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客室の一室を、シャロルティナは長く自室として使っていた。本当は主寝室と、その続き部屋にあたる女主人の部屋が、シャロルティナの部屋だったのに。ずっと昔にそこから追い出されて以来、シャロルティナの部屋はこの客室だ。
部屋自体は広くて不自由はしていないが、不愉快ではあった──あの平民女ごときに、よもやこの自分が追いやられることになるだなんて。
(形だけの妻でいればいいのに、ジェカルドの愛まで掠め取るだなんて)
ジェカルドの心変わりは、シャロルティナにとっては青天の霹靂だった。あの美しい人は、確かにシャロルティナの虜だったはずなのに。
シャロルティナがアミラ・ホールに転居したのは、王都で起こしたちょっとした火遊びのせいだった。
婚約者のいる上位貴族の男がシャロルティナの美貌に惚れこみ、シャロルティナもそれに応じて恋愛ゲームに興じた。だが、その男の婚約者はあまりに嫉妬深く、シャロルティナを過剰に責め立てたのだ。確かに夜会で何度も踊ったり、二人きりになったりはしたが、それだけなのに。別にシャロルティナも相手の男も、ちっとも本気ではなかったのだ。
あんな不貞とも呼べない遊びすら許容できないなんて、あの婚約者の女はよほど自分に女としての自信がないのだろう。だからこその悋気だとシャロルティナもシャロルティナの家も相手にしなかったが、相手方の小言はうるさい。そこでシャロルティナは自主的に、静養の名目で何もない田舎に引っ越すことでほとぼりを冷ますことにした。結果的に、ジェカルドという名門侯爵家の嫡男に近づける機会を得たので、この判断は間違っていなかったはずだ。
シャロルティナには兄姉が何人もいる。両親から結婚を強要されたことはない。だから、贅沢さえさせてくれれば、嫁ぎ先など相手が裕福な名家の男でさえあれば後添えでも愛人でも構わなかった。
ジェカルドは既婚者とはいえ、妻は平民だ。ジェカルドの心さえ射止めれば、実権だってどうとでも握れる。金も使い放題だ。そのはずだった。
(水に何か妙な薬でも混ぜて、ジェカルドの心を操ったとしか思えませんわ)
シャロルティナは確かにジェカルドを愛したし、ジェカルドだってシャロルティナを愛していたはずだ。だが、ある日突然別れを告げられた。心変わりした彼の視線の先には、屋根裏のネズミと馬鹿にしていたリーリアがいた。
使用人に用意させた浴槽の中で半身をお湯に浸けていたシャロルティナは、ふと手を丸めてお湯を掬い上げた。透き通っていて温かい。
(これを用意しているのは、誰?)
伯爵令嬢のシャロルティナは、使用人一人一人の詳しい仕事内容など把握していない。いくら日常的に入り浸っているとはいえ、他家のこととなればなおさらだ。
だが、使用人達によるリーリアへの嫌がらせの一環として、井戸と給湯室を無駄に何往復もさせて水を汲ませていることは知っていた。
シャロルティナが湯浴みに使っているお湯も、リーリアが汲んだ水を沸かしたものだろう。もしかしたら、ベッドサイドテーブルに置かれた水差しの中身もリーリアが汲んできた水かもしれない。つまりリーリアなら、その意思と道具さえあれば屋敷中の人間を毒殺することも可能なのだ。
「……!」
リーリアに命を握られている可能性に気づけなかったのは、彼女のことを完全に格下だと侮っていたからだ。見下していた相手がまさか反旗を翻すなどありえないと、シャロルティナは慢心しきっていた。
(そ、そんな危険な薬品、あの女が手に入れられるわけがないでしょう!? このわたくしですら苦労したんですもの……!)
