02 浮雲さん
「ところで、次の矢はいつになったら渡してくれるんだ?」
ほらほらと催促する調子で問いかけてみれば、天使はあきれたような顔をして答える。
「何を言ってるのさ。もう持ってるよ」
「は……? もう持ってるって、俺が? どこにあるんだよ?」
重さを全く感じていない右手や左手にはもちろん、その場でキョロキョロと首を回して探してみても矢らしいものは影も形もない。子供用の簡単な間違い探しでさえなかなかクリアできない俺が見落としているだけだろうかとも思ったが、にやにや笑っている天使が俺をからかっていると考えたほうが筋は通っている。
「そんな目で見ないでよ。持っているのは本当なんだ。なにしろ魔法の矢なんだからね。次からは念じるだけで飛んでいくよ」
「本当か?」
「本当だってば。疑うんだったら実際に試してみたほうが早いんじゃない? ほら、ちょうど都合よく人がこっちに歩いてきてるよ。あの人でいいんじゃないかな」
「そうするか」
と、適当に決めたところで相手を見る。
こちらに歩いてきているのは一人の少女。年齢は俺と同じくらい。髪は黒のショートで、服は梅雨入り前の気候を気にしてか、着脱しやすい薄手の上着を羽織っている。
というか、やけに見覚えがあると思ったら同じクラスの浮雲さんだ。距離があるのと私服なのとで、すぐには気が付かなかったけれど。
警戒心もなくトコトコ歩いてくる。
さっきの猫に負けず劣らずかわいい。
「なあ、普通の人にはお前の姿って見えないんだろ?」
「そうだよ。なんたって僕は天使だからね。残念ながら選ばれし人間の目にしか見えないんだ。君はその一人。すごいことだから光栄に思ってくれていいよ」
「じゃあ思っておくさ。……ともかく、だったらしばらくは黙っていたほうがいいな。このままお前の相手をしていたら、ぶつぶつ一人でしゃべっている馬鹿だと思われる」
「もう思われてるんじゃない?」
「うるさい」
そこで会話を打ち切って、しばらくは彼女が近づいてくるのを待つ。いや、こんなところで立ち止まっていてもおかしいので、こちらでもゆっくりと歩く。
そして数秒後、あと数歩ですれ違いそうだというとき、手に矢を持ったつもりで強く念じる。
――彼女に矢よ刺され!
するとどうだろう!
猫の時と同じように、彼女の動きが止まったではないか!
我ながら馬鹿なことを念じていると思ったものの、どうやらうまくいったらしい。
動画の一時停止ボタンを押したかのようにぴたりと足を止めた彼女だけでなく、世界そのものの時間が止まっているのだ。
「君の時間も一緒に止まっているから、手も足も動かせないし彼女の体には触れないよ。残念だったね」
「うるさい」
残念なのは事実だが言わなくていい。
時間停止と言ったら、時が止まった世界の中でも自分だけは動けるのが定石じゃないのか。
そんなことを考えていたら脳内に選択肢が表示された。
<A>
あれ、同じクラスの岸本君じゃん。だけど気づかなかった振りして通り過ぎようかな……。
<B>
いやいや、ここはちゃんとあいさつしよう! せめて頷くくらいでも!
<C>
いっそつまづいた振りをして抱き着いてみようかな。どんな反応するんだろ。
ふむ……。
「Cだな」
三つの選択肢を前にして迷いなく口にすると世界が動き始めた。
すかさず彼女の顔をちらりと確認してみるが、一秒前と比べて変わったようには見えない。教室でよく見るいつもの浮雲さんだ。あまりにも普通に歩いてくるので、ほんの数秒後につまづいた振りをして抱き着いてくるなんて信じられない。
自分が選んだばかりの選択肢が何かの間違いだったのではないかと思えてくる。
しかし、もしかしたら……という期待感と緊張が俺の身を固くする。
どきどき。
あまりにもぎこちなく足を踏み出してしまったせいで、こちらのほうが先につまづいてしまいそうになる。
「ちゃんと歩きなよ」
(うるさい)
自称天使の姿は俺以外の誰にも見えず、憎たらしい声も聞こえない。ろくに反論もできないので困ったことだ。
おかしな独り言を口にしている馬鹿な男子だとは思われたくないので、声には出さず目線の動きだけで抗議すると、天使にかまけて彼女から顔をそらした瞬間に動きがあった。
「あっ!」
という、いかにもアクシデントがあったかのような彼女の声!
