パンを咥えて登校して以来、笑顔の王子がどこまでも追ってくる
「ち、遅刻っ、遅刻ぅっ……!」
くすんだ赤色の髪を靡かせ、緑色の瞳を焦りで輝かせながら、朝食のパンを咥えて、彼女は走っていた。
空を。
「ど、うしてうちはこう貧乏なのよっ!」
叫んだ瞬間口から滑り落ちたパンを、空中で綺麗に一回転して回収した彼女は、もぐもぐとそれを咀嚼しながら走る。空を。
カミラ・ローランド子爵令嬢、いつもの登校風景である。
爆走するカミラから、魔力がとてつもない勢いで吸い出されていく。学園に着く頃に残るのは授業に必要最低限か少し足りないくらい。
成績はいつも通り中の中から下に落ち着くだろうが、それはカミラにとっては些細な問題である。カミラの願いはただひとつ。
「今日こそ、玉の輿を狙ってやるわ……そしてとにかく速い馬車か、学園に近い屋敷を買ってもらうのよ、そうすればこんな登校ともおさらばなんだから!」
ごくりと朝食を飲み込み、苛立ちと共にカミラは叫ぶ。そうして、気流の曲がり角を曲がった瞬間。
勢いよく、何かがカミラにぶつかった。
「うえあっ!?」
全身の魔力が吸い出される感覚。ふらりとかしぐ身体。淑女としては耳を覆いたくなるような叫び声をあげて、カミラは墜落していく。
ぐしゃ、と全身が地面に叩きつけられる瞬間、防御魔法を発動したカミラ。緊急事態ではあったが、日常的に元気一杯な兄弟たちと戦闘をしている彼女にとっては造作もないこと。
「すみません、うっかりして? 立てるかな?」
綺麗に受け身をとったカミラに片手を差し伸べるこの世のものとは思えぬ美形に、カミラは言葉を失った。
「……うっかり?」
異国情緒溢れる顔立ちに、顔の中心で強い光を持って輝く瞳。揺れる髪の毛からふわりと香る、かぎなれない辛味のある甘さ。
それら全てに一瞬見惚れ、そうして縁がないなと切り捨てて、ようやく状況を認識したカミラはつんと顔を背けた。
「うっかり?」
「うん、うっかり」
にこにこにこ。何がそんなに面白いのか、美しい顔に満面の笑みを讃えた謎の美形は、相変わらずカミラに手を差し伸べている。
「うっかり? 翼竜系の魔物を撃ち落とすための魔力撹乱魔法を、私が曲がる角度まで計算された完璧な位置に、うっかり?」
「うん。先日西のノータル街で出たという知らせを聞いて、練習しようとしたら、うっかり」
「ノータル街で出たのは、翼竜ではなくて地竜ですわね」
「これは」
にこり、と笑みを深めてみせた美形は、一歩歩み寄ると未だに受け身をとった体勢のままのカミラに、ぐい、と手を近づけた。
「賢い人だね」
「これくらいは一般常識でしてよ」
「おまけに謙虚だ」
「物は言いようですね。毒舌って言いますのよ」
ぐいぐい、と手を近づけてくる圧に負けて、カミラは渋々その手をとった。すぐに、カミラの手が意外なほどの力強さで引かれる。立ち上がったカミラは、不本意ながらも礼を口にした。
「ありがとうございます」
「いえ。私が撃ち落としたので」
「うっかり?」
「そう、うっかり」
悪びれもせずに言い放った美形が、未だ握ったままのカミラの手を口元に寄せる。ちゅ、と軽く口付ける音。
「素敵な人だね」
「お上手ですわね」
「そうだ、訂正しようか。うっかりではなく、わざと私は君を撃ち落とした。それもこれも、君と一度話したかったから……というのはどうかな?」
「笑えない冗談ですね」
一蹴したカミラは、握られた手を引き抜こうと力を込める。けれど意外な力強さで抵抗され、カミラは諦めた。粉々に吹っ飛ばそうと思えばできるが、そうすると授業のための魔力がほとんどなくなってしまう。成績に頓着していない、目立ちたくはないカミラではあるが、落第は避けたいのだ。
粉々に吹っ飛ばそうという発想がおかしい、という指摘は一度置いておいて。
「カミラ・ローランド子爵令嬢。私と結婚してくれないか?」
ひく、とカミラの顔が引き攣った。
「……どうして私の名前をご存知なのか、お聞きしても?」
「それは、もちろんいつも目で追っていたから」
「身近にこんなに素敵な人がいたら、いくら私でも覚えていると思いますわ」
言外に信じていない、と匂わせたにも関わらず、美形は嬉しそうな顔をする。
「あなたに褒めてもらえるのなら、一生この容姿で過ごそうか」
「他の容姿が? 確かに魔力の気配は感じますわね」
「まあ。けれど今日から捨てたって良い」
本気でそう思っているらしい美形に、カミラはさすがに怒りを通り越して困惑した。
初対面で求婚され、なんて変人だ、と少し恐怖を感じながら見ていたが、想像以上に本気度は高い。
「それより、私は求婚の返事を聞きたいんだけど?」
「それより、私はあなたの名前が知りたいですわ」
「名前、そうだね」
流れるように紡がれていた美形の言葉がぴたりと止まった。ほら、訳ありだ、とカミラは心の中で呟く。変装してカミラを撃ち落とした時点で、うっすらと察してはいたけれど。だってそんなの、正体を見て逃げられたら困る、と言っているようなもの。
残念ながら、カミラに寄ってくるのは、いつだって変人ばかりだ。今までカミラに贈られたことのあるプレゼントは全て、爆発するか怪しげな通信を始めるか自我を持つかの三択だった。
カミラが望むのは、穏やかで、浮気をせず、男女の愛はなくともカミラと子供を大切にしてくれる、お金持ちだというのに。多くは望んでいない。
その時点で多くを望み過ぎているという話は、一度置いておいて。
困ったように眉を下げた美形は、カミラの手を離すとゆっくりと立ち上がった。
くるりと背を向け、一拍置いて、はらりとその髪が揺れた瞬間、その造形が揺らいだ。
太陽を溶かし込んだような金髪に、青い空を思い起こさせるような澄んだ青い瞳。ふわりと香る甘さ。
「エイベル・ノーリッシュ、かな」
ゆっくりと遠ざかっていく後ろ姿。
「エイベル第三王子、殿下……」
呆然と呟くカミラの声だけが、風に溶けて消えた。
言うまでもないことだが、もちろんカミラは遅刻した。
◇
「ちょっとカミラ! 何するのよ!」
