03 布井さん
ともかく、はやる気持ちを無理になだめて一晩ぐっすり休んで迎えた翌日。
いつもならグースカとたっぷり寝ている時間である早朝から、すでに俺は人生をかけて成就すべき野望に燃えていた。何はともあれ、今後のためにも家族との信頼度を高めておこうと「おはよう!」「いただきます! &ごちそうさまでした!」「行ってきます!」などのあいさつを元気よくやって、なんだこいつと言わんばかりに両親を不思議がらせてから家を出る。
いつもより目が覚めた気分で歩く、今さら迷わぬ程度に見慣れた通学路。
目的地である学校に近づくにつれ、同じ制服を着て歩いている少年少女の姿をたくさん見かけるようになるが、さて、どうしようか。
「そういえば、すっかり聞くのを忘れていたけど俺が矢を使える回数に限度はあるのか? 例えば一日に十発までとかさ」
それによって戦略は大きく変わってくる。
具体的に言うと、いつ、誰に、何のために使うかの選択がより重要になってくるのだ。
なので、もしも使用回数に制限があるとすれば上限は多いほうがいい。ゲームなんかでも貴重なアイテムは出し惜しんで結局は使わずにクリアしちゃうタイプなのだ、俺は。
慎重派というか、貧乏性というか……。
「それについては安心して。制限があるのは矢を使われるほうで、使う側である君には特にないから。やろうと思えば一日に百人だって千人だって矢を使えるよ」
「百人や千人って……。そんなに使って大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。基本的にはね」
「基本的には、か……」
なんだか含みのある言い方だ。基本的に、ということは、何か基本ではない裏の事情があるのかもしれない。非日常の世界を描いたアニメやゲームなどのフィクション作品でたくさん勉強しているから冷静に判断できるが、こういう時の「基本的には」なんて言葉は信用しないほうがいい。
いともたやすく例外が発生する。
それに、天使の考える常識や価値観が俺たち人間と同じとも限らない。
まったく悪意なく、意味も理由もなく、悪影響や代償を黙っているのかもしれない。
実は矢を使用するたびに体力を使っているとか、残りの寿命が消費されているとか、しばらく後に不幸のぶり返しが来るとか……。
猫や浮雲さんとのことで嘘や冗談ではないと分かった以上、今さら魔法の矢の力を疑うわけではないが、せめて慣れてくるまでは矢の使用には自主的にブレーキをかけたほうがいいだろう。いきなり全速力で突っ走れば大怪我をしてしまいかねない。
そうだな。例えば、矢を使うのは俺が顔と名前を知っている相手だけに限定するとか。
同じクラスの女子だけと考えれば、ひとまずは二十人前後だったはず。それでも普通のギャルゲに比べれば攻略対象は多いともいえるが、そう決めておけば一日に百人も二百人も矢の対象にしてしまうことはあるまい。
ただし、それとは別に無視できない問題がある。
それも考えようによっては最大の問題だ。
そう、悲しいことに俺が高校生でいられる時間は限られているのである。
いつ割れても不思議ではない薄氷を踏むつもりで慎重になるあまり、いつまでも魔法の矢の使用を渋っていれば、完全無欠なモテモテ生活を送る前に卒業式を迎えてしまう。タイムリミットは三年。いいや、二年。同じ学校の女子高生たちとのイチャイチャ生活を存分に満喫したいならスタート地点は早ければ早いほどいいし、スタートダッシュも速ければ速いほどいい。
貴重な青春時代を最大限に楽しみたければ、身を滅ぼさない程度にコントロールされた多少の大胆さが必要であろう。
「あっ」
矢を使うことによるリスクとリターンを天秤にかけていると、それなりに納得できる結論が出る前に、顔と名前を知っている生徒の姿を発見した。間違いや勘違いでなければ、同じクラスの女子である布井さんだ。
