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第1話 不老酒と婚約破棄

【ライラ・ヴァルトラウテ】


『アストレイン歴482年、春』


 私の工房の片隅、乱雑に積まれた研究資料の一番上に、それはあった。王家の紋章が押された、分厚い羊皮紙の封筒。一月ほど前に届けられたそれは、私の人生を大きく変える……そのはずだった。


『――類稀なる薬酒師、ライラ・ヴァルトラウテ殿。貴殿のその類稀なる才を、王家は高く評価している。つきましては、王太子レオナールの妃として、貴殿を迎え入れたく思う。見返りとして、貴殿の研究に必要な全ての援助を約束しよう。王家の庇護の下、その技術を国家のために役立てることを期待する。追伸、現在研究中と聞く『不老酒』が完成した折には、その製法を速やかに王家へ献上されたし』


(ビジネス、ね……)


 初めて読んだ時、そう思った。恋だの愛だのといった甘い言葉は一つもない。これは取引だ。私の持つ薬酒師としての技術と、王家が持つ権力と財産を交換する、極めて政治的な契約。


 だが、私に否やはなかった。むしろ、願ってもない申し出だった。平民出の私が、この王都で己の腕一本で生きていくと決めてから五年。ようやく私の名前と技術は認められ始めたが、本格的な研究には常に資金不足が付きまとっていた。この契約は、私に無限の研究環境を与えてくれる。


「悪くない取引だわ」


 私は、琥珀色の液体が満たされた小瓶を、朝の陽が差し込む窓辺にかざした。液体がきらきらと光を反射する。


「……これでアルコール度数は三十八度。蒸留時間は、よし、予定通りね」


 この薬酒は、王家との契約を履行するための、私の価値証明。そして、私の未来そのものだ。


 その時だった。無遠慮な扉の音が、私の思考を破った。


 ドン、ドン、と重々しく扉が叩かれる。工房の古びた木の扉が、悲鳴のように軋んだ。


「失礼する。薬酒師ライラ・ヴァルトラウテ殿か?」


 扉を開けると、そこに立っていたのは見慣れない軍服に身を包んだ壮年の男だった。その肩で、王家の紋章が入った銀の徽章が鈍く光っている。


「……はい、私がライラですが」


「王太子殿下がお呼びである。先日お話しした婚約の件、直々に最終確認をされたいとのこと。さあ、こちらへ」


 有無を言わさぬ口調。私は、ただ静かに頷くことしかできなかった。


◆ ◇ ◆


 案内された王宮は、薬草と埃の匂いが染みついた私のような職人には、やはり場違いな場所だった。磨き上げられた大理石の床は、私の履き古した革靴の足音を不釣り合いなほど大きく響かせる。


 それでも、今日の私はただの平民ではない。王太子と契約を結ぶ、未来の妃だ。私は背筋を伸ばし、堂々と謁見の間へと進んだ。


 その視線の先、玉座にふんぞり返るように座っているのは、私の契約相手である第一王子、レオナール殿下。陽光を溶かしたような金髪に、澄み切った空のような青い瞳。いかにも物語に出てくる『王子様』といった風貌だ。しかし、その完璧な造形とは裏腹に、彼の口元には隠しきれない退屈と傲慢さが滲み出ていた。


 私が礼を尽くして頭を下げても、彼は気だるげに片手を振るだけだった。その口から紡がれた言葉は……私の全ての計算を、未来への期待を、粉々に打ち砕くのに十分な代物だった。


「やあ、君がライラだね。早速だが、例の婚約の件。うん、やっぱりやめようと思って」


「……は?」


 あまりに軽い口調に、思わず素っ頓狂な声が出た。王子は、そんな私の反応を気にも留めず、心底どうでもよさそうに言葉を続ける。まるで、道端の石ころを蹴飛ばすような気軽さで。


「いや、君の造る薬酒は素晴らしいと聞いたけど、どうにも出自がね。平民では、我が妃として迎えるには物足りない。国の体面というものがあるから、わかるだろう? だから婚約は契約違反、一方的に破棄させてもらう」


 血の気が、すうっと引いていくのが分かった。手足の先が、氷のように冷たくなる。


(なんだ……なんだ、この男は……! 契約を、なんだと……?)


 しかし、彼の言葉はまだ終わらなかった。


「ああ、でも、君が研究しているという不老酒の製法は、当初の契約通り、王家のために献上してほしい。これは王命だ。悪いようにはしないから。いいね?」


「…………」


 彼は、自分が何を言っているのか、本当に理解しているのだろうか。私の五年間の努力を、血の滲むような研究の日々を、ただ「献上しろ」の一言で片付けようとしている。婚約という対価を一方的に反故にしておきながら、見返りだけは寄越せと。


(本気で、この手に持っている薬瓶、投げつけてもいいだろうか)


 込み上げる怒りを、私は深く、深く息を吸い込むことでどうにか抑えつけた。震えそうになる膝に、ぐっと力を込める。ここで感情的になれば、相手の思う壺だ。私は薬酒師。いつだって冷静でいなければならない。


 私はゆっくりと顔を上げ、初めて真っ直ぐに王子の目を見た。その青い瞳の奥には、何の知性も、他者への敬意も映ってはいなかった。あるのは、与えられて当然という、底なしの傲慢さだけだ。


 失望が、怒りを静かに冷ましていく。


「殿下」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。


「取引というものは、互いの信頼と敬意の上に成り立つもの。あなたは、そのどちらも示なさいませんでしたわ」


 私は、懐から取り出した薬瓶をそっと掲げてみせる。


「この薬瓶の中には、私のこれまでの努力と、これからの未来が詰まっております。そして、あなたがおっしゃる『契約』の対価そのものでした。……大変申し上げにくいのですが、契約不履行をされたあなたのために、この価値ある品をお渡しすることはできかねます」


「なっ……!?」


 初めて表情を変えた王子が、玉座から身を乗り出す。その顔は、信じられないものを見たという驚きと、侮辱されたことによる怒りで赤く染まっていた。


「無礼者! 貴様、誰に向かって口を利いているのか分かっているのか!」


「ええ、もちろん。この国の、未来の王であられるレオナール殿下に、ですわ」


 私は完璧な淑女の礼をとると、静かに踵を返した。背後で王子が何かを叫んでいるが、もう私の耳には届かない。


 こうして、私の王都での生活は、一方的な婚約破棄という最悪の形で幕を開けた。


 でも、いい。


 謁見の間を後にし、長い廊下を歩きながら、私は自嘲気味に笑みを浮かべた。王宮の豪奢な装飾が、今はひどく色褪せて見える。


 私は、ただの非力な平民ではない。薬酒師だ。傷を癒やす優しい術も、相手を内側から蝕む毒を煽る術も、すべてこの瓶の中に詰めて持っているのだから。


「見てなさい、王子様。あなたの知らないやり方で、本物の『力』が何なのか、見せてあげる」


 工房に戻ったら、まずやることは決まっている。あの王子が欲しがった『不老酒』の研究を、本格的に再開しよう。ただし、それは誰かに与えるためではない。私自身が、この理不尽な世界でしぶとく、そしてしたたかに生き抜くために。

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