「いいから、聞いて! 事件よ!」
「私はエイベル殿下の鑑賞会を」
王立ノーリシアル学園、昼のカフェテリア。
多くの学生でごった返す室内で、何やらぼうっと窓の外を見ていた友人アンジェラの腕を強く引いたカミラに、視線を向けることなくアンジェラが文句を言う。
それを無視して、さらに腕を引いたカミラに、アンジェラが不快げな表情を隠さなくなったあたりで、カミラが一言。
「そのエイベル殿下に関する大事件だって言ったら?」
「…………サンドウィッチでどう?」
「ミルクティーもつけなさいな」
「アイスティーよ。高いわ」
「サンドウィッチは安いので良いから、ミルクティーにして頂戴」
「分かったわよ」
アンジェラに昼食の調達を任せ、カミラはぐるりと室内に視線を巡らせた。混み合っている室内では、近くの席の会話に耳を傾ける人がいないとは思うが、内容が内容だ。
目を細めたカミラは、席を取ることなくアンジェラを待った。
「カミラ、ほら受け取りなさい」
「助かるわ」
「それで、席は?」
「駄目。場所を変えるわよ」
歩き出したカミラに、何よ、と小声で呟きながらアンジェラが従う。手の中で揺れる乳白色の液体に、カミラは満足そうな笑みを浮かべた。
「ここなら大丈夫でしょう」
辿り着いたのは、学園の裏手にある森。小さなベンチが並んでいるそこを見てひとつ頷いたカミラは、手近なベンチに腰掛ける。
「それで? エイベル殿下がどうしたって?」
「アンジェラは本当に殿下が好きね」
「当たり前よ! あの太陽のようなお髪……部屋に飾っておきたいわ。朝焼けで輝くのも美しいけれど、きっとランプの下でも信じられないくらい美しいに決まっていて――」
へえ、とひとつ相槌を打ったカミラは、ミルクティーを傾けた。うん、美味しい、と淑女からは程遠い蕩けた笑顔を浮かべて、サンドウィッチへと手を伸ばす。
「――から国宝と言って差し支えないものなのよ。いいえそんな言葉でも足りないわ。ねえカミラ、分かった?」
「アンジェラがエイベル殿下を本気で好きなことだけは分かったわ」
「そうでしょう?」
顔を見合わせて、うんうん、と頷く2人。
残念ながらその感情が世間一般の愛情と相当にずれていることに気がつく者は、ここにはいない。
指摘する人が不在なまま、話は進む。
「それで、もったいつけないで話しなさい? 話によっては、お金、返してもらうからね」
「求婚されたわ」
「まあおめでとう! 玉の輿玉の輿言っていたあなたがようやく現実を見てくれて嬉しいわ! それで相手は?」
「だから、エイベル殿下よ」
「…………え?」
「エイベル、第三王子、殿下」
信じられない、というのがありありと透けて見える表情でカミラを見つめていたアンジェラが、ふとその表情を崩し、温かい笑みを浮かべた。
「カミラ。立派な婚約者が欲しいのは分かったけれど、あなた一回落ち着いた方が良いわ。ねえ、そう、あなたに興味があるというご子息を知っているの。ほら、あのあなたが前に助けた方よ。教科書をなくして困っていた」
「覚えてないわ。それに、エイベル殿下と決着をつける前に他の方のことなんて考えられるわけないわよ」
「カミラ、あなた少しおかしいわ。今日だって授業で一睡もしなかったじゃない、困っていることがあるなら教えて頂戴?」
「……アンジェラ、本当なのよ」
「ええ、ええ、本当ね。ところで、あなたのご実家の連絡先を教えてくださる? 少しご相談が」
「馬鹿にしてるわね」
「まさか!」
なおも生暖かい笑みを浮かべるアンジェラの頭を、カミラが軽く叩いた。
「酷いわね。馬鹿になったらどうするのよ」
「これ以上馬鹿になりようがないから安心しなさいな」
「いつだって平均ぎりぎりのカミラには言われたくないわ」
「私だって魔力が残っていれば……もう良いわ、それで求婚されたのだけど」
まだ言うか、という顔をするアンジェラを、苦々しくカミラが見つめる。
「本当よ、今朝のことなのだけど――」
朝からあったことを詳細に話すカミラ。最初から最後まで耳を離すことなく、ゆったりとベンチに腰掛けて全てを聞いたアンジェラは、笑顔で言った。
「カミラ、あなたやはり疲れてるのよ。試験が終わったばかりだし、ね」
「アンジェラ! もう――」
「カミラ、会いたかった」
「…………へ?」
いつの間にか顔を近づけて、夢中になって話していたカミラは、聞き覚えのある声に、恐る恐る振り返る。
日の光のもとで、いっそう美しく照り映える金色の髪。
「え、エイベル殿下」
咄嗟に跪こうとしたカミラを、エイベルは微笑んで止める。一瞬判断に迷ったカミラの手を、流れるようにエイベルが取った。
「カミラ、明るい中でも君は綺麗だね」
カミラの隣で、ふぎゃ、という音がした。アンジェラの断末魔にそれかけた視線を咎めるように、エイベルがふっとその顔を覗き込む。
「今朝のように話してはくれないのかな?」
「そ、その節はとんだ失礼を……」
「私は気に入っているんだけどね」
がくがくと震えるカミラの、頬にかかった毛を流れるように払ってみせたエイベルは、甘く微笑む。カミラの隣で、ぴぎゃ、という音がした。
「それで、返事は考えてくれた?」
「ご冗談では?」
「まさか! 本気も本気だよ」
「……失礼を承知で申し上げますが、考え直された方が」
「どうして? 君は、私と結婚したくない?」
結婚したいとかしたくないとか、話はとうにそんな次元を超えている。言葉に詰まって動きを止めたカミラに、エイベルはすっと目を細め、寂しそうな光を灯し、跪いてカミラを見上げる。
「私のことが、嫌い?」
「ひ、いや、あのまずはお立ちください」
「ほら、話を逸らさない。嫌い、かな?」
カミラ・ローランド16歳。
友人からの評価は、気を持たせて突き放す男女の駆け引きの、突き放す方しかできない残念令嬢。年齢、イコール好きとかよく分からない歴。将来の夢は、玉の輿。
目線で必死でアンジェラに助けを求めるが、アンジェラはカミラの方を見ようともしない。その視線の先は、揺るがずエイベル、の金髪。
