テスタメント
空間が凍りついたかのような緊張感が戦場を包む中、スプラグナスはゆっくりと腕を広げた。
その身を覆っていたマントが風もないのにふわりと舞い上がり、彼の胸元にぶら下がる黒銀の十字架が不気味に輝きを放つ。
「おやおや、どうやらリヴァイアサンも限界のようだ。……ならば、少し手助けをしましょう」
その言葉に合わせ、スプラグナスが指を鳴らした瞬間――
空気が変わった。
いや、“空気”ではない。空間そのものが、深淵に引き込まれるような錯覚を全員が感じ取った。
突如としてリヴァイアサンの体を包む黒いオーラが暴走を始める。
それはもはやオーラというより、黒く濁った“液体”のような禍々しさで、鱗の隙間に染み込み、
骨の髄へと侵食していく――いや、**“書き換えている”**ようにすら見えた。
「これこそが神の胎動だ。
――名もなき破壊神の“試しの獣”として、お前に相応しい姿を与えよう、リヴァイアサン」
ドクン、と重い音が鳴った。
それは鼓動ではなかった。大地そのものが脈動しているかのような“神性の脅威”の音だった。
リヴァイアサンの目が赤黒く染まり、口元から黒い霧を吹き出す。
その身体は膨張し、背びれが鋭く伸び、鱗が刃のように変貌していく。
「こ、こんなの……ッ!」
ミアが思わず後ずさる。エギルも眉をひそめ、即座に指示を飛ばす。
「全員、距離を取れ! 一度体制を整えるぞ!」
遅れて水が爆ぜた。リヴァイアサンが放った波動により、周囲の地形が激しく変動する。
黒い水柱が天井を突き破り、蒼く沈んだ空間が、深海の悪夢のような様相を見せ始めた。
スプラグナスは高所に跳躍し、全員を見下ろす。
「さあ、あなた方の選ばれた“希望”とやらが、どこまで抗えるか。……興味がありますよ?」
その目は笑っていた。
リヴァイアサンの完全覚醒。
――それは、これまでの戦いがただの“準備運動”でしかなかったと、全員に突きつける絶望だった。
⸻
轟音――!
リヴァイアサンが放った咆哮と共に、黒の水圧衝撃波が四方へと炸裂した。
空間ごと押し潰すようなその一撃を、シエラの風の加護がかろうじて弾く。
「みんな、踏みとどまって!」
彼女の精霊魔法が風の壁を作り出し、直撃を防ぐも、全員が体勢を崩しかけた。
「……やべぇな、マジでこれ、洒落になってねぇぞ……!」
ラウドが汗を垂らしながら呟く。その両腕には、炎と水が同時展開されていた。
対極属性の融合――本来不安定なはずの術式が、彼の高い適性で強力な攻撃魔法へと変換される。
「業炎氷刃――裂けろ!」
ラウドが放つ、赤青の双属性砲がリヴァイアサンに炸裂するが、黒い鱗はわずかに焦げるのみ。
その直後、リヴァイアサンが空間ごとえぐるような尾撃を振るった。
「ガレス、今だ!」
「おうよ!」
轟砕――巨大な戦斧が、斬撃というより“叩き潰す”勢いで、リヴァイアサンの横腹にめり込む。
ガレスの一撃に、微かにひびが走る。
「効いてる! 続けて!」
エリスが叫び、同時に広域回復術を展開。
傷を負ったミアが即座に立ち上がり、味方のフォローへと走る。
「こっちに任せて、攻撃は集中して!」
そして前線――
アルノアとシエラが、白銀の閃光を纏って跳び込む。
「――白雷氷刃ッ!」
アルノアの大鎌に、白き魔力が奔る。
氷と雷、相反する力を融合させた異形の斬撃が、リヴァイアサンの眼下を貫いた。
同時に、空を駆けるシエラが両手を広げ、精霊たちに命ずる。
「精霊たちよ、彼の刃を貫通せし力へ――:雷風嵐!」
暴風と雷の乱舞が、アルノアの軌道を支える。
精霊の導きで、空中機動すら可能となった彼の斬撃は、リヴァイアサンの硬質な防御のわずかな隙間を突いていく。
「……このままいけるか!」
エギルが駆けながら剣を構え、ゼルドと共に左右から挟撃を仕掛ける。
カイアスも大剣に風を纏わせ、空を斬るような斬撃を放つ。
「貫け――風牙斬!」
再びリヴァイアサンの一部が削れ、黒いオーラが散った。
確かに、攻撃は通り始めている――
だがそれでも、リヴァイアサンは崩れない。
「まだ……まだかよ……!」
全員が渾身の力をぶつける中、アルノアは胸に手を当てる。
