S1−2
バッハさんの曲に触れて、まだ
一ヶ月くらいしか経っていない。
インベンションは、一通り
弾けるようになった。解釈抜きで。
ホントに指の練習という目的で弾いてるから、
失礼なのかもだけど。
シンフォニアは、好きな12番と
気になったの6番を集中して弾いている。
かなりループして弾いているけど、
自分の技術不足、解釈不足、
ピアノに対する姿勢が悪いのか
なかなか納得がいく出来栄えにならない。
“夏芽さん。もっと力強く。”
橋本先生の口癖。
いや、指の力が弱い、自分のせい。
フォルティッシモが、上手く弾けない。
せいいっぱい力を込めて弾くけど、
先生は一度も首を縦に振らなかった。
だから、情熱的で悲壮感たっぷりの
ベートーヴェンは、自分に向かない。
そう言ったら、先生は呆れた顔して笑った。
“あなたは面白いわねぇ。
みんな、曲に合わせようとするのに
合わないと言って止めちゃうなんて。”
これは、グサッときた。
あなたごときが、偉大な作曲家の
魂こもった曲に愚痴るとか。
やってもないのに、止めてしまうとか。
そんな風に、言われた気がして。
ゴメンナサイ。技術不足です。
練習不足です。解釈不足です。
努力するしかないですよね。
そんな、素直に言えるわけもなく。
ただ、トゲが刺さったままにして
放置している。抜きもせずに。
で、こっそり。ショパンの
黒鍵のエチュードにハマっている。
文字通り、黒鍵盤しか使わない曲。
難易度高すぎて、上手く弾けたことはないけど
これが楽しい。そう。こういう遊び心よね。
自由で感情豊かなショパンは、
自分に合ってると思う。
そんな事は、言わない。
もし、大曲を弾くなら、ショパンかな。
リスト?ラフマニノフ?
······王道で、そこら辺だよね。
すごすぎて、息が詰まりそう。
ずっとバッハさんじゃ、ダメかな。
バッハさんのシンフォニア、
大好きなんだけど。
的野先生に、正直に言ってみようかな······
ピーンポーン。
夏芽が、シンフォニア12番を弾き始めて
七周目に差し掛かったところだった。
その音に、彼女は気づいていない。
沙綾と秀一は、顔を見合わせる。
「······誰かしら?」
「······うるさいとかの、苦情じゃないよな?」
「多分、ね。周りに、家は無いわよ。」
「僕が出ようか。」
「大丈夫。私が出る。」
首を傾げながら、沙綾は
インターホンのモニター画面を覗いた。
映った顔は、見覚えのない少年。
しかし、その面影に心当たりがある。
「はい。」
『······的野です。』
今、なぜ、わざわざ訪問してきたのか。
疑問を生んだが、浮き立つ。
「ちょっと、お待ちくださいね。」
応答して、すぐさま玄関へと向かった。