要するに、カミラは混乱していた。
「私が殿下をお慕い申し上げているかというお話ですが」
「うん」
「わ、私、別にその殿下のお髪に興味があるわけではないのです!」
「…………うん?」
エイベル・ノーリッシュ17歳。
第三王子として生を受け、兄の王太子の即位もあと少し、継承権こそ望み薄ながらも満たされた人生を送ってきた。
そんな彼の、拗らせ切った初恋は、どうやら前途多難なようで。
「で、ですから、申し訳ございません」
とりあえず、振られたらしい、ということだけは理解した。
その出会い方から、口説き方から、何もかもを間違え切っているということを教えてくれる人間は、残念ながら不在であった。
「そう。また来るから、カミラ」
ひえ、とカミラは全身を凍らせる。にこにこにこにこ、と出会った時より深くなった笑顔に怯えるカミラと、カミラに良い印象を与えようと笑顔を作るエイベル。
最初から最後まですれ違い切っている2人だが、最後の希望のもう1人は、地面に落ちた一筋の髪をいかに自然に拾い上げるかということに全神経を傾けていた。
「お、お待ちしております……?」
「うん、楽しみにしていて、ね?」
さすがは王子、振られてもへこたれないその強靭な精神力で次への約束を取り付け、軽く手を振って退散する。これで良いのか、と思わなくもないが、エイベルは強靭な精神力で自分を納得させた。
手に残ったミルクティーを、すお、と吸い上げたカミラ。彼女もまた、強靭な精神力の持ち主であった。
「……冷めちゃったわね」
この、調子である。
「アンジェラ、そろそろ戻ってきなさいな」
「エイベル殿下のお髪…………」
地面を鬼気迫る形相で見つめていたアンジェラの首根っこを掴んで、カミラは引っ張る。
「ちょっと何するのよ」
「何って、あなたこそ何をしようとしているの」
「国宝を持ち帰りたい衝動と、新品の手袋も額縁も無しに国宝に触れる冒涜と戦っていたのよ」
「アンジェラが殿下と婚約すれば良いと思うわ」
「冗談。私のは恋愛感情とは別よ」
「…………別なの?」
「別よ。遠目に見るのが一番。国宝は然るべき場所に保管されるべきだわ」
「私、エイベル殿下の髪の毛には興味がないから、別に殿下が好きなわけではないと判断したのだけれど……」
「…………馬鹿なのね?」
呆れてものも言えない、という表情を器用に作って見せたアンジェラを、カミラは睨む。
「残念ながら事実なのよ」
「カミラ、よく玉の輿とか狙おうと思ったわね……というかそうよ、エイベル殿下なんて最高の玉の輿じゃない!」
「無理ね」
「どうして? お金持ちで優しくて、子供もきっと大切になさるわ! よくわからないけど、カミラのことも気に入ってくださっているのでしょう? こんな機会二度とないわよ」
「無理よ無理。玉の輿図鑑に入れようと思ったことなんてないわ」
「玉の輿図鑑! ねえカミラ、あれ捨てた方が良いわよ。カミラに惚れ込んでらっしゃる? らしい? 多分? な殿下がご覧になったらどうお思いになるか」
「嫌よ。魔法史のレポートよりも時間かかってるのよ、あれ」
自信満々に、カミラは制服のスカートの中から大きな本を取り出す。
無駄に凝った装丁に、いつでも押し花が作れそうな分厚さ。カミラ渾身の作品、「玉の輿図鑑」である。びっしりと書き込まれているのは、カミラのお眼鏡に叶いそうかつ家柄的にもなんとかならなくもない、年頃の男性の個人情報。とはいえ、もちろんそのページのほとんどは白紙である。
カミラが突き出してきた玉の輿図鑑を慣れた様子で躱し、アンジェラは諭すように繰り返す。
「捨てた方が良いわ。この機会を無駄にしてどうするのよ」
「身分が高過ぎ。玉の輿とかそれ以前の問題でしょう?」
「殿下は第三王子なのだから、騎士団でしょう? 厳しく身分や教養なんて求められないわよ。騎士団長もなかなかの方らしいし。宮中じゃないのだから、問題ないわ」
「問題大ありよ。それに」
少し声を潜めて、
「怖くない?」
「カミラ、本当に怖いもの知らずよね」
「いいえ、今怖いものを味わっているところよ! 私にとっては初対面なのよ! 初対面の第三王子に通学中撃ち落とされて、そのまま求婚よ! 状況が意味不明で怖いわ」
顔を見合わせて、まあ確かに、と頷く。
「きっと何かの冗談よ。でなければ賭けに負けたのね」
「賭けに負けて求婚するわけが」
「何かの冗談、よ」
カミラの笑顔の圧に負けて、アンジェラはがくがくと頷いた。
どうやらカミラはなかったことにしたいらしい、と理解したアンジェラは大きく頷いて。
普段通り、たわいのないおしゃべりに興じ始めた少女たちの笑い声が、裏庭に響く。
嵐のような第三王子の登場の証拠は、アンジェラのドレスの中に仕舞われた、ハンカチで幾重にも包み込まれた一本の髪の毛だけだった。
この時、どちらも、一切、露ほども思っていない。
また来るから、という約束が、本気も本気、遠足の前日並みにエイベルの眠りを妨げている、などと。
◇
「えー、編入生を紹介する」
翌日の朝の教室、眠さとだるさがぼんやりと膜を張っているような空間。
教壇に立った教師の間延びした声に、カミラは落ちかけていた瞼を持ち上げる。
「彼は元は一つ上の学年に所属していたが、この度様々な事情によりこちらのクラスに所属することになった」
学年落ちなどと聞いたこともない事態のはずだが、カミラは平然と伸びをする。関係のないことには興味を持たない主義なのである。
それでもまあ、顔ぐらいは見ておくか、と目だけを動かして前を見つめて。
「エイベル・ノーリッシュです。よろしく」
見事に、固まった。
黒板に描かれた、エイベル・ノーリッシュ、の文字の横で、エイベルが丁寧に礼をとる。
この国に、エイベルを知らない人間などいるはずがない。だからわざわざ名前を書く必要もないのだが、それも様式美というもの。
そこで嫌な予感がして、そろそろと、カミラは隣の席へと目をやった。
空席。
カミラの視線に目ざとく気がついた教師が、のんびりと告げる。
