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心変わりした夫


 シャロルティナに命じられた刺繍をやっている最中に梯子階段が下ろされても、リーリアは手を止めなかった。手元の刺繍に集中していて、そのことに気づかなかったからだ。


「君は、手先が器用なんだな」

「ッ!?」


 母の子守唄を歌いながら熱心に針を刺すリーリアだったが、突然声をかけられたせいで糸がずれてしまう。ここにいるはずのない、男性の声。涼やかな美貌がリーリアの手元を覗き込んでいた。


「ジェ、ジェカルド様、どうしてここに」

「その刺繍は、シャルを手本にしているのか?」


 リーリアの質問に答えず、ジェカルドは一方的に尋ねてきた。リーリアは慌てて布団の下に刺繍を隠し、自分も頭からすっぽりと布団をかぶる。使用人達の目を盗んで清拭ぐらいはたまにしているとはいえ、垢まみれでくすんだ醜い姿など人に晒したくはなかった。


(へ、変な臭いとか、していないかしら……。ああ、もう、どうして屋根裏部屋なんかにジェカルド様が!?)


 すっかり鼻が慣れているせいで、自分の臭いなど自分ではよくわからなかった。羞恥で火が出そうなほど顔が熱い。早くここから立ち去ってくれないだろうか。

 しかしそんなリーリアの願いもむなしく、ぎゅっと握った布団はあえなく剥がされる。整った顔を怪訝そうにしかめてこちらを見下ろす男性に、リーリアは震えながら縮こまった。


「何故隠れる。恐れ多くも貴族の真似事をしてしまったことを恥じているのか?」

「……貴方を、不快にさせたくないので……」


 ジェカルドの物言いに腹が立たないわけではない。シャロルティナの代わりに刺繍をやってあげているのであって、間違っても彼女の真似などしているわけではないのだから。

 だが、その辺りの事情を打ち明けて、厄介なことになっては困る。ジェカルドに告げ口をした、とシャロルティナに恨まれるのは目に見えていたし、そのせいで他の使用人達にさらなる嫌がらせを煽ってくるかもしれない。いじめられる理由を不用意に増やしたくはなかった。


 固く口を閉ざすリーリアに手を焼いたのか、ジェカルドは気まずげに咳払いをした。

 彼は間を持たせるために窓のほうへと向かったので、リーリアはその隙に布団を取り返してもう一度くるまる。寒い冬を乗り切るにはあまりに薄いその布団も、ジェカルドの視線を遮るには役立った。


「君から教えないというなら、私から改めて尋ねよう。……君の刺繍の癖は、シャルのそれとよく似ている」

「は、はぁ」

「シャルから見本になるような品を預かり、それをもとにして刺繍を練習したというなら説明がつくが……」

(この人、一体何をしに来たの?)

「実は最近、シャルから見事な刺繍の施されたマントをもらった。あれは本当は、君も手伝った作品なのか……あるいは、君が一人で刺繍したものなんじゃないのか?」

「……!」


 どうしてそれを。リーリアは思わず目を見開いた。あの大作は、リーリアからここしばらくの睡眠時間を削り続けてきた忌々しい代物だった。おかげで昼寝で寝過してしまうことがしばしばあり、女中頭のスーザに怒鳴られたことも一度や二度ではない。

 あんな面倒なもの、もう絶対にやりたくないと思いながら完成品をシャロルティナに引き渡したのがつい一昨日のことだ。マントと引き換えにシャロルティナからもらったのは、今度はどこぞのお茶会で見せびらかすための刺繍をやれという新しい命令と、そのための道具だったが。


「正直に答えてくれ」


 また布団が剥ぎとられてしまう。詰問するジェカルドの目に気圧され、リーリアはとうとう頷いてしまった。


「シャ……シャロルティナさんに、命令されて……わたしがずっと……。贈った刺繍は全部、わたしが……」

「なんということだ……」


 ジェカルドはその時、きっと初めてリーリアを見た。

 化け物だと、乞食だと蔑んで、ずっと無関心を貫いてきた夫は、ようやくリーリアという少女の存在に向き合ったのだ。


 彼の中には、恋人シャロルティナへの愛がある。しかし、刺繍のプレゼントについてシャロルティナが嘘をついていたのかもしれない、という疑念に自分で辿り着いたジェカルドは、これまで路傍の石ころだと思っていた妻に対して急に哀れみを覚えた。


 もしこれが、リーリアが自分で告発したことだったのなら、ジェカルドは取り合わなかっただろう。平民風情が自分にはできもしないことをでっちあげ、シャロルティナを貶めようとしていると憤ってすらいたかもしれない。


 けれどジェカルドは、シャロルティナに対して自発的に疑問を抱いた。

 そして今、リーリアの刺繍の腕前をこの目で確かめた。

 自身の問いかけに怯えながらも答えたリーリアを信じるという選択肢が生まれたのは、ひとえに自分自身への信頼という、ある種の傲慢さの表れだ。


 正確に言えば、ジェカルドはリーリアを信じたのではない。シャロルティナの虚飾を見抜いた優越感、そして自分の考えへの確信。それを得たいがために、彼は無意識のうちにリーリアの言葉を無条件に飲み込んだのだ。

