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第11話 王子様と薬酒師、その距離はまだ一杯分

【ライラ・ヴァルトラウテ】


 工房の机の上には、真新しい羊皮紙と、インク壺、そして羽ペンが、主の言葉を待って静かに佇んでいた。けれど、私の手は一向に動こうとしない。


 書きかけては丸めて捨てた紙の塊が、屑籠から小さく溢れている。もう、これで五枚目になるだろうか。第二王子宮から届けられた、シリル殿下からの手紙。その返事を、私はもう二日も書けずにいた。


(どう、書けばいいんだろう……)


 『レオンハルトさん』と旅をした日々の記憶は、今も胸の奥で温かい光を放っている。焚き火を囲んで交わした言葉。私の過去を静かに受け止めてくれた、あの優しい眼差し。けれど、その思い出の上に、『シリル殿下』という、あまりにも重い身分がのしかかってくる。


 あの傲慢なレオナール王子の兄。私とのささやかな約束を、気まぐれに踏みにじった王族の一人。


 優しかった旅人と、冷たい現実。二人の彼が、頭の中でうまく繋がらない。信じたい気持ちと、疑ってしまう気持ちが、心の中でぐるぐると渦を巻いていた。


 私は結局、また何も書けないまま、手紙を机の引き出しの奥へとしまい込んだ。


◆ ◇ ◆


「ちょっとライラ! また眉間に深い谷間ができてるじゃないか」


 ガタン、と勢いよく工房の扉を開けて入ってきたのは、両手に大きな紙袋を抱えたベラさんだった。その顔を見るなり、私は思わず苦笑いを浮かべる。


「ベラさん……こんにちは」


「はいはい、こんにちは。ほら、これでも食べな。悩み事があるときは、まず腹ごしらえからって決まってるんだよ」


 そう言ってカウンターに置かれたのは、焼きたての香ばしい匂いを放つ、大きなパンの数々だった。


「……いつも、すみません」


「礼なんていいのさ。それより、あんたのその顔。今度はどんな立派な石ころにつまずいたんだい?」


 ベラさんの言葉に、私は俯いたまま、ぽつりと呟いた。


「……石ころ、じゃないんです。すごく、優しくて……温かい人、でした。でも、その人が、私が一番会いたくないと思っていた場所にいる人だったんです」


「ふうん。それで? あんたはその人の肩書きが嫌なのかい? それとも、その人自身が嫌になったのかい?」


「……それは……」


 核心を突く問いに、私は言葉を詰まらせた。嫌いになれたら、どんなに楽だろうか。でも、雪の街で出会った彼の、あの誠実な瞳を思い出すと、どうしてもできなかった。


 そんな私を見て、ベラさんはふう、と一つ大きなため息をつくと、皺の刻まれた手で私の手をそっと握った。


「いいかい、ライラ。人を好きになるのに、肩書きなんてものは必要かい? 王様だろうが、パン屋だろうが、その人がどんな人間かなんてのは、あんたの心が一番よく知ってるはずさ」


 ベラさんは、もう片方の手で私の肩を優しく叩いた。


「あんたの手は、薬酒を造る手だ。人を癒やして、温めるための手だよ。その手が、心が、『この人だ』って思うなら、それでいいじゃないか。難しく考えなさんな」


 その言葉は、まるで魔法のように、私の心に絡まっていた見えない糸を、ふわりと解きほぐしてくれた気がした。


◆ ◇ ◆


 ベラさんが嵐のように去っていった後、工房にはパンの温かい香りと、静寂が戻ってきた。


 私は深呼吸を一つすると、もう一度、机の引き出しに手を伸ばそうとした。今度こそ、素直な気持ちを手紙に綴れるかもしれない。


 その時だった。コン、コン、と今度は控えめで、けれどはっきりとしたノックの音が扉を叩いたのは。


 私が扉を開けると、そこに立っていたのは、紛れもなく、私の心をかき乱すその人だった。


「……シリル、殿下……」


「突然すまない。手紙の返事がないものだから、つい、心配になって来てしまった」


 旅の時と同じ、穏やかな声。けれど、その服装は上質な貴族のもので、やはり彼は、私の住む世界とは違う場所にいるのだと実感させられる。私は彼を工房の中へと招き入れた。カウンターを挟んで、二人の間に静かな、少しだけ気まずい空気が流れる。


 沈黙を破ったのは、彼の方だった。


「ライラ殿。君にとっての私は……今、レオンハルトなのかな? それとも……第二王子シリル、だろうか?」


 まっすぐな問いかけだった。私は一度、ぎゅっと目を閉じる。そして、ゆっくりと息を吸い込み、薬酒師としての自分を取り戻すと、静かに顔を上げた。


「私の造るお酒を、身分や名前で判断なさるのでしたら、私はもう、貴族の方とお会いすることはできません」


 私の言葉に、彼の目がわずかに揺れた。


「でも……もしあなたが、あの雪の街で出会った旅人のまま、私の薬酒を飲んでくださるというのなら。ほんの少しだけ、お話ししてもいい、と……そう、思います」


 それは、私の精一杯の答えだった。薬酒師としての誇りと、一人の人間としての、小さな願い。


 すると、彼はふっと息を漏らし、まるで困った子供のように、優しく微笑んだ。


「そうか。……では、僕の本当の名前を、君が決めてくれても構わないだろうか。君がそう呼んでくれるなら、僕は今日、ただの旅人になろう」


 その言葉に、強張っていた私の心から、ふっと力が抜けていくのが分かった。


 私は、ほんの少しだけ口元を緩めて、目の前の優しい旅人を見つめ返した。


「……では、今日だけは、レオンハルトさん、で」


 私の答えに、彼は満足そうに頷いた。


 まだ、私たちの間の距離は、グラス一杯分よりもずっと遠いのかもしれない。けれど、確かに何かが、ほんの一歩だけ、近づいた気がした。


 私はゆっくりと棚に手を伸ばし、新しい薬酒の仕込みに使う、小さな果実の瓶を一つ、手に取った。次に彼に飲ませるお酒は、きっと、もう少しだけ素直で、温かい味になるだろう。そんな予感がしていた。

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