「ああ、ローランド子爵令嬢の隣に座っていた彼は、諸事情により本日を持って転校することとなった。そうだ、丁度いい、君、彼女の隣へ」
「はい」
こちらへ向かって歩いてくるエイベルに、カミラは必死で窓の外を見つめる。浮かんでいる雲の数を数えてみる。すなわち、存在に気が付かなかったことにしようという最後の悪あがきである。
今日も空が青い。
「カミラ」
「ひええ」
「……カミラ?」
「ご機嫌麗しゅうエイベル殿下本日はお日柄もよく」
「うん、おはよう」
正直すぎる口元を両手で押さえ、必死で取りつくろうカミラの姿に、エイベルは頬を緩める。
惚れた弱みがなんとやら、である。今のエイベルなら、カミラがたとえその得意技――後方宙返りの末に側方倒立回転からのロンダート伸脚前転――を披露したとて、可愛らしく見えたであろう。
だがカミラの浮かべる本気で怯えた顔に、さすがの強靭な精神力も一瞬揺らぐ。けれどすぐに、にこにこにこにこにこ、と笑顔を浮かべると、椅子を引き寄せて、カミラに近づいた。
「今日は1人なんだね」
「アンジェラ……この間の友人の彼女は、魔法薬学の補習に呼び出されておりますわ」
「君は優秀なんだね」
「補習を回避しただけで優秀なら、この学園の9割の方は優秀ですわね」
「これからもそうして気楽に話して欲しいんだけれど」
「申し訳ございませんとんだ失礼を」
ひええ、と縮こまるカミラを、エイベルは笑顔で見下ろす。その手にしっかりと握られているペンを、じい、と見つめた。
「私が本当にまた来ると、思っていなかったね?」
「……申し訳ござ」
「冗談だと思っている?」
ペンを握るカミラの手を上から握りしめたエイベルが、ゆっくりとその指を解く。あっという間にそれはカミラの手から奪われ、初対面の時のように、カミラの手を握りしめたエイベルが微笑む。
「私は、本気で君に求婚しているのだけれど」
そしてその手に、ちゅ、と軽い音を立てて口付ける。もっと言うと、その指先を、ぺろ、と。
指先に走った湿った感触に、カミラは本気で怯えた。
「あ、あの」
「うん?」
「だ、第三王子であらせられるエイベル殿下が私程度に求婚など何かの間違いとしか思えないのですよ」
「心外だね。本気も本気。家に申し込むとカミラが困るだろうから、先にカミラの心を落とそうと思っているだけだから」
「先に、ですか」
「うん。逃がさないからね。順番の問題」
「ど、どうして私なんかを」
「うん、いくら本人とはいえ好いた女性を貶されることは嫌いだよ」
「申し訳ございません」
咄嗟に謝ってしまったカミラだが、これで良いのだろうか、と思うところはなくもない。
「なぜカミラを、ねえ。強いて言うなら……単純、だったからかな」
「失礼ですわね」
「少なくとも、いくらお金がないからと言っても、毎朝あれだけの距離を正面突破しているご令嬢にあったことはないからね」
「私以外にいたらぜひ紹介していただきたいですわ」
ふふ、と笑ったエイベルに、カミラははっと我に返る。うわあ、と頭を抱えたカミラを、追撃が襲う。
「カミラ、私は玉の輿にはなれない?」
「や……え、なぜそれを」
「好いた女性の異性の好みを調べるのは当然だと思わない?」
「異性の好みという話とはかけ離れているような気がいたしますわね」
「それでも、カミラが結婚相手に選んでくれるならなんでも良い」
「私の家は貧乏でして」
「それが何か問題でも?」
笑顔で圧をかける美形に、怯えて椅子をずらすカミラ。一歩進むエイベル。一歩下がるカミラ。
そのままずりずりと後退していった2人は、ついに壁に当たって動きを止める。
「カミラは、どうやら自分の価値を分かっていないようだね」
「エイベル殿下の前で、自分の価値を見出すのはなかなか難しいですわ」
「カミラも、上手だね」
カミラからの褒め言葉に、ほんのりと頬を染めるエイベルの内心は、歓喜の舞である。強靭な精神で持って、踊り出しそうになる足を押さえつける。
ここで一つ情報を付け足しておくと、エイベルは今日この場に来るときに、カミラを撃ち落とした日の姿で来ようか3時間ほど迷っていた。
「けれど私は本気だよ。そうだね、放課後、ついてきてもらおうか」
にこにこにこにこにこ。有無を言わさぬ笑顔に、カミラは諦めて従った。
そうして放課後、エイベルに連れられて移動すること、数十分。その間に文字通り最高級の馬車に乗ったり入るどころか見たこともない高級街に入ったりちょっと聞いたことのないレベルの口説き文句を聞かされたりしたが、兎にも角にも数十分。
「とりあえず、ここに泊まろうか」
「……素晴らしい舞踏室ですわね」
「カミラは冗談が上手だね。玄関だよ」
「…………」
圧倒的財力の差に撃沈したカミラは、諦めて押し黙る。なぜこんなことに、という内心を押さえ込みながら、エイベルに案内されて豪華な屋敷内を歩くこと、数分。
「ここがカミラの部屋だよ」
「お気持ちは大変ありがたいのですが、その前に色々とご説明いただいても?」
「説明? 何か説明することがあった?」
「説明が不要なことを探す方が難しいので、最初から全部お願いいたしますわ」
「私はカミラが好き」
「……はい」
「カミラには価値がある」
「…………はい」
しん、と沈黙。
「まさかとは思いますが、終わりですか?」
「うん」
「飛行術のエイドラハム先生でももう少し説明が丁寧ですわ」
「あの人、何を言いたいのか分からないよね」
「はい。ぜひ魔法史のモリソン先生を見習っていただきたく……ではなく!」
「カミラ?」
「それが、どうしてエイベル殿下の家に泊まるというお話になるのです!?」
「ええ……」
「本気で分からない、というお顔やめていただけますか?」
この辺りで、カミラも悟る。
エイベル・ノーリッシュ第三王子。その立場からそれなりに女性人気はあり、学業もそつなくこなし、別に人間離れしているほどではないが一般的に見れば申し分なく優秀である……というこの男。
ひょっとして、ひょっとしなくても、馬鹿なのでは?