これは、そう、きっとあれだな!
おそらくその瞬間が来た!
おっとっと! と言いながら、演技とは思えない自然な動きでつまづく彼女。やや大げさにバランスを崩して前のめりになり、ちょうど目の前にいた俺に寄りかかってきて、そのままの勢いで肩に手をまわしてハグをしてきた。
ぎゅっ。
こればかりはやや不自然なアクションになってしまったことに自覚があるのか、間違って熱湯に指を突っ込んでしまったかのような反応で、ガバッと慌てて離れた彼女の顔は赤い。
「ご、ごめんなさい! つまづいちゃって!」
などと言って頭をペコペコ何度も下げる彼女だけれど、たとえわざとでも謝る必要は一切ないのだ。むしろ何回でもつまづいてくれていい。
通常であれば真正面から女子にハグされるなんて予想外のアクシデントだが、魔法の矢のおかげで彼女に抱き着かれることを事前に知って覚悟していたので、こちらには精神的な余裕がある。
ここはスマートな対応をして彼女の好感度を上げておきたい。
大丈夫さ。気にしないで。
と言おう。
「だっ、大丈夫。ききき気にしないで」
だけど唇が震えて、どもってしまった。無理もない。
なんてったって、予想していた以上にすごかったのだ。
初めて女の子に抱き着いてもらえた……。
服越しとはいえ、すごい体温だ。
好きになっちゃう。
「じゃ、じゃあね!」
高熱が出たみたいに顔を真っ赤にして、すたこらさっさと逃げるように小走りになった彼女が俺の前から去っていく。追いかけることも呼び掛けることもできず、ただ茫然と遠ざかっていく彼女の背中を見送る。
ついでだからもう一発くらい矢を射ってみようかとも思ったが、それどころではなかった。
まだ心臓がどきどきしている。べったりとにじむ手汗がすごい。
とめどない興奮と、これでもかという快感と、それからやっぱり罪悪感。
なんということだろう。
自称天使に渡された魔法の矢は正真正銘の本物だったのだ。
「どう? 納得した?」
これ以上はないくらい嬉しそうに笑みを浮かべている自称天使が満足げに俺の顔を覗き込んでくる。ちょっと腹立たしいので素直に頷くのもしゃくではあるけれど、今だけはひねくれた反応で答えるのはやめておこう。
つまらぬことで機嫌を損ねて、大事な矢を取り上げられてしまっては大変だ。
おだててやってもいい。
「ああ。納得した」
つとめて冷静に答えようとしたものの、わずかながらに声が震えてしまったのを隠すのは難しい。なにしろ頭の中が冷静ではないからだ。
あーでもない、こーでもない、と思考がぐるぐる空回りするくらいには動揺している。
六億円くらいもらえる宝くじの一等に当選したみたいに、全身が熱を帯びている。
もう逃げられてしまったとはいえ、まだ彼女のあたたかさが残っている気がするのだ。
こちらの都合がよくなるように選択肢を選んで、問答無用で相手の背を押してしまえる、非現実的な魔法の矢。そのとんでもない力を利用したとはいえ、ろくにしゃべったこともない女子に抱き着かれるとは……。
ほんの一瞬、それもほとんど事故みたいなものだったが、それでも俺の胸は一世一代の告白に成功したような達成感であふれつつあった。
自分の思い通りに相手を操れた……というには限定的だが、それでも恐るべき強制力だ。
これなら自分の運命はおろか、世界そのものさえ変えてしまえるかもしれない。
「ふふ、ふふふふふ……」
素晴らしい。
ああ、なんとも最高じゃないか。
初めて俺は俺が生きている自分の人生の主人公になれた気がする。
思わず笑みがこぼれてくる。
「どうしたの?」
さすがに怪訝に思ったのか、人目をはばからずクククと声を漏らし始めた俺を気味悪がって自称天使が眉を顰める。
隠し通せるものなら最後まで黙っていようと思っていたけれど、すでに様子がおかしいことがばれているのなら、もはや遠慮はいらない。
