えていることに気づいた。
まだ私は、この街で生きていける。誰かの優しさを受け取って、温かいパンの味を知っているなら、きっと、大丈夫。
私は新しい空の瓶を一つ手に取ると、そこに未来の自分を重ねるように、静かに呟いた。
「明日は、もっと甘くて、もっと強いお酒を造ろう。誰のためでもない、私の未来のために」