とんでもなく失礼なことを、真顔で考えていた。
「私が殿下の家に泊まると、私の価値がどうにかなると、そういうお話です?」
カミラの中で馬鹿の烙印を押されているとは露とも思っていないエイベルは、実はカミラを家に呼んだ喜びのあまり半分ほど話を聞いていないのだが、大きく頷いた。
「詳しく伺っても?」
「ええと、つまり、カミラは今登校に大半の魔力を費やしている」
「そうですね」
「あれほど見事に空を飛べる人間を私は見たことがないし、というか空中で体勢を保てる時点で人間技ではない」
「褒めすぎですわ」
「本気だよ? でも、私の魔力撹乱の影響をもろに受けたこともあって、相当魔力量を必要とする魔法だと認識している」
「ええ」
どうやらそれで終わりらしい、というのを悟って、カミラは少し考える。一拍置いて、理解した。
「ここから通学すれば、魔力を消費することなく登校できて、学校で良い成績が取れると、そういうお話です?」
「そういうことだね」
「それが、私をここに呼んだ理由ですか?」
「うん、半分はそうだね」
もう半分は、なんだかもう察してしまったので、カミラは聞かない。
代わりに、苦笑して言った。
「お気持ちはありがたいですが、私は今のままで十分ですわ」
「なぜ?」
「目立ちたくないから、ですわね」
「というと?」
「目立つとろくなことがありませんので」
これでも、カミラは地元では有名な存在だった。
圧倒的な魔力量と技術と、美貌、はないけれど悪くはない顔立ち。豊満、ではないけれど一応女性と分からなくはない体つき。
それなりの有名人であるカミラに、色々な感情はつきもので。まあそれが良いものばかりではないというのは、お察しの通り。
「ああ……その、ごめん」
「え?」
「多分……手遅れ」
先程までの笑顔はどこへやら、しゅん、という形容が相応しく縮こまったエイベル。嫌な予感がカミラの胸を焦がす。
その予感の正体を、カミラは翌日登校した瞬間に知ることになる。
◇
「見て、あの令嬢よ。昨日エイベル殿下と一緒に帰宅されていたとかいう」
「……知らない方だわ。私としたことが」
「いいえ、知らなくて当然よ。あの方は――」
右からも、左からも自分の噂話。歩けば人垣が割れ、通り過ぎた後では噂話が盛り上がる。
まるで海を割るように、カミラは勢いよく進む。
「……あの男」
カミラの口から零れた少しばかりお上品ではない言葉は置いておいて、なぜこのようなことになっているのか、という話だけれど。
あの日エイベルは、別段逃げも隠れもせず普通に家に帰った。カミラを連れて。ただそれだけのことだったのだが、カミラとしては声を大にして言いたい。
「なんの影響も考えてなかったとか、信じられないわ……」
てっきり逃げたり隠れたり、そうでなくても適当な言い訳をした上でカミラを連れて行ったのだと、そう信じていたのだ。
今まで恋人どころか女性の友人さえいなかった第三王子の、ふって沸いた恋人かもしれない謎の女性。騒ぐな、と言う方が無理な話で。
「おはようカミラ。あなた大変なことになってるわね」
「アンジェラ……」
「あら珍しい、本気で堪えてる? 心臓に剛毛が生えているようなカミラが?」
「失礼ね。私は目立つのが嫌いなのよ……」
ふっと片手を上げたカミラ。その周りで、びしゃりと水が弾けた。
視線をやりもせず掛けられた水を魔法で跳ね除けてみせたカミラは、アンジェラに向かって苦笑する。
「だって、こうなるでしょう?」
「私はカミラがとんでもない危機回避能力を持っていたという事実に驚いているわ」
「地元では日常茶飯事だったもの」
「……ミルクティー、飲む?」
「本当? ありがとう」
その足でカフェテリアに向かう2人。思考の半分以上をミルクティーに支配されながら、飛んでくる水や事故を装った魔法を片手で弾き飛ばすカミラ。
狙いを外した魔法が他の生徒に飛んでいくのを、流れるように撃墜する余裕すらある。自分のせいで人が水を被るというのは、カミラとしては耐え難い。
「けれど困ったわね、このままだと授業のための魔力が足りなくなるわ」
「この後は座学だけでしょう?」
「ええ。けれど問題は明日よ」
「ああ、模擬魔術戦闘の実技だったわね。いつもカミラしんどそうにしているし」
「あれいつもぎりぎりなのよ。配分が難しくて」
「やあカミラ」
ぎりぎり、と音でもしそうなほどにぎこちなく、カミラが振り返る。
「ご機嫌麗しゅうエイベル殿下」
「うん、カミラ、なんだか楽しそうな話をしているね?」
誰のせいで、と言う言葉をぎりぎりのところで口の中に留めることに成功したカミラは、曖昧に笑う。
「ええ。おかげさまで」
留めることに成功したとはいえ、結局出てきたのは皮肉である。並の神経を持つものがこの場にいたら顔面蒼白になって崩れ落ちただろうが、ぎりぎり並の神経をもたなくもない最後の希望は、国宝の輝きを前にこの世界に感謝していた。
「もしかして、私のせい?」
「もしかしなくても、この騒動の原因は殿下ですわね」
あ、と口元を押さえたカミラ。もはや言うまでもないことだが、カミラの口はとんでもなく正直なことに定評があった。カミラの性格を知る友人は、あの子、口に別人格飼っているのよ、と我が意を得たりという顔で語る。
「責任は取るから。私の元へおいで。一緒に住もう」
偶然通りすがり、エイベルの言葉だけを耳にした令嬢が、虚ろな目で座り込んだ。わらわらと集まる他の令嬢。責任……という呟きが、さざなみのように広がっていく。
「これくらいは自分で解決できますわ」
「これくらい、じゃないでしょう? もうカミラ1人の問題ではないんだ。カミラが欲しいという欲望のままに行動した私にも責任がある」
「いえ、エイベル殿下に責任はありません。最終的に殿下の家にお邪魔すると決めたのは私ですから、私の責任ですよ」
「責任がある。責任を取らせてくれ。私は責任を取りたいんだ!」
この王子、だんだんとカミラの性格を理解し始めており、今度は情に訴えるのでなく責任という言葉を振り回す。目標はもちろん、カミラとの同居である。
そして残念なことに、大いなる誤解を招く発言であることに、一切気づいていない。その言葉によって恐ろしい数の呪詛がカミラを襲ったのだが、全てカミラが流れるように撃墜したため、そのことにも一切気づいていない。
「……エイベル殿下、ここまで計算されていました?」
「否定はしないね」
そしてカミラ、ここで悟る。
最初から最後まで、エイベルの狙い通りにことが運んだことを。
ひょっとして、ひょっとしなくても、馬鹿ではない?