浮雲さんが消え去った後は近くに誰の姿も見えないので、声を抑える必要もないだろう。
景気づけのためにも胸を張って叫ぶ。
「はははっ! ぬかったな、自称天使! よりにもよって、この俺に魔法の矢を授けてしまうとは! 野心も度胸もない、つまらない平凡な人間だと思ったか! 良識と理性に邪魔をされて二の足を踏むとでも、周囲の人間に遠慮して自分の意志を抑え込むとでも、力を恐れて魔法の矢を封印したがる臆病者だとでも思ったか!」
ここまで言って、ビシッと人差し指を自称天使の顔に突きつける。
「残念だったな、自称天使! 俺は善人でも凡人でもない! 平気で自分のために、それこそ何度でも魔法の矢を射らせてもらうぞ! たとえそれで誰がどれだけ泣くことになろうとも!」
我ながら、すがすがしいほどに最低な宣言だ。こんなことを恥ずかしげもなく胸を張って言える人間だとは自分でも思わなかった。
もともとそんな性格だったのか、魔法の矢のせいで眠っていた本性がこじ開けられてしまったのか、非日常な展開を前にしてテンションが上がっているだけなのか、なんにせよ平常心ではない気がする。
だが、ここで謙虚さを取り戻して口ごもってしまっても消化不良となって気持ち悪い。
相手は天使だ。人間ではない。
言いたいことは最後まで言ってしまおう。
「なにしろ俺には夢があるからな! どうせ無理だろうと諦め半分で願っていた『憧れ』があるんだ! それを叶えるチャンスがきたっていうんだから、ここで足踏みしている場合じゃないぜ!」
「夢? 憧れ? 念のために尋ねておくけど、キミの憧れている夢って何さ?」
「よくぞ聞いてくれました! それは……」
「それは?」
「ああ、それは……」
スラスラと流れるように答えようとして、喉元まで出かかった瞬間、思いがけず言葉に詰まった。
いざ「夢」の内容を声に出そうとして、さすがに自分でもそれを口にするのはどうなのか? という逡巡が生まれたのだ。
つまり恥ずかしくなったのである。
低俗でナマのままの心をさらけ出すには一種の勇気がいる。たとえ打ち明けるべき相手が人間の社会で生きていない天使であったとしても度胸が必要だ。
しかし、俺は知っている。
服を脱ぎ捨てるようにして赤裸々に気持ちを吐き出すことには”気持ちよさ”もあると。
ならば言ってしまえ。
「ああ、いいか? それはな、みんなにちやほやされることさ!」
「……はい? ちやほや? どういうこと?」
お前が何を言っているのか理解できない、みたいな反応をされてムッとする。
「おい、こら、どうして疑問符が返ってくるんだ! 天使だったら人間の欲望くらいわかれよ! みんなに好かれたいっていうのはそんなに珍しい願望でもないはずだろ!」
「ああ、なるほど。ちやほやされたいっていうから悩んだけれど、そういうことね。つまりキミは『ハーレム』に憧れているってわけ? よくある願望ってのはその通りだよ。たくさんの女性に愛されたいっていうのは昔から多くの男性が夢見てきたことだから」
「ハーレムぅ?」
「え、何? 違うの?」
「ぜんっぜん違う!」
ここは大事なところなので思わず声が大きくなった。勢いに任せて叫ぶばかりで詳しく説明しなかった俺が悪いとはいえ、わかりやすい例でいうと実妹と義妹くらい全然違う。よくわからない人から「一緒じゃん」と言われたって、違うのは違う。
そりゃあ世間から見れば大差ないのかもしれないが、勘違いされたままでは沽券にかかわる一大事だ。
確かに俺は「みんなに好かれたい」と言った。
間違いなく「ちやほやされたい」と全力で叫んだ。
しかし「ハーレム」なんて一言も言っていないのだ。