幸いなことに友達を引き連れずに一人で歩いているので、まだまだ何が起こるかわからない矢を試してみるにはちょうどいい。
無駄に驚かせないように少しだけ歩調を速めてさりげなく隣に並ぶと、こちらの気配に気づいた彼女が俺の顔を見た瞬間に矢を放つ。
<A>
岸本君だっけ。そんなに親しくないから無視しよう。
<B>
めんどーだけど同じクラスだもんな。とりあえず挨拶くらいはしておこう。
<C>
ま、嫌いってわけでもないし、ついでだから学校まで会話の相手をしてもらおうかな。
という三択の選択肢。
自称天使によれば、時と場合と相手によって選択肢の数が減ったり増えたりするらしいが、ここまでの経験から推測すると普通は三択なのだろう。今までにプレイしたノベルゲームでも大体そうだった。
いきなり百個も選択肢が出てくると困るので、こちらとしても三つくらいがちょうどいい。
「そんなに親しくないんだね」
「あ? まあな。せっかくだから親しくなりたいとは思いつつも、残念ながら顔と名前を知っているくらいだ。趣味も特技も知らん。彼女に限らず同じクラスの女子とは大体そうだけど」
「寂しい高校生活……」
「うるせえ。だからこうやって頑張るんだろ」
というわけで、当然ながら選ぶのはCの選択肢だ。同じクラスの岸本君だと認識されたのに無視されるのは問題外で、朝から顔を知ってる女子と会えたのに挨拶だけで終わるのは寂しい。
よし、仲良くなるぞ!
なってもらうぞ、布井さん!
そう決めると今まで止まっていた時間が進み始め、世界が動き始めた。
先ほど出てきた選択肢によれば「嫌いってわけでもない」らしいので、せっかくだから彼女に学校まで会話の相手をしてもらうのだ。
気合が入るあまり、とりあえず先手を打って挨拶。
「お、おはよう……」
「あ、うん、おはよう」
さて、会話のスタートです。
ありきたりな挨拶の後で彼女はどう出るかな。
相手の言動を左右できる矢のおかげで自然と隣に並べたが、ほとんど接点のなかった俺と彼女の間で共通の話題を探すのは難しい。普通なら会話が続くどころか、勇気を出して声をかけたとて雑談など始まることさえない間柄だ。
けれど今は矢が刺さっている。
ひとまずこちらは待ちの姿勢をとって、いつでも会話のラリーを続けられるように身構えておこう。へえ、ふうん、なるほどといった相槌やリアクションの練習ならいくらでも妄想でトレーニングできている。
へいへい、かもーん。
「…………」
えっ。
「……………………」
いーや、これ、おかしいです。実はまだ時間が止まったままなんじゃないかと思えるほど不自然に長い沈黙が続いている。
でも矢は刺さってない。新しい選択肢も出ていない。
じゃあなんで?
仲のいい友達みたいに並んで、ほとんど同じ歩幅で一緒に歩き始めたものの、待てど暮らせど肝心の会話がまったく始まらない。面倒がられて挨拶だけで終わるBの選択肢を選んだつもりはないが、これはいったいどうしたことだろう。
もしかして矢の不備だろうか。
昨日の今日で魔法の矢が壊れたか、あっけなく魔力が尽きたか、あるいは布井さんには魔法に対する抵抗力があったとか。
誰もいない虚空に向かって一人でぶつぶつしゃべっている変人だと思われると大変で、大なり小なり今後の学校生活に響く。不平や不満があっても声には出さず、カスタマーセンターにクレームを入れる消費者のつもりで精一杯の不服を込めて自称天使に目を向ける。
(おい、どういうことだ)
おかしいじゃないか。
選択肢によれば会話が続けられるはずなのに、現実の彼女は黙り込んでしまっている。
すると天使が「あれれ? おかしーなぁ?」と言いつつ首を傾げた。
「選択肢はちゃんとCが選ばれてる。なんでか今はしゃべってくれてないけど、黙ってるだけで相手には会話をする意思があるはずだよ」
(本当か?)