とんでもなく失礼な発言を、見直した瞬間である。
「分かりました」
王子との同居。素晴らしく噂になると分かった上で、カミラは話を引き受けた。
思考は単純である。生きるため以外に他ならない。ここまでで散々に恨みを買ったカミラにとって、魔力が底をつきかけた状態での登校は死へ向かって一直線。女の嫉妬は怖い。
魔力があれば、どうにかなる。カミラは肝心なところで、魔力史上主義であった。
そしてすったもんだの末に、有り余る魔力を全て抱えて登校することになったカミラは、更なる噂の中心を爆走していくことになるのだが。模擬魔術戦闘で校舎を半分ほど吹っ飛ばしたり、それを修復したりしなかったり、うっかり修復しすぎたり、魔法薬でうっかり幻のなんとかを生産したり、うっかりそれを溢したりするのだが。
これから巻き起こる大騒動に対して、仲良く同じ家に帰った2人の思考は単純である。
「やった……! カミラと同居……!」
当然別室なのにも関わらずカミラの吸っている空気を感じて一睡もできなかったエイベルと、
「死にたくない……防御魔法の練習をするべきね……」
死への恐怖から魔法の特訓を始めて一睡もできなかったカミラ。
そして翌日、すっかり寝不足な顔の2人が出来上がるのである。
◇
「ふわぁ……」
「眠そうね、カミラ」
森の爽やかな風にさらさらと髪を靡かせ、その爽やかさとは正反対なあくびを噛み殺そうとして失敗すること37回目、のカミラは、アンジェラの声に重い頭を持ち上げる。
「ええ」
「どうして……? って聞くのも野暮ってものね。分かってるわよ、お疲れ様」
「別に話すほどのことでもないわよ」
「話すほどのことでないって……」
「聞いたところで面白くないってことよ」
今更言うまでもないことだが、2人は全く違う話をしている。
それも当然。アンジェラからしてみれば、友人が男性の家に泊まり、責任だなんだの話をし、その上寝不足ときたらこれはもう確定演出。
その実際が、魔法の特訓をしていただけだなんて、誰が思うか。
「ええ……? そんなに、そうね、良くなかった?」
ぎりぎりアウトな発言を繰り出したアンジェラだったが、その思考は単純である。
その距離まで近づけば、こう、髪の毛の一本二本くらい……と、そういう。自然といただく流れに持っていけたり……なんて。友人だしあわよくば……とか。
「疲れただけよ。おかげで眠くて仕方がないもの」
「そんな……こう、感動とか、幸せとか、なかったの?」
ちょっと衝撃を受けた様子のアンジェラ。こう見えて、中身は乙女である。
「感動? 今更感動も何もないわよ。作業よ作業、確かに最初は感動したけれど」
「カミラ!?」
「何よ、いきなり大声を出して」
はっと我に帰った様子のアンジェラ、周囲へと視線を巡らせ、誰もいないことに胸を撫で下ろす。友人の不名誉、というか問題でしかない発言をなかったことにしようと必死なのである。
声をひそめたアンジェラは、恐る恐る問いかける。
「初めてではないの……?」
「当たり前でしょう」
「当たっ……、ちなみに今までのお相手は……?」
「相手?」
カミラは目を閉じる。思い返すは、木の枝と葉っぱとキノコと(以下略)にまみれながら戦った、地元での修行の日々。
「いちいち覚えてないわね」
「信じられないわ……」
「仕方ないのよ。最後の方はひとりでは相手にならなくて、常に一対複数だったから」
「複数……」
アンジェラは目を閉じる。思い起こすは、(以下自主規制)。
「カミラ……」
ゆっくりと立ち上がったアンジェラは、カミラの両肩に手を乗せると、目を覗き込んで、心を落ち着けるように言った。
「やはり、ご実家に伺うわ」
「どうしてそんな話になるのよ」
「もう罪悪感もないのね……」
「罪悪感? どうして? ああ、今度アンジェラも一緒にどうかしら?」
「嘘でしょう」
「そんなに必死で否定しなくても良いじゃない。あなたが苦手なことは知っているけれど、意外とやってみたら楽しいものよ」
「そんなわけにはいかないわよ……!」
何やら焦っているアンジェラを見て、カミラはほくそ笑む。
日頃から魔法が苦手なアンジェラである。特訓に誘っても断られ続け、最近では相手にもしてもらえない。
なぜかはわからないが、アンジェラが真剣に考えてくれているらしい今が、好機。
「良いじゃない。私が全部教えてあげるわ」
「知りたくないわよ!」
「ええ……そんなに嫌わなくても良いじゃない」
「少なくとも、カミラと一緒とか絶対に嫌よ」
「どうしてよ。傷つくわ」
このあたりで、あれ、とアンジェラは思う。
目の前で目をきらきらさせている、カミラ。いくらなんでも、これは、と。
もう一度、恐る恐る、今更ながら、大前提を聞き直す。
「カミラ、昨日の夜、何してたか、聞いても良いかしら?」
「魔法の特訓だけれど、今更どうしたのよ」
「……魔法の特訓?」
うん? とアンジェラが聞き返す。
うん、とカミラは素直に頷く。
「ええと、魔法の、特訓?」
誤解を解くのに30分かかった。
「アンジェラ、とんでもない誤解をしてくれたわね……」
「私のせい!? あれはどう考えてもカミラが悪いわよ!」
珍しく声を荒らげるアンジェラに、カミラはおとなしく謝る。
素直なのは、カミラの長所である。ただしたまに素直すぎることも、ある。
「大丈夫よ、何度も言っているけれど、私は殿下と結婚するつもりはないもの」
「お家までお邪魔しておきながら、そうなの?」
なんだか殿下が不憫になってきたわね、とアンジェラは空を見上げる。
今日も空は青い。
「ええ。だから、また玉の輿図鑑を――」
ぷつり、とカミラの言葉が途切れた。
不自然な間に、アンジェラは視線を戻し、例の図鑑を覗き込み、そして、固まった。
びっしりと書き込まれたページ。ぱらぱらとめくっても、めくっても、同じ筆跡。
もちろん、カミラの字ではなく。一番上に刻まれるのは、流麗な筆記体で、
エイベル・ノーリッシュ。
顔を見合わせ、視線を戻し、黙ってそれを読むこと、数分。
「なんというか……金融商品の広告?」
「安全性と流動性と収益性の説明でいっぱいね」
「お金のことしか書いてないわ」
なぜこれがここに書かれている、ということからは目を逸らし。
ぱたん、とカミラはそれを閉じて、スカートへと仕舞い込む。
「何も見てないわ」
「ええ」
しっかりと、頷き合った。
そうしてカミラが、やっぱり、さすがに、家に住むのはどうなのか、と思い始めたころ。
エイベルに与えられた部屋の中で、魔法の特訓をしながら、そろそろもしかして、ちゃんと距離を置いたほうが良いのでは、と少し真剣に思い始めた日の翌日にはもう。
しっかりとエイベルの膝の上に抱えられ、おしゃれな湖畔へと向かう馬車に乗せられていた。
