触れられない温もり
玄関のドアを開けると、いつものように温かな声が耳に届いた。
「おかえり、美咲。」
「ただいま。」
彼女は靴を脱ぎながら返事をする。まるでいつも通りの日常のような、当たり前のやり取りだ。
コートを脱ぎ、キッチンに向かう途中で彼女は問いかけた。
「今日の夕飯、何がいい?」
「ハンバーグがいい!」
彼の声は即答だった。弾むような調子に、彼女は思わず苦笑する。
「またそれ?疲れてるのに、なんでそんな手間のかかるものばっかり言うのよ。」
口ではそう言いながらも、彼女の手は自然と材料を取り出していた。
玉ねぎをみじん切りにし、挽き肉と混ぜ合わせる間、彼のがいつものようにリビング越しに覗いてくる。フライパンで焼き目をつけ、ソースを作り、ようやく完成したハンバーグをテーブルに並べる。
「はい、どうぞ。」と彼の前に皿を置く。
彼はすぐさまフォークを手に取り、一口頬張った。
「うわ、うまい!美咲の料理は世界で一番だ!」
まるでドラマの台詞のように大げさな言葉に、彼女は呆れたように微笑む。
「そんなに言うと、調子に乗るわよ。」
それでも少し嬉しそうに、そしてどこか寂しげに。
食事を終えると、二人はソファに移動した。彼女はゆっくりと体を預け、今日一日の出来事を話し始める。
「今日ね、上司がまた訳の分からないことを言ってさ。」
彼は「うん、うん」と頷きながら、黙って聞いてくれる。彼のその態度が、彼女にはたまらなく優しく感じた。
「優しいね。」
そうつぶやくと、彼は穏やかに微笑んで言った。
「美咲のためなら何でもするよ。」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の目から涙が溢れた。彼は驚いたように手を伸ばそうとしたが、彼女は首を横に振るだけだった。
数か月前、彼は交通事故で帰らぬ人となった。それでも、彼女の心の中では彼は今もこうして共にいる。
「ごめんね、泣いちゃって。でも、ありがとう。」
彼女はそっとつぶやいた。
部屋の中には彼女の涙を拭う静かな空気と、まるで今も彼がそこにいるかのような温もりが満ちていた。