S2−5
この曲は短調だけど、不思議と
重い感じとか物悲しさがない。
リズムが多様なせいか、逆に
明るいと思える部分があるんだよね。
特に、ハ長調になるところとか。
笑顔で、弾んでいるようなイメージ。
自然と浮かんだのは、
この部屋に飾られている写真で
明るい笑顔を浮かべた、的野先生の奥さま。
唱磨くんのママ。
会うことはできなかったけど、
明るい人だったんじゃないかって思う。
勝手な想像するのは、失礼かもだけど。
的野家に初めて来た時、
明かりが足りないような暗さを感じた。
あと、静かで、寂しいような。
そうなったのは、照らしていたその人が
いなくなってしまったからじゃないかって。
レッスンで通う度に、それを
考えるようになった。
唱磨くんが、“13番”と答えた時の笑顔は。
その明るさと繋がるんじゃないかって。
最後の三和音を弾き、余韻を味わうように
夏芽は指を鍵盤から放した。
出し切った。今できる自分の技術力と、
曲に対する気持ちを全て。
ミスタッチもなかった。うん。上出来。
小さく息をついて恭佑に目を向けると、
浮かべていた表情に、はっとした。
柔らかくて、優しい微笑み。
それが向けられている相手は、自分じゃない。
遠くの誰か。きっと、その人は。
こちらに向かず、宙を泳いでいる瞳。
それは、現実ではなく
思い出の中へ注がれている。
しばらく彼は、何も発さなかった。
押し黙って見上げていると、ようやく
ゆっくりと視線が合う。
「······やられた。うん。これは、
ありがとうというべきやね。」
独り言のような言葉とともに、
屈託のない笑顔を向けられて、戸惑った。
それが、指導者としてではなく、
観客として映ったからだ。
こんなことは、予想してなかった。
「あの、ごめんなさい······
実は······」
「ははっ。何で謝ると?
君の試みは、成功やと思う。ただ、
レッスンが終わってから、かな。」
「えっ?」
「じゃあ、もう一度。」
何も言わなくていい。
そんな風に、遮られた気がした。
いつもの、先生に戻ってる。
「今日は、ここまでにしよう。」
「ありがとうございました。」
レッスンが終わるの、長く感じた。
先生の、“レッスンが終わってから”という言葉が
ずっと気になって仕方なかった。
夏芽は、答えが欲しそうに
じっと窺っていると、恭佑は
ふっ、と頬を緩ませる。
「聴かせようと思って弾いたのは、初めて?」
そう問われて、しばらく考えた。
発表会の時とは、何か違う。
言われてみれば、特定の人に
聴かせようと思ったのは、初めてかも。
「······はい。」
「素晴らしかったよ。気持ちを表現する事は、
弾く本人しか築けない。
技術だけで伝えるには、限界がある。
これは、橋本先生が
君に教えたかった一つなんよ。」
「······えっ?」
「それを引き出せたのは、嬉しかった。
······唱磨に向けて、弾いたんやろ?」
恥ずかしさのあまり、顔が熱くなった。
間違いないのだけど、断定して言われると
やってしまった感が、ヤバすぎる。
「呼んでくるけん、待っとって。」
「えっ、いや、あのっ······」
流れ的に、いいです大丈夫です、とは
言えなかった。
部屋のドアを開けて一歩出たところで、
恭佑の足が止まる。
すぐ側の壁に寄りかかっていた息子と、
目が合ったからだ。
二人の、この曲に対する想いは特別だった。
それぞれが深く、平行していた。
なのに、ぶつかり合い、混じり合い。
浮かんだのは、紛れもない微笑み。
引き出されて残るのは、清々しさ。
楽しくて輝いていた、美しい記憶。
生きる、シンコペーション。
それを共有できたのは。
これが、初めてだった。