それは所謂、デート、なのだが。実際エイベルは、満面の笑みの後ろにほんのちょっとの緊張を隠し、カミラを抱え込んでいるのだが。
カミラの脳内で、子牛を乗せた荷馬車が揺れているのは、仕方がないことである。
「カミラ?」
そんなカミラの心情を知ってか知らずか、心配するように顔を覗き込んだエイベル。
笑顔を返して見せたカミラだったが、その横顔には憂いが見える。
あれ、とエイベルは思う。
これは、何か、気にしてるな、と。
それでも荷馬車、いや豪勢な馬車は湖畔へと辿り着く。
カミラをエスコートしようと、エイベルが空いた扉に向かって足を一歩踏み出した瞬間、ぐい、と背中が引かれる感覚がして。
次にエイベルが気がついた時には、カミラの手に、一本の矢が握られていた。
「殿下、警備が甘いですわ。方向は、ここから北を正面に58度、距離は概算で――」
ぴたり、とカミラは言葉を止める。
それはもちろん、エイベルの手がカミラの手を握りしめて、その矢を奪い取ったから。
「怪我はしていない!?」
「この程度で私が怪我をするとお思いです?」
「それはそうかもしれないけれど! 心配くらいは、させてくれても良いだろう? 私のせいで危険な目に遭わせて、ごめん。このお詫びは――」
あっという間に動き出した護衛たちには目もくれず、必死で謝罪するエイベルだが、その声はカミラに届いていない。
「心配……」
ぼんやりと呟くカミラに、エイベルはようやく気がつく。
「どうかした?」
「前から聞いてみたかったのですが」
「うん」
「怖くはないのです?」
「何が?」
「私が」
「まさか」
即答したエイベルを、カミラはじっと見つめる。
本当だよ、とエイベルはうんうんと頷く。
「では、自分より強い女は嫌では?」
「なんで?」
心底わからない、という顔で、エイベルは首を傾ける。
「……それなら、良いですわ」
ふわ、とカミラが笑った。
今までエイベルが見てきた、引き攣った笑顔でも、恐怖を押し殺した笑顔でも、逃げたくて仕方がない笑顔でも、ぎりぎり社交辞令的にアウトな笑顔でもなく。
自然な、笑顔。
は、とエイベルの口から息が漏れる。
何かを言おうとして、何も言えなくなった、けれど何よりも雄弁な、小さな息の音。
「カミラ……」
ゆっくりと伸ばされたエイベルの手が、カミラの頬を包み込む。
一瞬びくりと身を震わせたものの、カミラは大人しくされるがままになっている。
もしかして、とエイベルは思う。
顎にそっと指をかけても、カミラの様子に変化はない。わずかに力を込めても、そのまま。
カミラの口元が、わずかに動いて。微かに唇が開かれて。
「ところで殿下、もう一度聞きますが、どうして私なのです?」
カミラの口元が、それはもう、しっかりと動いて言葉を発した。
「……うん、ごめん、聞いてなかったからもう一回言ってくれる?」
正確には頭が切り替えについていかなかったから、なのだが、もはやカミラにそういう空気を期待しても無駄である。年齢、イコール好きとかよくわからない歴、は手強い。
そろそろそれを悟ってきたエイベルは、諦めて聞き直す。
「どうして私なのです?」
「前に言わなかったっけ?」
「聞きましたわ。ですが、単純だからと仰られても」
「うーん」
わずかに悩むように視線を上げたエイベルだったが、相手はカミラである。
ムードやら駆け引きやら、色々気にするだけ無駄だと開き直る。もちろん、正しい判断である。
「カミラの、単純でまっすぐなところが好き」
「やっぱり、褒めてませんわね」
「なんで? 人が周りを気にしてできなくなることを、躊躇わずにできるカミラが好きだってことだよ」
「……心当たりがないのですが」
「そういうところだよ」
ふ、とエイベルが微笑んで、握ったままだったカミラの手に口付けを落とす。
「何も思わずに、当然のように、困ってる人に手を差し伸べるカミラが好き」
「……気のせいですわよ」
「なんで? カミラに助けられて、カミラを慕ってる男は多いよ。まあ、お礼の贈り物には全部私が自我を持たせておいたけど」
「全ての元凶は殿下でしたのね」
思い返すのは、家を走り回っていた美しいアクセサリーたちに、突然歌い出すドレスたち。
嬉しいな、とか、ちょっといいかも、とか、何だか心臓が、とか、いろんなものが、それを聞いた瞬間に、霧散した。
「万が一にもあの男たちにカミラが興味を持ったら大変でしょ?」
「殿下、いくらなんでもやって良いことと悪いことが……いえ、もう良いですわ。それでも、そもそも、どうして私をご存じだったのです? 私など地味で目立たないどこにでもいる生徒だったと思うのですが」
「それに関する異議は置いておくとして、騎士団長を知らない?」
「全く話の流れが読めませんが、顔ぐらいは存じ上げておりますわ」
「昔、会ったでしょ?」
「いえ」
「え?」
「え?」
噛み合わない話に、顔を見合わせる。
「私は、騎士団長が、カミラを騎士団に加入させたがっているという話を聞いて、カミラのことを知ったのだけれど」
「初耳ですわね」
「カミラの飛行に惚れ込んだ騎士団長が、陛下に謁見して」
「いきなり話が大きくなりすぎでは?」
「どんな手を使ってでも、騎士団に囲い込みたいと。それでカミラの飛行を父上や兄上たちと鑑賞して、何分に学校に着くか賭けて」
「競馬か何かだと思われてます?」
「みんなで、どうにかカミラを王家に囲い込みたいという話になって」
「すでに外堀が埋まり切っている事実を今知りましたわ」
「私が立候補して、今に至るんだけど」
カミラの衝撃を全て涼しい顔で受け流したエイベルは、首を捻る。
「本当に心当たりはない?」
「……あ」
う、とカミラは目を逸らす。一つ、心当たりがなくもない。
「分かった?」
「あの、騎士団長様、登校する私を追いかけたりしました?」
「声をかけられる機会がそこしかないとは、言っていたね」
「……」
「カミラ?」
す、とカミラの目が泳ぐ。エイベルはしつこく追いかける。
しばらくの攻防の後、諦めたカミラ。ぼそ、と呟く。
「ストーカーかと思って……」
「ストーカー」
「撃墜しましたわ」
「撃墜」
「魔法で、少し。あの、ごめんなさいと、お伝えいただけます?」
一瞬唖然としたエイベルは、うんうん、と頷いた。
「まあ、カミラだからね」
そうして向けられた笑顔に、カミラは笑顔を返す。
そうしてゆっくりと馬車を降りた時には、二人の手は繋がれていて。
帰りの馬車でも、同じ家に帰るまで、それは変わらない。
そんなこんなで、波乱と混乱と騒乱を巻き起こしながら、その中心で台風の目の如く平然と生活を送っていたカミラだったが。
いつものように、仲良く歩いて登校しながら、ふとエイベルの顔を見上げたある日、突然、気づいてしまう。
「カミラ、今日も可愛いね」
なんかこの人、光り輝いてない?