「みんなに好かれたいといっても一方的に片思いされるのがいいんであって、誰かと恋人関係になりたいわけじゃない! エッチでスケベな肉体関係なんてもってのほかだ! いいか、自称天使! 俺はな、たくさんの女子たちと友達として仲良くしたいんだ! 正式にお付き合いしたいわけじゃない! みんなに好かれて、あわよくば誰とでも付き合える状態になって、そんな恋愛一歩手前の状況で楽しい青春を送りたいんだ!」
「な、なにそれ……」
「いいか、自称天使! ハーレムってのはたくさんの女性と交際していることを言う! もっと言うと、複数の嫁をめとった状態のことだ! 俺はそんなもの望んじゃいない! 俺は……そう、俺はなあ……!」
たっぷりとためて、何かふさわしい言葉はないだろうかと探して、思いつく表現の中で一番しっくりくるものを宣言する。
「まだ本命のヒロインを決めてしまう前、すなわちギャルゲの共通ルートが好きなんだ!」
個別ルートに入ると本命のヒロインが一人になってしまうので大体熱が冷める……とは間違いなく余計な情報だろうから言葉にはしない。
当然、そういうものに知識がない自称天使は「ギャルゲ……?」とか「共通ルート……?」とかぶつぶつ言いながら小首をかしげている。どうやら天界にはギャルゲが流通していないらしい。最盛期に比べれば現実世界でも下火になりつつあるとはいえ、下手をするとアニメや漫画といった二次元文化そのものが存在しない可能性すらある。
そんなもん天国じゃない。
かといって地獄なんてもってのほか。
がぜん死にたくなくなった俺であった。
こうして始まった俺の「本命を決められないモテモテなラブコメ主人公化計画」だが、素晴らしい力を秘めた魔法の矢をもってしても一筋縄ではいかないであろうことがすぐに知れた。
他人の行動をある程度操れるというすごい能力の矢ではあるが、この「ある程度」というところが問題なのだ。
やってはみるが、なかなか思い通りにはいかない。
物は試しと家に帰って母親を相手に「お小遣いアップ」を狙って矢を使ったが、出てきた選択肢は否定的なものばかり。むしろ減らす選択肢さえあった。
そう、この矢の力で出てくるのは「その時点で相手が(自発的に)とりうる行動」のみなのである。
つまりは「本人がやりたくないこと」を強引にやらせることはできないのだ。
例えば今回の場合、矢を使う前に掃除を手伝うなどして好感度を上げておき、「頑張ってくれているからちょっとくらいお小遣いを増やしてあげてもいいわね」という選択肢を出現させるか、あるいは矢を使う前にある程度の交渉をしておき、「次のテストで九十点以上取れたら金額をアップしてあげてもいいわよ」といった選択肢を出現させる必要があるのである。
それが難しいなら、根気よく何回も矢を使って少しずつ目的に近づいていくしかない。一回の右折で右に曲がるのではなく、三回の左折で目的地に向かうのだ。
そう思って二発目の矢をぶっ刺そうと思ったら、うまく発動しなかった。
「どういうことだ?」
右手をグーパーしながら自称天使に尋ねると、それはねえ、と偉そうに答える。
「相手によって一日に使える上限があるんだよ。君のお母さんは一日一回が限度みたいだね」
「そうなのか。……まあ、無制限に何度でも使えるってんじゃ都合がよすぎるもんな。ちなみに普通は何回くらいが限度なんだ? みんな一回程度なのか?」
そう尋ねると、今度は困ったように首をひねった。
「普通って言われてもね……。人によって違うのもそうだけど、相手の精神状態や君との信頼関係によっても変わるから」
「俺との信頼関係? それって良くなると限度が上がるのか? 下がるのか?」
「…………」
「おい」
どうやら俺は実の親に信頼されていないらしかった。
ちなみに父親は母の尻に敷かれているので、一日に何回刺さろうが役には立ちそうにない。