風の遺跡
フレスガドルの城壁を越えた先、旅路は徐々に山間部へと変わっていく。
風の遺跡――それは、古くから伝承として語られていた空と風の神域。地図にすら正確に記されていないその地は、“風が導く者”にしか辿り着けないとも言われていた。
「……この風、少しずつ変わってきてる。湿気が少なくて、上昇気流が強い。まるで、高所に向かってるみたい」
シエラが空を仰ぎながらそう呟いた。
風に敏感な彼女の言葉に、アルノアも頷く。たしかに、山を登っているというよりも“引かれている”ような感覚がある。風が流れを作り、進むべき道を提示しているようだった。
「風の遺跡ってのはな――」
リヒターが口を開いた。
「元は“空の神殿”って呼ばれてたらしい。天空と交信した古代文明が、風の精霊たちと契約を交わして作った祭壇が中心にある。けど、何百年も前に崩れて、今は魔物の巣になってるって話だ」
「そんな場所を、どうして私たちは目指すことになったのかしらね」
シエラがわずかに皮肉混じりに笑うが、その声にも不思議な緊張感があった。
それほどまでに、“風の遺跡”という言葉には意味があった。
「精霊たちの加護が強く残る場所だ。魔物は風に抗えないか、逆に支配された存在しかいない。……ここで、風について理解する」
アルノアの言葉に、リヒターも頷く。
「遺跡の中心には、“風の心臓”って呼ばれてる石碑があるらしい。風属性の使い手は、そこに触れることで“真の風の道”を知るとも言われてる。……ま、あくまで言い伝えだがな」
太陽が傾き、山間に差す斜陽が赤く染まり始めた頃。
一同の前に、風の遺跡へ続く“断崖の橋”が姿を現した。
岩と蔓が絡みついてできたような、自然の中に溶け込むような古びた橋。
しかし風は、そこだけを抜けるように強く吹いていた。まるで門を開けるように――。
「……間違いない、ここだ」
アルノアが短剣を抜く。
刃先がかすかに震え、風の魔力に反応するように光を帯びていく。
「じゃあ――行こうか。風の真実に、触れに」
一歩、そしてまた一歩。
三人は“風の遺跡”の入り口へと足を踏み入れた。
ここから始まるのは、精霊と古代の記憶が眠る試練の地。
そして、アルノアの力と謎がさらに深まっていく章の始まりだった。
⸻
風の遺跡に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
空気は澄んでいるのに、どこか圧迫感がある。足を進めるごとに、風の流れが不自然に渦を巻き、まるで迷わせるかのように方向感覚を狂わせてくる。
「……遺跡の風、というより……これは、誰かの意志が入り混じってる」
シエラが足を止め、周囲に意識を張る。風の精霊たちが何かを警告するように、ささやき声のような風音が彼女の耳元をかすめた。
「進行方向、変わってるな」
リヒターが険しい表情を見せる。「この遺跡は本来、風が進むべき道を示す。だが今は、逆らってくる。……まるで、誰かが“導きを拒んでる”みたいだ」
アルノアは懐から短剣を取り出した。
その瞬間、刃先が淡い風の光を放ち、ゆっくりと別の方向を指し始める。
「これは……風の導き?」
「……いや、違う」
シエラが小さく首を振った。「これは……“歪み”を指してる。風の流れが、本来の精霊のものじゃない。何か、別の魔力が混ざってる……それも、異質なもの」
進んでいくうちに、古びた石の柱に刻まれた紋章が見つかった。
それはかつて精霊と契約した王家の紋章だったが、その一部が削られ、見覚えのない黒い印が上書きされていた。
「これは……この印、以前リドルスの資料でも見たことがある。反精霊主義を掲げていた古の異端派……《ヴァルディアの鎖》のものに似ている」
リヒターが低く唸る。「まさか、こいつら……まだ生きて動いてるのか? 失われた組織だが……」
周囲から、風ではない“何か”が蠢く気配がした。
突然、遺跡の奥から足音――いや、蹄のような、獣のような音が響いてくる。姿を現したのは、風をまといながらも、その体表には黒い瘴気を帯びた魔物だった。
「……破壊神の影響だ」
アルノアが短く呟く。短剣の刃先が風を震わせ、魔物を指すように風圧を放つ。
「こいつは導きじゃない。……警告だ。破壊神の影響が、この遺跡にまで及んでる」
「そして、あの組織がそれに関係している可能性がある……ってわけか」
リヒターが魔法の詠唱を始めた。シエラも精霊魔法を構え、アルノアは短剣を片手に大鎌を握り直す。
風の遺跡は、静寂の神域ではなかった。
誰かがこの場所を穢し、封じられた力を解き放とうとしている――そんな気配が、風に混じって感じ取れた。
「戦うぞ。この遺跡の意思がまだ生きてるうちに……解放してやる」
⸻
遺跡の中腹、かつて“風の守護者”と呼ばれた存在の神殿跡へと踏み込んだ瞬間、空気が一変した。
「……何かが、いる」
リヒターが立ち止まり、身構える。彼の風の魔力が、かすかな圧力を感じ取り乱れていた。
そこにいたのは、黄金の羽根を持ち、かつて神聖と称された神獣――グリフォン。
しかしその姿は、かつての伝承とあまりにも異なっていた。
「黒い……オーラ?」
シエラが低く息を呑む。
巨大な翼は漆黒に染まり、瞳は濁っている。本来は遺跡に踏み入った者へ風の試練を課す存在――それが今や理性の欠片もない、暴走した怪物と化していた。
「……完全に、破壊神の影響を受けてる」
アルノアが短剣に視線を落とすと、またしても刃がうっすらと震えた。まるで眼前の存在に反応しているかのように。
「こいつは、本来なら俺たちに何かを授ける存在だった。なのに……」
リヒターは悔しそうに歯を食いしばった。
神殿の壁には、明らかに後から刻まれたであろう異様な魔法陣が広がっていた。瘴気の中心と思しき祭壇には、霞滅の紋章と思われる“歪んだ三重円”が焼き付けられていた。
「……あいつら、隠す気もないみたいだな」
アルノアが低く言う。
床には薬品の瓶や破損した魔導装置が散らばり、実験をしていた痕跡が生々しく残っていた。
これは単なる汚染ではない。意図的に、試練を歪め、遺跡の力を奪うための実験だったのだ。
「おそらく、このグリフォンも――」
「テスタメントってわけか」
リヒターが憤るように言い、風の刃を纏わせる。
グリフォンが咆哮する。轟音と共に放たれた風圧が空間を切り裂き、遺跡の壁が軋む。
明らかに以前より格段に強化されていた。
「くるよ……!」
アルノアが前に出た。大鎌に白い雷と氷の力を纏わせる。
「もう、試練じゃない。倒すしか、ない」
彼の声に、シエラとリヒターが呼応する。
戦いの幕が、音もなく上がる。