だってシャロルティナは、毒殺する側だったのだから。
シャロルティナがジェカルドと愛を育むのを快く思わなかった、彼の父と老司祭。心臓の発作に見せかけて殺せるような毒を、シャロルティナは彼らに対して密かに盛った。
シャロルティナの目論見通り、二人の男はすぐに病死してくれた。ボルバ司祭については警察の捜査が入ったが、証拠は何も残していない。シャロルティナが捕まることはなかった。
ジェカルドの母は由緒正しい家の令嬢であるシャロルティナを歓迎していたし、ジェカルドの妻はジェカルドからいないもののように扱われていたので、殺す必要がなかった。
たとえリーリアという妻がいても、ジェカルドが社交界に連れて行くのはシャロルティナだったし、他の貴族もシャロルティナを実質的なジェカルドの妻として扱っていたので、ウィラスティ家当主夫人の座に固執する必要がなかったのだ。……ジェカルドがリーリアを愛し始める前までは、だが。
人を殺す側だった自分が、誰かに殺されるわけがない。少し考えれば一瞬で破綻するその理論は、けれどシャロルティナの中では筋の通ったものだった。彼女は毒物をそれと知られず入手する難しさも、怪しまれないよう実行する難しさも知っているからこそ、なんのツテもない素人に毒殺なんて実行できるわけがないと信じきっていたのだ。
ただ、それまでシャロルティナは失念していた。毒殺の難易度の高さは、自分が周到すぎたせいであることを。
誰にも疑われないように人を殺すのは、どんな手段であっても難しい。しかし後のことを一切考えないのであれば、身の回りにあるもので人間なんて簡単に殺せる。そのことを、シャロルティナはようやく思い出した。
シャロルティナの顔はすっかり真っ青だ。心地よいはずの半身浴も、ただ毒素を体内に吸収する時間にしか思えなくなる。シャロルティナは身震いし、慌てて立ち上がった。
「きゃっ!?」
タオルを掴もうと伸ばした手は空を切る。身体が思うように動かず、シャロルティナは浴槽の中で転んでしまった。
「な、なに……? なんですの、これ……!?」
透明だったお湯は赤黒く濁り、黴や脂のような不潔な塊が浮いていた。お湯はぐつぐつと音を立てて一気に沸騰し、とても浸かっていられない熱さになる。
とっさに浴槽から出ようとするが、お湯の中で何かが四肢にまとわりついてくる。浅いお湯しか張られていない浴槽の中でもがく裸体の少女ははたから見ればさぞ滑稽だろうが、シャロルティナは必死だった。
(赤い……髪の毛……?)
力任せに右腕を引き上げたシャロルティナが見たのは、手首に絡みついた長い毛だった。まだお湯の中にもぐっている両足首と左手首の感触からして、シャロルティナを拘束しているのはこの髪の毛だろう。
浴槽から這い上がろうとするシャロルティナの頭を、何かが強く押さえつける。不快な液体の中に潜らされたシャロルティナは、ごぽごぽと息を漏らした。中途半端に開いた口に、濁った液体が流れ込んでくる。それは鉄臭くて苦かった。
息ができずにじたばたと暴れるシャロルティナだったが、不意に負荷を感じなくなる。慌てて顔を上げた。湯舟はいつのまにか透明に戻っている。
新鮮な空気を吸い込もうとするシャロルティナだったが、不純物を嗅ぎ分ける。黴臭いような、饐えたような。
臭いの源は、見回さなくてもわかった。目の前にいたからだ。
「あ……なたは……」
外面だけの呼び名も、とっさに出てこない。顔が不自然に赤黒く腫れた、黒い死装束をまとった女はにたりと笑った。大きく見開かれた、充血している目がシャロルティナを捉えて離さない。
その瞬間、ぶわりと記憶があふれ出す。ジェカルドから関係を清算されてなお、家に帰ることなくプライスティ・ホールにとどまって、部屋だって用意してもらえていた本当の理由も。
「ご……ごめんなさい、ごめんなさい! だけどよく考えてみて、わたくし、貴方に対してそこまでひどいことはしていなくってよ! ですから、ねえ、こんなことはもうやめて!」
一糸まとわぬ姿で跪き、祈りを捧げる美しい少女。構図が構図だから、場所さえ選べばさぞ絵になることだろう。浴槽の中で漆黒の怪物を見上げていては、何もかも台無しだが。
少女の祈りは届かない。自信に満ちた美貌が苦痛に歪んだ。ゆっくりと首がねじれていく。ぶつぶつと血管や筋繊維が千切れる音がして、血の混じった泡が彼女の口の端からこぽこぽと滴り落ちた。千切れた首から垂れた血が、湯舟を再び赤く染めていく。