「ほんとほんと。魔法の矢の効果は正しく発揮されてるよ」
ははーん、なるほど。だったら考えられる可能性は一つある。
あちらには会話をする意思があるのに会話が始まらない、つまり、こっちの話題待ちって状態なのだろう。先ほどの選択肢はあくまでも「俺に会話の相手をしてもらう」であって、彼女が会話の主導権を握るとは言っていないのだ。
よしよし、事情はわかった。
しかし困った問題が一つ。
名前を知っている程度の友達でもない女子に話題を振る度胸と経験値が足りない。
……ので、もう一発矢を放って様子を見ることにする。
えいっ。
<A>
このまま岸本君が何か話題振ってくるのを待とう。
<B>
こっちから何かしゃべりかけてみようかな。
という、受動的なものと能動的なもので相反する選択肢が二つ。今まで矢を使ってきて三択でないのは初めてだが、この選択肢なら納得だ。
もちろん俺が選ぶのはBである。Aならば矢を使う必要がない。
「おやおや、彼女に任せてばかりの消極的な選択だね。勇ましさはどこへやら」
「うるさい。会話に困ったときに彼女がどんな話題を振ってくるのかを知っておくことは、今後も生かせる重要な情報なんだよ。つまり未来を見据えた選択ってわけだ」
「言い訳はご立派」
「うるせえ」
と口にした瞬間、隣にいた彼女の肩がビクッとした。
「えっ。しゃべってないよ」
どうやらBを選んで時間が再開していたのに気づかず、口うるさい天使との会話に熱中してしまっていたらしい。
とんでもないミス。好感度だだ下がりのバッドコミュニケーション。
この一言が原因で顔を見たくないほどに嫌われてしまっても不思議ではないので、ここは即座に謝る必要がある。
「ご、ごめん」
「変なの。いきなり怒ったり謝ったり」
「あはは……」
行動原理が理解できない変人だと思われてしまったことはマイナスだが、かろうじて怒ってはいないらしいので、ここは不慣れな苦笑でごまかす。
しばらく反応を待っても俺から離れていかないところを見ると、ひとまずはセーフか。
いつのころからなのか、てくてくと歩きながらこちらをじっと見ていた布井さんがふむふむとうなずく。
「うるさいってことはないかもしれないけど、ちょうど何かしゃべりかけてみようと思ってたんだ。いい?」
「いいよ。もちろん。何でもどうぞ」
「でも何かある? 話題。というか、どうして私たちって一緒に歩いてる感じ?」
「そ、それは……」
「友達?」
どういう温度感なのやら、そんなわけないよねと言わんばかりのノリで冗談っぽく尋ねてきた布井さん。ほとんど接触のなかった昨日までの関係性を考えれば実際そんなわけないので、悲しいかな俺もそう思う。
いや、違うけどさぁ……と答えるのが普通。
けれど、ここはせっかくのチャンスなので勢いに任せてうなずく。
「うん、友達。俺はそう思ってる」
勇気を出したはいいものの俺の喉は限界を感じたらしくカラカラ。緊張感からか、じっとりと手汗もにじんだ気がしてくる。
これからよろしくね、なんて握手を求められたらどうする。ハ、ハグなんて求められたら手汗を気にしてこっちからギュッと抱きしめ返せないじゃないか。
…………。
そんな展開がないとしても、万が一とかを考えた場合に発生するであろう可能性の話だ。
とにもかくにも相手の反応が怖くて視線も定まらない。このままでは挙動不審の男子生徒でしかなく、薄気味が悪いと思われて会話も終了だ。蛇に睨まれた蛙よろしく、逃げるなり戦うなり次の手を取らねばならない気もする。
さりとて次の言葉が出てこない。
ああ、ここが俺のコミュ力の限界。
女子との会話終わり。
……このままではいかん。やってやるぞと気合を入れて登校してきた初日から俺のモテモテ計画が破綻してしまう。というわけで、すぐにでも矢の力を借りたくなって念じたが、これがまた困ったことに全く何の効果も表れない。
なぜだ。
おかしいじゃないかと天使に文句を言いたくなったが、今度ばかりは聞かなくたって理由はわかる。
どうやら彼女には一日二回までしか矢が刺さらないらしい。
「へー」
で終わりの布井さん。たった一言で返事は終了。
蛮勇をふるって俺が口にした友達、という言葉に対しては肯定でも否定でもない。
あーれ、これ、いったいどういう反応なのだろう。
俺が彼女の立場で今の発言を口にしたとするなら、多くの場合、どうでもいいと思って聞き流した返事でしかないが。
「へへ……」
少しでも印象が良くなるようにと、精一杯の愛想笑いで茶を濁す。
情けないと思ってくれるな。
不思議な矢の力がなければ俺の対女子コミュニケーションスキルなどこんなものなのだ。
もし普段から女子と円満に会話を楽しめていたのなら、そもそも得体のしれない天使の力など借りようとも思わない。
「なんだっけ、ハーレムとは違う『ラブラブ共通ルート計画』だっけ、友達以上恋人未満の女子を集めて無責任に青春を楽しみたいんだっけ。……それ、今からでも考え直してさ、まずは『友達を一人作ろう作戦』に変えたら?」
(うるせえ)
「身の丈のあった作戦に変えないと。今のやり取り見てたら三年かかっても無理そう」
(うるせえ)
「それともこんなんが君のお望み? 会話できてないけど」
(だからうるせえっ!)
