第10話 もう一度、立ち止まってもいいですか?
【ライラ・ヴァルトラウテ】
王都の工房に戻ってきてから、二日が過ぎた。
窓から差し込む光はいつもと同じで、棚に並ぶ薬草や、静かに息づく薬酒たちも、何も変わってはいない。なのに、私の心だけが、どこか遠い雪の街に置いてきてしまったかのようだった。
(レオンハルトさん……ううん、シリル殿下……)
旅の荷解きも手につかず、私はただ、椅子に座ってぼんやりと空間を眺めている。頭の中では、何度も何度も、あの旅の光景と、彼の言葉が反芻される。
『君のような職人が正当に評価されないのは、この国の大きな損失だ』
『身分を隠していたのは、君という薬酒師の持つ力と、その信念を、何の先入観もなく、この目で確かめたかったからだ』
その言葉に嘘はないと、分かっている。けれど、彼が『あのレオノール王子の兄』であるという事実が、重い靄のように私の思考を鈍らせていた。
◆ ◇ ◆
コン、コン、と控えめなノックの音で、私ははっと我に返った。扉を開けると、見慣れない制服を着た若い使用人が、緊張した面持ちで立っていた。
「薬酒師ライラ・ヴァルトラウテ様でいらっしゃいますね。……第二王子宮より、書状をお持ちいたしました」
差し出された封書には、やはり、あの王家の紋章が刻まれている。指先が、微かに冷たくなるのを感じた。
中身を開くと、そこには簡潔で、けれど丁寧な文字が並んでいた。
『先日は、最後まで事情を話せずすまなかった。改めて、君と話がしたい。近いうちに、また都合を聞かせてもらえるだろうか。――シリル・フォン・アストレイン』
私は手紙をそっと閉じ、返事もできずに、それを机の棚の奥へとしまった。どうすればいいのか、まだ心が決めかねていた。
すると、今度は入れ違うようにして、工房のベルがチリンと鳴った。
「ライラ殿、少しよろしいかな」
訪れたのは、北方貿易組合のクルト氏だった。彼の顔を見て、私は自分がアルゼルムでの約束をすっかり忘れていたことに気づく。
「先日の『赤い約束』、組合の者たちも大変気に入ってね。それで、アルゼルムの件とは別に、ぜひ新たな依頼を出したいと考えているんだ」
それは、願ってもない申し出のはずだった。私の技術を認め、未来を切り拓くための、大きな一歩。なのに、私の口から出たのは、自分でも驚くほど力のない言葉だった。
「……申し訳、ありません。今は少し、考えさせて、いただけますか」
私の様子に、クルト氏は何かを察したように、穏やかに頷いた。
「承知した。良い仕事には、心の余裕も必要だろう。では、また数日後に顔を出すよ」
彼は無理強いすることなく、そう言って静かに立ち去っていった。
一人きりの工房。机の棚にしまったままの、封をしていない手紙。そして、棚に並ぶたくさんの薬酒の瓶。その二つを交互に見つめながら、私は自分の不安定な心に言葉を探していた。
(どうしてしまったんだろう、私は……。前に進むと、決めたはずなのに)
その時だった。ガタン、と勢いよく扉が開き、聞き慣れた声が響いた。
「ちょっとライラ! 何をそんな難しい顔してるんだい」
そこに立っていたのは、いつもの雑貨屋のベラさんだった。両手には、小麦粉をつけたままのエプロンをぱんぱんと叩いている。
「どうせまた、誰かに心を揺さぶられたんでしょ。あんたは分かりやすいんだから」
「ベラさん……」
「いいかい? 心が揺れるってのは、あんたが『ちゃんと誰かを見てた』証拠だよ。石ころ相手に、心なんて動きゃしないんだから」
ベラさんの力強い言葉が、私の心のもやを少しだけ晴らしてくれる。
「今は、無理に答えを出さなくていいさ。……さあ、とびきり美味しいパンでも焼いてきてあげるから。その間に、あんたはあんたの気持ちを、もう一回よーく練り直しておきなさいな」
その言葉と、太陽のような笑顔に、私の強張っていた口元から、ふっと息が漏れた。
ほんの少しだけ、笑みが戻ってきた気がした。