S2−14
「調律終わったら、すぐ帰るけん。」
気遣う彼の言葉。
しかしそれは今、逆効果に過ぎない。
―「遠慮せんで、話していいけん。」―
夏芽は、首を強く横に振った。
「話したいことがある、から······」
思ったよりも、声が出なかった。
届いたのか、分からないくらいに。
だから、聞こえたのか心配だった。
でも。
「······了解。」
短く答えて彼は、
リビングへ戻っていった。
受け入れてもらえて、安心した。
意外と、ではなくて。
本当に、優しいのかも。
大翔のこと、唱磨くんに聞いてもらいたい。
遅れて夏芽がリビングに戻ると、恭佑は
憂いを浮かべた表情で視線を向ける。
「ごめんね、夏芽ちゃん······」
謝らなくていいのに。
先生も、本当に優しい。
「謝らないでください。
びっくりしただけだと思うので······」
そう。びっくりしただけ。
誰も悪くない。
「ママが付いてるので、大丈夫です。
······気にしないでください。
調律、よろしくお願いします。」
しっかりと頭を下げて告げる教え子が、
いじらしくもあるが眩しく見えた。
色んな感情を抑え、精一杯守ろうとする姿が。
隣で黙って見守る息子も。
親が知らない間に、強くなろうとしている。
「······分かった。
じゃあ、始めさせてもらうよ。」
顔を上げた時、視界に入った先生の表情は
とても真剣だった。
子どもに向けるのではなく。
一人の人間として、見てくれている。
これからやっと、始まるんだよって。
言われてるみたいだった。
調律の工程を見ていると、
診察してもらっている気分になる。
痛いところはないですか。
胸の音を聴かせてください。
息を吸って、吐いて。みたいな。
工具で弦を締めて緩めて、鍵盤を弾いて
一音一音確かめて。
オクターブ弾いたり、振動を聴いたり。
なぜか、ずっと見ていられる。
先生の作業を、すぐ後ろで見守る楽友。
時々彼にも、目を向けた。
リビングから出ていく時、大翔は
キーホルダーを落としていたらしい。
それを唱磨くんが見つけてくれて、
届けてくれた。
落ち着いた今、気づいた。
届けてくれなかったら。
また、堅い殻の中で
独りぼっちになっていたかもしれない。
また、ブロッコリーマンの存在を忘れて。
また、何も浮かべずに。
誰も入れない中で、空を、景色を見て。
やっと生まれたきっかけが、
消してしまうところだった。
彼の姿を映す度に、彼女は何度も繰り返す。
ありがとう、と。