こちらが何も言い返せないのをいいことに口うるさい助言が止まらないので、んなこたぁわかってる、わかったうえで努力してるんだろうがと怒鳴りたいテンションで完全ににらみつける。
相手の防御力を下げるほどの鋭い眼光。
これで黙らんか。
が、反応は天使ではなく違うところから来た。
「さっきから顔怖いね。今日、不機嫌?」
「あっ、いやっ、そんなことないけど」
不機嫌だなんて、まさかそんな。
いや、まあ、天使相手だと否定はできんが。
少なくとも布井さんに対しては微塵もそんなつもりはなかったので、これはいかんと慌てて笑顔を作ろうとする。けれど自分でも失敗したと分かるほどに表情筋が引きつってしまって、くしゃくしゃの不細工な表情で答えてしまう俺。
さすがに怪訝に思ったのか、彼女はジト目でこちらを眺めてくる。
「私と一緒にいて楽しい?」
「!!」
大変な質問だ。ここでリアクションを間違えると完全終了だ。
こういう風に尋ねてくるということは、つまんなそう、と思われているのかもしれない。
だらだらと沈黙している余裕もなく、すぐにでも的確な答えを出さなければまずい。
「あ、うん、楽しい!」
本当です、本気です、嘘なんかじゃありません!
そう伝えたいがため、ついついガッツポーズまでしてしまう。
一緒にいて楽しくないと思われては彼女との関係性が修復不能のマイナス領域に入ってしまいかねないと焦るあまり、がらにもなく声を張り上げてしまったが、言ってしまってから恥ずかしくなってきた。
なーにが「楽しい!」だ。
高校生とは思えぬ小学生みたいな答えではないか。知性のかけらもない。
「ふーん」
まんざらでもない感じ、と彼女の表情その他から判断できればよかったが、マジでわからん。まじまじと観察するわけにもいかんし、これは困った。
あっちから話題を振ってくれないのでは会話も続かず、二人で並んで黙って歩くだけ。
それぞれの作業に集中して黙々と時間だけが過ぎていく。まるで友達でもないクラスメイトと二人組を作らされて放課後に居残り作業をされられている気分になってくる。
「なーんか君には『俺が求めるのはハーレムとは全然違う!』って怒られたけどさ、確かにこれは僕が知ってるハーレムとは全然違うや。無言じゃん。彼女、楽しくなさそう」
ニコニコ。
どこからどう見ても機嫌がいいようにしか思えない、素敵な笑顔。
もう天使には文句を言わないで、内面からにじみ出る怒りや不満を表情にも出しはしない。何かを言い返すのは天使と二人きりになれた時だけだ。
でなければ布井さんだけでなく、これから出会う周囲の男女すべてに情緒不安定な人間だと思われてしまう。そうなれば友達を作るハードルはグーンと高くなってしまうだろう。
あわよくば恋人になりたいな、なんて誰にも思ってもらえなくなる。
……とはいえ、このままでいても何も進展しないが。
何かないだろうか……せめて無難な話題でも……とあきらめ半分に思っていると、向こうから歩いてきた制服姿の浮雲さんが視界に入った。
もう学校は近い。友達同士なら手を挙げて挨拶するような距離で、このまま教室まで一緒に歩いて行ってもおかしくない展開ではないか。
「……うわっ」
だけれども、一瞬ぴたりと立ち止まった彼女はプイっと顔をそらして足を速めた。さすがに走りだしてはいないが、そそくさと競歩でもやってるんじゃないかと思えるほどのスピード。
あの反応、どうやら露骨さを隠そうともせず俺から逃げようとしているらしい。
出会い頭に転んだふりをしてハグしてしまった先日のことがあるので、普段はやらない大胆な行動をしてしまった彼女にしてみれば俺から逃げたくなるのも無理はないだろう。
けれど、そうはさせるかと矢を放つ。
彼女とも仲良くなりたい! と考えているだけでなく、ちょうど今は何か新しい進展がほしかったのだ。
<A>
顔を合わせるの恥ずかしい! 逃げよう!