「エイベル殿下」
「なんだい、カミラ?」
「発光系の魔法薬でも被りました?」
「うん?」
この時点でお察しであるが、カミラは恋をしている。非常に分かりにくく恋をしている。なお本人に自覚はない。
「うーん、心当たりはないけれど……逆に、カミラが何かを被ったことは?」
「私に飛んでくる薬品の類はそんな優しいものではないですわね。毒薬か、爆薬か」
「うん、ごめんね?」
「いえ。最近致死性のものがやたら多くて、もはや皆様が私に当てる気がないことを察しつつありますから」
「カミラだからね」
「そう、致死性のものといえば」
「そこから話題が繋がることはなかなかないよね」
その言葉を聞き流し、カミラはスカートから一枚の紙を取り出す。
こまこまと書き込まれているのは、数字のようであるが。随分と使い古された様子のそれに、エイベルは首を傾けた。
「それは?」
「点数表です」
「何の?」
「私の結界を破った枚数です」
「うん?」
「私の周りに、身を守るための結界があるのはご存知と思うのですが」
その結界は、ごく薄い、簡単な作りのものが、膨大な枚数重なり合った状態になっている。というのも、結界で毒物を相殺していかないと、無関係な周囲の生徒にまで被害が広がりかねないのである。
弾き飛ばすだけでは、不十分。
そんなことをエイベルに説明した後、カミラはぴたりと右斜め上を指差す。
丁度その瞬間に飛来した呪いが、カミラの結界をぱりぱりと破って、消えた。
「6点ですわ」
淡々と宣言したカミラに、わっと歓声が上がる。なかなかの記録であるらしい。
「こうしてカミラの結界を破った数が、記録になるということ?」
「ええ」
ちなみに、とエイベルが聞く。
「最高記録は?」
「ローゼミア公爵令嬢が、王太子殿下のために作ったクッキーだと聞いてますわね」
「ああ……」
遠い目をしたエイベルが、頷く。
「この間兄上の毒殺未遂があったのだけれど」
「大変ですね」
「この程度の毒だったら隠し味と同じだと、毒入りの茶を飲み干していたね」
「お元気そうで何よりですわ」
「ところで、ローゼミア公爵令嬢の記録は?」
「387枚です。尊敬に値する記録ですわよ」
「やっぱりね」
うんうん、と納得したようにエイベルが頷く。
どさくさに紛れてカミラの手を握ったエイベルは、その柔らか……くはなく、飛んでくる毒薬を片手であしらえるほどに積み重なった戦闘経験を感じさせる手に、うっとりと微笑む。
その瞬間エイベルは、巷で噂のギャップ萌えという言葉を理解した。
もはやギャップではなくそちらが本性だという話は置いておいて、ここで触れるべきはカミラの手である。
ぎゅうう、と握りしめられた手が、そろそろ限界を訴え始めているのだ。
「殿下」
「どうしたの?」
「離していただけませんか?」
「どうして? 痛い?」
「痛くはありませんが……」
カミラにしては珍しく、その言葉が途中で途切れる。
彼女の優秀な頭――ただし恋愛面を除く――は現在、絶賛活動中だった。誤魔化すのに必死であった。
すなわち、手汗、である。
「カミラ?」
何だか光り輝いているようなエイベルの笑顔を前に、カミラの頭は全活動を停止した。
その口だけが、勝手に動く。
「手汗が……」
「うん?」
心底わからない、という表情で首を傾けるエイベル。
そのままカミラの手を持ち上げて、ゆっくりゆっくり指を剥がして、カミラの少し手汗を感じさせなくもない手を目に近づけ――。
「エイベル殿下!」
「どうしたのカミラ、急に」
「お手をお離しくださいませ!」
「うん、嫌」
「お願いですから!」
「嫌だね」
「……実は私の汗、爆薬なんですの!」
「うん、その話はやめようか。嫌な予感がする」
真剣な顔で目を合わせて、一つ頷く。
「つまりですね、手は繋がない方が――」
「うん」
分かっている、という顔をして、エイベルが一つ頷いて。
元気いっぱい、カミラの手を握った。
「エイベル殿下?!」
「カミラに爆殺されるなら、それもいいかなって」
「殿下!」
こんな会話をしながら、毒薬と爆薬とファンレターが飛び交う中を、2人は手を繋いで仲睦まじく登校する。
「ところでエイベル殿下」
「なんだいカミラ」
「噂によると、今日手を繋いで学園の門をくぐった男女は、一生結ばれるそうなのです」
カミラのとんでもない発言に、一瞬よろめいてカミラの張っている結界から外れたエイベルのすぐ脇を、少しでも被れば三日三晩の地獄の苦しみの上に死に至る伝説の毒薬が通過する。
「アンジェラに聞きましたの」
この一言にいたく感動したエイベル、のちに己の髪の毛の半分ほどを失うことになるのだが、特筆すべきはそれではない。
「それだったら、私と結婚する?」
流れるような求婚の言葉に、にこにこにこにこにこにこ、と笑顔で頷いたカミラの表情である。
だがそこで、あ、待てよ、とカミラは思う。
「私、エイベル殿下のことが好きなのです?」
「……うん?」
悲願であった求婚を受け入れられたことで、喜びに結界の外へと華麗なるナチュラルスピンターンを決めかけていたエイベルの足が、ぴたりと止まる。
「私、エイベル殿下の髪の毛に興味はありませんわ」
「髪の毛は必須条件ではないから安心してね」
「あと、エイベル殿下はミルクティーではないですよね」
「生まれてこの方、私は自分をミルクティーだと思ったことはないよ」
ううん、と首を捻ったカミラ。
「どうしたら、好きかどうか分かります?」
「うーん、爆殺されても良いと思ったら、かな?」
ううううん、とカミラは首を捻る。それもそれで悪くはないけれど、何だか違う気がしなくもない。
捻りすぎて骨が悲鳴を上げ始めたあたりで、カミラはひょいと顔を戻した。
「よく分かりませんが、今が幸せなので良いとしますね」
恋は盲目。
そんな告白なのかでないのかよく分からない言葉にもナチュラルスピンターンからのリバースターンを決める準備を始めたエイベルと、そんなエイベルをじいっと見つめて発光魔法の原因を探り始めるカミラ。
後に、爆薬の雨と毒薬の沼で育ったと有名になる、有能ポンコツ夫婦、婚約の瞬間であった。
そんなカミラが、ついにエイベルの発光の原因を悟るのは、もう少し、先の話になる。
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