S4−29
“着替えてきます”という言葉を残して
家に帰り着いた夏芽は、真っ直ぐ
自分の部屋に戻った。
鼓動が高鳴る中で、考え込む。
お風呂入っていこう。長湯せずにシャワーで。
楽譜は、必須······
あと、歯磨きセット、タオル、パジャマ······
持っていくものは、そのくらいよね?
まさか、泊まることになるなんて······
一体、どうなるの?
息が詰まりそうになって、大きく
深呼吸した。
“いまおまえはとうさんのせいとやけ
んきんちょうせんでいいやん”
誕生日に、彼からもらった魔法の言葉。
そうだ。今、自分は的野先生の生徒。
緊張することはない。
“あとはたのしむだけやろ”
そう。楽しむだけ。
自分のピアノを。楽しむだけだ。
気合を入れるように、ぎゅっと拳を握る。
橋本先生に、自分のピアノを。
聴いてもらうんだ。
受け止めてもらうんだ。今の自分を。
「行ってらっしゃい。」
「なっちゃん。楽しんでおいでね。」
玄関で送り出すパパママの笑顔で、
少し緩んだ。
二人に挟まって立っている大翔は、
じっと自分を映している。
「行ってきます。」
笑顔で手を振って、ドアを勢いよく開けた。
雨のお陰で、吹き込む風が涼しい。
身体が火照ってるから、助かる。
どうしても、緊張するよね。
でもこれは、いろんな気持ちが混ざっていて。
嫌なやつじゃない。
自転車を走らせ的野家に辿り着いた
夏芽は、風に乗り踊っている
桜の木を見上げた。
この感じ。前にも、あった。
唱磨くんに、シンフォニア13番を
聴かせようと思って、気合いを入れた時だ。
ラスボスだと思ってた橋本先生は。
レジェンド級の勇者だった。
大きな勘違いをして、拗ねていた。
あの頃の自分は、もういない。
今の自分を、見せるんだ。
言い聞かせて、玄関のドアへ向かう。
インターホンを鳴らすと、
出迎えてくれたのは唱磨だった。
もう、普段通りの姿に戻っている。
「いい顔しとるやん。」
笑みを浮かべる楽友に、夏芽は
しっかりと告げた。
「遊びに来たわけじゃないから。」
本気だから。
「あぁ。分かっとる。」
玄関には、濃い朱色のローファーが
綺麗に揃えられていた。
彼女の靴。それを目にして、夏芽も
スニーカーを脱いで揃える。
二人は、グランドピアノが置かれた部屋へ
真っ直ぐ向かった。
唱磨がドアを開けると、すぐに
ソファーに並んで座っている
恭佑と彼女の姿を目に入れた。
夏芽は、その二人に向かって会釈する。
車内での、和やかさ。
ラーメンを食べた時の、温かさ。
その空気は、この部屋にない。
分かっている。これが、本気の時間。
「夏芽さん。シンフォニア、
弾いているそうね。恭佑から聞いたわ。」
何も浮かべない、橋本先生の表情。
あの時は、怯えるばかりで。
この意味を、分かっていなかった。
「はい。とてもいい、指の練習になります。
曲としても、大好きです。」




