S1−9
「······いや。確かに、狂っとるんよ。」
「気のせいじゃないの?」
「······」
唱磨の視線が、ふ、と外れる。
理解してもらえない。
夏芽には、なぜかそんな風に見えた。
「······用事って、ホントは、これ?」
「······うん。」
嘘をついても、意味がない。
「······悪かった。
変なこと言って、モヤモヤさせて。」
······また。
「忘れていいけん。」
それは、呪いを解く言葉なのだろう。
だけど。
なぜか、解けた感じがしないのは、
彼の表情が寂しそうに見えたからなのか。
モヤモヤが、消えない。
背中を向けて家に戻っていく唱磨を、
そのまま見送るわけにはいかなかった。
「的野くんっ」
夏芽の呼びかけに、彼は足を止めて振り返る。
「バッハのシンフォニアの中で、
どの曲が一番好き?」
何か話題を。
そう思って投げた質問が、あまりにも
いきなりすぎて、自分で引いてしまった。
聞いて、どうするの?
引きとめて、何がしたいの?
相手がシンフォニア知ってるかも、
分かんないのに。
素っ気ない答えが、返ってくると思った。
しかし、あまりにも予想外な事が起きる。
表情を緩めた彼が、映り込んだ。
「13番。」
しかも、その短い答えになぜか、
愛おしさというか。
心から、大切にしているという気持ちが
強く伝わった。
その綻びを、彼女は瞬きする事を忘れて
見入ってしまう。
「レッスン、明日なんやろ?」
その問いかけで、はっとした。
「俺んとこのピアノで弾いたら、
違いが分かるけん。多分、やけど。」
何か言葉を出したいが、何も出ない。
「小野田なら、きっと、分かると思う。」
さらに笑って言った後、唱磨は
バタン、と家の中へ入ってしまった。
残した言葉。
浮かべた笑顔。
彼が生み出すもの、何もかも
自分の予想を遥かに超えてしまう。
ふらり、と夏芽は、帰路へ踏み出した。
日差しが、暖かい。
風が、心地好い。
ここへ行く時は、少しもそう思わなかった。
傷つけられたのに。
苦しくて、止まらなかったのに。
綺麗に、塞がっている。
絆創膏ペタペタ貼られて、
包帯ぐるぐる巻かれたから、かな。
「······ふふっ」
笑みが零れる。
なぜかは、分からない。
だけど、溢れる。
あんな風に、笑えるんだ。
本当に、幸せそうに。
それに、釣られたのかも。
「······13番、かぁ。」
どんな曲だった?気にしてなかったなぁ。
改めて聴き直して、弾いてみよう。
······
“調律が、微妙に狂ってる。”
もし、本当に、そうだとしたら。
自分含めて、家族全員誰も気づいていない。
そんな事って、あるのかな。