エピローグ 新たな日常
午後の陽光が斜めに差し込む、横浜・元町の雑居ビル三階。
古びた木製のドアにかかる「神代探偵事務所」の看板が、揺れるカーテン越しに淡く影を落としていた。
「ねぇ神代所長、紅茶にする? それともコーラ?」
橘がソファ越しに顔を覗かせる。ピンクのエプロン姿がやけに眩しい。
「どっちでもいいが……君はいつもその二択だな」
神代は手元の資料を伏せ、頬杖をついた。
「うん。なんか『人生ってだいたいその二択』って気がしてて。ね、颯くんは?」
「僕はエスプレッソ一択だ。人生に三択以上がないと退屈だろう?」
カップを掲げながら微笑む橘に、森下が「キザ~」と小声でつぶやく。
すると突然、ドアが開いて豪快な足音が響いた。
「おう、やっぱりここにいたか。お前ら暇そうだなぁ」
神奈川県警・大島警部が、紙袋をぶら下げて現れた。
「おや、刑事さん。また差し入れですか?」と橘。
「中華街の叉焼まんだ。さすがにもう“白骨”は入ってないから安心しな」
「……ブラックすぎます、大島さん」
森下が引きつった笑顔を見せる横で、神代は苦笑した。
「どうせなら“肉まん”と“真相”を一緒に包んでほしいものだな」
「相変わらず皮肉屋だな、神代。ったく……お前、警察辞めずにいれば、今ごろ警視くらいにはなってたんじゃねぇのか?」
その声に重なるように、さらにドアが開いた。
「そこまで言うなら、いっそ戻ってくるか? 」
現れたのは、年季の入ったスーツを着た壮年の男。背筋はまっすぐ、目つきは鋭く、そしてどこか神代と似ていた。
「……父さん、どうしてここに」
「事件の報告書を見てな。息子が警察を辞めた理由を改めて考えさせられたよ」
警視正・神代敬一。神代慎の実父にして、捜査畑一筋の“鬼警部”として知られた人物だ。
「……俺のやり方が間違ってないと、今回は思えたよ」
神代の言葉に、父はわずかに目を細めると、無言で頷いた。
「だがな。民間の身でここまで首を突っ込むのは、正直ヒヤヒヤする。澪さんと颯くん、あいつが変なところに首突っ込まないよう、しっかり見張っといてくれ」
「えっ、むしろ所長の“見張り役”って私の正式な役職だったんですか!?」
「僕の役職は“ブレーキ”。たまに壊れるけどね」と橘。
場の空気が、静かに笑いで和んだ。
──不幸な事件だった。誤解と嫉妬、思い込みが引き起こした、取り返しのつかない悲劇。
だが、誰かが真実を掘り起こさなければ、それは“ただの闇”として葬られていた。
神代は、デスクに置いた手帳を閉じて立ち上がった。
「さて、そろそろ“散歩”に出るか」
「また始まった……で、どこへ行くの?」
「いつも通り、“気になる風景”を探しにな」
橘と森下が顔を見合わせ、無言で立ち上がる。
大島警部と神代父は呆れたようにため息をつきながらも、どこか誇らしげだった。
「次の事件も、またお前が見つけてきそうだな」
父のその言葉に、神代は口元だけで微笑んだ。
「真実は、路地裏の隅にも落ちている。俺たちの仕事は、それを拾い上げることだ」
三人は、並んでビルの外へと歩き出した。
陽射しの中、いつもの“散歩”がまた始まる。
──日常の中に潜む、非日常を見つけ出す者たちの物語は、まだ終わらない。