S3−22
そして。
純粋に、弾きたいなと。弾いてみたいと。
気づけば次の日、ママに
“弾きたい曲があるから楽譜、買ってもいい?”
とお願いしていた。
今まで、楽譜を買う時の理由は
“指の練習で必要だから”とか、
“先生に勧められたから”とかだった。
だから、ママの喜び方がすごかった。
楽友には、聴いた感想を正直に伝えた。
—「的野先生のノクターン······
ジャズを聴いてるみたいで楽しかった。
すごく、勇気をもらえた。
でも自分は、どっちの方が良いとは
比べられないなって思った。」—
橋本先生の、楽譜に忠実なピアノと。
的野先生の、自由詩みたいなピアノと。
同じショパンなのに、弾き手が違うと
こうも印象が変わってしまうなんて。
良くも悪くも、比べようがなかった。
どっちも、素晴らしくて。
どっちも、良さがあって。
自分が目指すのは、どっちなのかとか。
はっきり、言えなかった。
でも。
自分の感想に対し、唱磨くんは感心していた。
—「お前やっぱ、すごかね。
もう、立派なピアニストやん。
弾き手の立場として、
ちゃんと聴いとる。」—
ここで、そんな風に褒められるなんて。
戸惑っていると、笑顔を向けられた。
—「お前だけのノクターンが、
弾けるって事やから。楽しみにしとる。」—
楽友が自分に向ける期待。
それに、少しでも応えたい気持ちがある。
ただ、弾きたいと。
今は、それだけの気持ちしかないけど。
いつか。
その世界が、見渡せたらいいなって。
心に、秘めている。
自宅に辿り着くと、夏芽は
”ただいまーっ“と言葉を放ってすぐに
手を洗って、足早にリビングへ向かった。
「おかえりなさい。
勉強会は、どうだった〜?」
ダイニングテーブルで、沙綾は
ノートパソコンと向き合っていた。
最近ママは、東京でバリキャリだった時の
伝手で、リモートワークを始めている。
「めっちゃ楽しかったよ。」
「ふふっ、そう!良かったわね!」
ふと、うどんのトッピングワカメが
攫われたのを思い出して、疼いた。
うぅ。もう。あんなこと、
無意識でしないでよ。心臓が、もたないよ。
楽友が、かなりの天然かもしれないと
気づいたのは、最近。
それが、自分の何かに触れて
動悸が激しくなるのも、同時進行。
無自覚なのは、罪すぎる。
今は何とかスルーできているけど、いつか
自分の心臓は爆発してしまうのではと。
真面目に心配している。
視界に鮮やかな緑が入ってきて、夏芽は
それに目を向けた。
窓際の定位置に座る大翔と、寄り添う
おっきなブロッコリーマン。
今日も二人は、仲良しだ。
「ただいま。はる。」
声を掛けると、大翔は振り向いてくれる。
これが、何回起こっても嬉しい。