体内に眠る“白の核”――エーミラティスの力が、徐々に熱を帯び始めていた。
「シエラ、合わせてくれ」
「……もちろん。あなたとなら、どこまでも行けるわ」
二人が空中で交差し、魔力が絡み合う。
一撃を放つ準備が整う――だがその時
リヴァイアサンの口元に、再び“黒の渦”が集い始めた。
「――来るぞ!」
全員が、次の一撃に備えようと身構える。
だがその渦は、攻撃ではなかった。
“再生”だった。
「なっ……」
破壊されたはずの部位が、黒く塗りつぶされながら再生していく。
スプラグナスが、どこか楽しそうに呟いた。
「さあ……次の絶望の幕が、開きますよ」
⸻
ドクン――
空間そのものが鼓動するような重圧が、ダンジョン内に響いた。
再生されたはずのリヴァイアサンの身体が、さらに“塗り潰されていく”。
鱗一枚一枚が、漆黒の鎧のように硬質な質感へと変化し、眼は紅に輝いた。
「……まずい」
アルノアが低く呟く。
ただの再生ではない。これは“進化”だ。
いや、“覚醒”という言葉ですら、生ぬるい。
リヴァイアサンは今――黒の神性とでも言うべき存在に変貌を遂げつつあった。
「これが……黒きオーラの真の姿か……」
カイアスが剣を構えながら唇を噛む。
その圧だけで、全員の動きが鈍る。
「くっ、精霊の結界が……押し負ける……!」
シエラの魔法障壁が、圧倒的な黒の波に押されて軋んでいた。
その向こう、スプラグナスはフードを脱ぎ、長い銀髪を揺らしながら楽しげに笑う。
「これが“主”の意思です。崩壊はもう止まらない。
貴方たちは、この海の底で“初めの一歩”に沈むのです」
リヴァイアサンが咆哮する。
――ドオォォォォン!
地鳴りと共に、水流の壁が全方位に発生。
それは圧倒的な“断絶”――視界を、音を、空気すら遮断する檻。
「全員、離れて!」
エギルが叫ぶも、各自が各個撃破の危機に陥る。
水の牢獄の中、ゼルドとラウドが背中合わせで防戦。
「これ、俺たちヤバくねぇか……?」
「今さらだ」
ラウドが苦笑し、同時に火と水の斬撃を交差させる。だが、それすら水に吸い込まれて消えていく。
「完全に属性を吸っていやがる……!」
別の空間では、ガレスが斧を振るい、エリスが全力で回復魔法を飛ばすも、リヴァイアサンの尾の一撃だけで数十メートル吹き飛ばされる。
「……くっ、くそがッ!」
カイアスが黒の壁に向かって大剣を振るう。
「なにが……神性だ……てめぇごときに……!」
怒りとともに風の刃が吹き荒れるが、それすらも吹き飛ばされる。
そして――中央。
アルノアとシエラも、攻撃のリズムを完全に崩されていた。
「アルノア……」
「大丈夫だ。まだ……終わりじゃない」
アルノアの中で、エーミラティスの白い魔力が震えている。
だが、それすらも“届かない”と理解していた。
「これは……次元が違う」
膝が震える。
それでも、負けられなかった。
――その時。
スプラグナスがリヴァイアサンに手を翳し、囁く。
「魂に喰らいつきなさい。完全な“器”になるのです」
黒いオーラがリヴァイアサンの体内に沈み込む。
その瞬間、目が一度、白く染まり――
「――やめろッ!!」
カイアスが叫びながら飛び出す。
「こいつは……もう違う! リヴァイアサンじゃねぇ、何かに……取り込まれてる!」
カイアスの脳裏に浮かぶ――あの時の記憶。
船が飲み込まれ、仲間たちが消えていったあの光景。
その中で、最後に“笑っていた男”――
スプラグナスが、何かに“取り込まれていた”ことを、ようやく理解する。
「貴様……初めから……!」
スプラグナスが一歩前に出る。
「気づくのが遅い、カイアス。貴方たちは……“選ばれなかった側”なのです」
そして、リヴァイアサンの口が開く。
黒き波動――それは、全てを呑み込む“絶対の破壊”。
「来るぞッ!」
エギルが叫ぶ。
「全員、結界を重ねろ! 今を凌げなければ、未来はない!」
全員が死力を振り絞る――
それでも、“勝つための手段”が、まだ見つからなかった。
――希望は、まだ“この場には”ない。
だが、その時。
アルノアの腰に差された短剣が、白と黒に光を放ち始めた。