<B>
待て、私! やっぱり振り向いてあいさつくらいはしよう!
<C>
いっそまた転んだふりして抱き着いてみようかな。そういうおっちょこちょいなキャラってことにして、今後もちょくちょく抱き着いてみたりして。
なるほどなるほど。出てきた選択肢を見る限り、やはり彼女にとっても恥ずかしいことをしたという自覚はあるらしい。さすがに男子とのハグだ。そりゃそうだろう。
だけど、それはそれとして今後もちょくちょくハグしてみようかな、なんて考えも彼女の中にありはするらしい。
本音を言えば百パーセントの確率でCを選びたい選択肢だが、ここは精一杯の理性を駆使して、暴走しがちな己の欲望に対して急制動をかける。どんなに魅力的な選択肢であれ、今それを選ぶのはまずい。
なにしろ隣には布井さんがいる。
それも、今のところ会話がうまくいっているとは言えない布井さんが。
あくまでも俺が目指すのは全員と仲良くできるイチャイチャルートなので、誰かと仲良くなる代わりに誰かと距離が生まれては意味がないのだ。たとえ事故であったとしても、さすがに目の前で俺と浮雲さんが抱き合ってしまったら布井さんは俺たちの関係を勘ぐってしまうだろう。私なんかより彼女と仲良くしたいのね、なんて思われてしまったらおしまいだ。
ということでCはない。絶対にない。
かといって逃げられてしまうAは論外なので、ここは無難に少しずつ交流を重ねていける選択肢であるBを選んでおくべきだ。
そうだ。あいさつくらいはしてもらえるBにしよう。
よし、Bだ。俺はBを選んだ。
でもCは魅力的だな……。
あの柔らかさ、ぬくもり、いい香り。もう一度経験しておきたいのはマジでそう。また次のチャンスが巡ってきたらいいが、もしこれが最後の機会だとしたら、ほかの選択肢を選ぶのは本気でもったいない。
後ろ髪を強く引かれて未練がましくそう思った瞬間、世界が動き始めた。
「あっ」
ピューっと風のように逃げようとしていた歩みを止めて、わざとらしく声を張り上げた浮雲さんがくるりと振り返る。
さも、今、ちょうど俺たちの存在に気が付いたとばかり、ぎこちなく手を挙げて近づいてくる。
その挙動に自然さは一切ない。
あいにく演技派ではないようだ。
どっちかっていうと大根。何かに緊張している感じを隠せていない。
「おはよう。えっと、同じクラスだよね」
と言ってくれた浮雲さんに対して、こくりとうなずくのは俺と布井さん。急に振り返って近づいてきた彼女の事情を知っている俺はともかく、何かされるのではと不安視しながら様子をうかがっているのか、布井さんもお返事できません。
名前を呼びあったりしない二人の距離感を見る感じ、女子の友達ゼロ人だった俺は無論のこと、どうやら彼女たちも友達同士というわけではないようだ。
囲碁や将棋で相手の手番を待っている気持ちで黙っていたら、自分が動き出さないと何も始まらないと察したのか、浮雲さんがちらちらと布井さんを見始めた。
「ぬ、ぬのー、布井さん」
「うん。布井だけど。何?」
「いや、おはよう。まあ、これ、さっきも言ったけどね」
「そうだね。言われた。……んじゃあ、おはよう。私のはこれが一回目」
「あ、どうも」
「おはよう。二回目」
「おあいこだぁ……」
「おはよう。三回目。私の勝ち」
「あっ、勝たれたぁ……」
なーんか決着ついてるけど、それなんて勝負?
