S1−12
「椅子の調整は任せるよ。」
恭佑の言葉で、夏芽は我に返る。
グランドピアノの屋根は既に開けられ、
譜面台も立てられている。準備万端だ。
今は、レッスンに集中しよう。
「夏芽ちゃんが弾いてみたい曲は?」
ピアノ椅子に座り、高さの調整を終えて
トートバッグから楽譜を取り出す。
正直に、言うべきだよね。
「えっと······今は、その、
バッハのシンフォニアが弾きたいです。」
「橋本先生から渡された
インベンションやね。」
「聴いてみたら、
とてもいい曲ばかりでした。」
「うん。僕も大好き。······弾いてみた?」
「はい。2声は、一通り弾きました。」
「弾けたんやね。ということは······
技術は十分だ。すぐ3声に
取りかかれそうやね。」
恭佑は、夏芽が譜面台に置いた楽譜を
手に取り、パラパラと開いていく。
「どれか、弾いてみた?」
「はい。12番と6番を、
練習してきました。」
13番は、まだ封印。
「うん······じゃあ、その二曲を
通して弾いてみようか。」
「はい。」
練習の時は、解釈なしで気ままに弾いている。
ミスタッチも気にしない。
でも流石に、先生に見てもらうとなると
そうはいかない。
楽譜通りの強弱と記号、リズムを刻まないと。
そうなると、緊張が走った。
その上、恭佑に見てもらうのは初めてで
慣れないのもある。
夏芽は軽く深呼吸をして、震える手を
鍵盤に乗せた。
「いつも通り。僕は、いないと思って。」
すぐ側にいた恭佑の姿が、後ろに消える。
視界に入らないように、
配慮してくれたのだろう。
その心遣いが、後押しになった。
一音目の、“ラ”を弾いた時。
明るい響きが、夏芽の鼓膜を震わせる。
綺麗な音。
澄み切った、鈴の音みたい。
そう思った瞬間、手の震えが収まって
指が軽やかに動いた。
ずっと、聴いていたい。
だから、大切に、譜を拾っていく。
これが正解とか、間違っているとか、
そんな次元じゃない。
ただ、美しく。
それを、響かせるには。
どうしたらいいのかだけを、考えた。
二曲を通して弾き終わると夏芽は、
後方の壁に背を預けて立っている
恭佑の方へ振り返った。
無言で、瞼を閉じたまま、動かない。
何か、反応が欲しい。
息を飲んで窺う彼女の視線に、
ようやく彼は気づいて目を開け、
顔を綻ばせた。
「······うん。なるほど。よく練習しとるね。」
······褒められてる?
「12番をよく弾き込んどるみたいやから、
今日はその一曲を、見ていこうか。
では、もう一度。」
的野先生の反応は、よく分からない。
でも、悪い感じじゃ、なさそう。