まだ友達になりきれていない関係性の女子二人による初々しいやりとりは見ていてほほえましいので、審判としても観客としても余計な口出しはしないけど。
ギャルゲ(ラブコメ)の共通ルートとは!
ヒロイン同士も仲良く楽しくコメディしあってこそです!
本格的に仲たがいさえしなければ、適度にいがみ合ったり出し抜きあったりしてもいいですが。
「き、きしっ、岸本君も、お、おはっ……」
とか思っていたら、こっちにも個別で挨拶してくれた。さっきのと合わせて二回やられたからこのままだと二点差をつけられて俺が負けらしいけど、クラスの女子に顔を向けておはようと言ってもらえるだけで嬉しい。
相手が女の子なら何度負かされたっていいじゃないか。
朝から幸せな気分だ。
「なにぼんやりしてるのさ。Cだよ、これ」
(は? Bだろ)
意味わからんことを言いやがって、と天使に目を向けた瞬間が悪かった。
「よっ、とっ、とっ……!」
「え?」
何事かと思えば、かなり強引に足をもつれさせた浮雲さんがバランスを崩す。無理に体勢を立て直すことはせず、むしろ次に踏み出した足がわざとらしく俺に向かってよろけさせてくる。
あっ! と気づいて身構えようと思った時にはもう遅い。
前のめりになって、もはや突進してくるように浮雲さんが俺の胸元に体当たり。
かろうじて踏ん張れる程度に激しかったタックルの勢いそのまま、自分の体を支えるように腕をぐるりと俺の背中に回してギュッとハグ。
呼吸が止まりました。
息ができません。
だけど素晴らしい瞬間です。
思わず抱き返そうとして迷いつつも腕を上げかけたら、それを察したのか、息をのんだ浮雲さんが慌てて俺から離れた。ほとんど俺を突き飛ばすようになってしまったのは、嫌がっているわけじゃなくて恥ずかしがっているからだと思いたい。
「ご、ごめんなさい! ド、ドジしちゃって!」
「だ」
大丈夫、とさえ言えなかった。
何かを言おうとしても口がパクパクするだけで、あまりの照れくささが原因で浮雲さんの顔もろくに見ることができない。
次に何が来るのか予想できていた前回と違って、今回の俺は予想外の展開にすっかり動転してしまっているのである。
おいおい、俺はBを選んだはずじゃなかったのか。
そりゃあ、まあ、Cを未練がましく思ったのは事実だが……。
「じゃ、じゃあね! また教室で!」
「あ……うん」
こちらの反応を待たず、今度こそ逃げるように去っていく浮雲さん。
その足は速く、矢を使って呼び止める間もなかった。
何が何やら……けれど、この幸福感。
やっぱり抱き着いてもらえるのはすごい。
いつまでも冷めやらない余韻に身も心もゆだねていると、すぐ隣から無感情な声がした。
「今の、何? 朝から恋愛? 付き合ってるの?」
しまった、布井さんだ!
抱き着かれた衝撃で頭の中が浮雲さんでいっぱいになっていたけれど、急速に冷めていって今度は布井さんでいっぱいになる。
現在の俺のキャパシティーでは同時に二人を攻略するのは不可能じゃなかろうか。
何をするにも魔法の矢は必要です。
ともかく否定しなければやばいので急いで首を振る。
「えっと……いや、そういうのじゃ。う、うき、ぐ、彼女だってドジしたって言ってたし……」
「浮雲さん。……というか、今のが、ドジ? どう見てもわざとだったけど」
悲しいかなバレバレである。
ただしこれは布井さんの洞察力が高いというわけではなく、浮雲さんの行動が誰の目から見ても不自然だったからであるが。
「変なの。君も変だったし。……二人、何かあったの?」
興味本位なのか何なのか、こちらを見る布井さんの目つきが鋭くなる。
まさか魔法の矢のことが見抜かれてしまうとまでは思わないが、このまま怪しまれてしまうのは得策ではない。俺のコミュ力は壊滅的で、ごまかすために言い訳や嘘を重ねてしまえば彼女との間に不必要な溝を作ってしまうかもしれない。
話題を変えたいところだ。しかし、今のところ一日に二回が限度らしい彼女に魔法の矢は効かないので、どう答えれば穏便に場を流せるのかがわからない。
変に勘繰られてしまう前に、こちらの戦略を立て直す必要がある。
俺に必要なのは……ひとまず一人でじっくりと考える時間だ!
「ご、ごめん。ここまで一緒にありがとう。じゃあ、また教室で」
昨日と今日の浮雲さんを見習って、この場を逃げることにした俺。
三十六計さようなら。
自称天使は勝手についてこい。
「待って」
ところが背を向けて立ち去ろうとした瞬間、右足を上げて一歩目を踏み出す前に背後からギュッと袖を握られた。
軽い力ではあるが、引っ張られる。
予想外の行動に驚いて振り返る。
「え?」
「いや、待って」
なんで?
とは思ったものの声には出ず。緊張のあまり手も足も動かない。
どうして彼女に呼び止められたのかわからず、今の俺は完全に動揺しています。
相手が何を考えているのかを知ることにも使える便利な魔法の矢も、今日はもう彼女には使えない。すなわち俺にはもう使える手がない。
「なんか言えば?」
あーはいはい、天使は黙ってろ。
「いやさ、なんで先行くの? 友達って言ったじゃん」
「あ、うん」
言いました。
という目をしています。
すべてを許した完全無欠の笑顔というわけでもないけれど、少しだけ口元を緩めた布井さんの空気が和らぐ。
「だったら一緒に行こう。……けど見てよ、靴紐ほどけちゃった。結び直すの待ってて」
「あっ、はい」
待ちます、待ちます。いくらでも待たせてもらいます。
という顔で答える。
それを見て安心したのか、ほどけてしまっていた靴ひもを結び直すためにかがんだ彼女。そんな布井さんを近くから黙って見下ろす俺。
不思議な空間だ。
最初から最後まで全くうまくいっていた印象はないけれど、どうやら俺は彼女と友達になれたらしい。
なんてことだ布井さん……優しい。
好き。
「うわ、にやにやしてる。気持ち悪いよ、大丈夫?」
うるさいな天使。にやにやくらい、そりゃするさ。
心配そうに「大丈夫か?」と問われれば、自信をもって「大丈夫」と答えよう。なんてったって彼女が顔を上げる前には真面目な顔に戻すから。
ほんの少しの間くらい喜びを隠せなくたって問題ないだろうが。
この幸せと充実感に身を浸らせていたい。
「うわ、にやにやしてる。気持ち悪いよ、大丈夫?」
一言一句ぴったり同じなので、またしても天使かと思った。
だけど声が違う! これは布井さんだ!
いつの間にか靴紐を結び直して立ち上がっている布井さんがこちらを見ていた。
心配そうというか、もう何度目だと言いたくなるくらいに怪訝そうな目をしている。これはもう今後もずっと変人扱い確定だな。
「だ、大丈夫」
あーれ、これ、自信をもって答えられてないですね。
だけど布井さんは微笑んだ。
かわいい。素敵だ。好き。
「そっか。待っててくれてありがと。じゃあ行こうか」
「うん」
というわけで、改めて並んで歩き始める俺と布井さん。
やっぱり会話はないけれど、それでもすごく満足感があったのは、彼女が友達として隣にいてくれるからだろう。
「矢がなきゃほんとダメじゃん」
(うるせえ)
ただ天使だけはいつまでもずっとうるさかった。