 そしてそれを正当化して合理的に説明するために、この醜くか弱い生き物リーリアへの憐憫と、今まで自分を騙していた悪女シャロルティナへの怒りが生まれた。


 愛する華やかな恋人と、政略で娶った地味な妻。

 その構図が、ジェカルド自身も意識していないうちに書き換えられていく。


 プライドの高いジェカルドは、自分を騙して平然としていたシャロルティナが許せなかったのだ。

 だが、プライドが高いからこそ、素直に騙されていたというのも受け入れがたい。何か美談りゆうが必要だった。嘘をついた女を愛してしまっていた理由、見抜けなかった理由。自らの愚かさを霞ませ、別のもので上書きできるだけの何かが。


「今まで気づかなくてすまなかった。私がこれまで素晴らしいと……美しいと感じていたのは、本当は君の手によるものだったんだな」


 ──その熱量を向けるちょうどいい器が、ジェカルドの目の前にあった。


「屋根裏部屋で暮らすのも、本当は君の望みではなかったんだろう? シャルこそ私の妻にふさわしいと考えた者達が君を追い詰め、君もそれに応じてしまったのか」


 そう言って、ジェカルドはリーリアを抱き寄せた。

 彼の中でリーリアは、ジェカルドの幸福を願うあまり身を引いて、周囲から虐げられてしまった悲劇の少女だ。痩せ細って薄汚れたその姿さえも、これまでの過酷な境遇を引き立てるスパイスでしかない。磨けば光る原石を一から育て上げるという喜びを加える、極上のエッセンスだ。


「どうしてこんなに痩せているんだ? 手もひどく荒れているじゃないか。……彼らは君に何をしたんだ、リーリア。ああ、いや、無理に話さなくていい。思い出すのもつらいだろう?」


 悲しい誤解とすれ違いによって地獄に堕ちた不幸な少女は、何から何まで自分の望み通りに染まった淑女へと花開く──悪女の妨害によってこれまで気づけなかった真実の愛という筋書きを一瞬のうちに組み立てたことについて、ジェカルドは完全に無自覚だった。


(急に何を言い出してるわけ? わたしをこの部屋に押し込めたのは、貴方じゃないの? ……自分の妻がこれまでどんな暮らしをしてたのか、本気で知らなかったってこと?)


 だが、リーリアのほうではそうもいかない。


 突然心変わりした夫に対し、彼女の心はどこまでも冷ややかだった。期待していて突き落とされる絶望を、リーリアは他ならないジェカルドの手によって教え込まれていたからだ。


「どうか私を許してくれ、リーリア。君をここまで苦しめてしまったのは私の責任だ」


 話についていけないリーリアをよそに、ジェカルドは大げさに言い募る。

 もしリーリアが事態を飲み込めていたとしても、罪のない妻とすれ違い続け、傍にある本当の幸福に気づけなかったという悲劇に浸る彼に届く言葉はなかっただろう。


「最初からやり直そう。私達はこれから、本当の夫婦になるんだ。君こそ私の真の妻だと、世界のすべてに認めさせようじゃないか」


 何も言えないリーリアだったが、その代わりにあふれてくるものがあった。涙だ。言葉にできない感情が、とめどなくあふれてきた。


「もう大丈夫だ、リーリア。これからは私が君を守るから」


 唇をわななかせるリーリアの涙をそっとぬぐい、ジェカルドは安心させるように微笑んだ。


 リーリアの頬を濡らす熱い雫──その源は、怒りだった。


 突然現れて、勝手なことを言う夫。リーリアの同意もないまま話を進める、許して当然だと言わんばかりの態度。

 この切り替えは、ジェカルドにとっては都合がいいだろう。高貴な美少女と秘密の恋を楽しむ物語の次は、虐げられた薄幸の少女を救い出す真実の愛の物語に酔えるのだから。あらすじが変わるだけで、男主人公ヒーローはどちらもジェカルドだ。


 夫婦の時間をやり直すことなんてリーリアは望んでいない。人間として扱われ、ここでの毎日が暮らしやすいものになってくれればそれでよかった。

 いじめさえやめさせてくれるのなら、実質的な女主人の座にはこれまで通りシャロルティナがいてくれて構わないのだ。


 使用人の仕事そのものが苦痛だったわけではない。家事をやること自体は、別に何とも思わなかった。嫌だったのは、それに付随する過酷な扱いだ。

 貴族に嫁ぐなど分不相応なことだったのだと、リーリアは身体で教え込まれていた。しかしその思い上がった夢はリーリア一人の力で叶えたものではないし、そもそも最初にそれを望んだのはリーリアではない。


 ジェカルドの父親、前ウィラスティ家当主オーニッド。融和党の貴族である彼がぶら下げた餌にリーリアの父が食いつかなければ、リーリアを迎えに来てくれる王子様は絵本の中だけの存在でいてくれた。


 折檻、嘲笑、侮蔑……これまで繰り返されてきた数々の虐待は、平民の分際で貴族に嫁いだ傲慢さの罰なのかもしれない。

 平民の無力さを知り、市民革命という力強い言葉の裏にある血なまぐささも知る聡明なリーリアは、これまで必死に耐え忍んできた。何かと理由をつけて逃避と反抗の道を自ら封じてしまうほど、精神的に追い詰められるまで。


「これからは君を妻としてきちんと愛すと誓おう。今まで私は、君に対してあまりに不誠実だった。君は私のことを愛してくれているというのに」


 しかしそんなリーリアに、すべての元凶たる夫はあっさり手を差し伸べた。

 薄っぺらい笑みと言葉だけで、リーリアの苦痛をなかったことにした。


 たったこれだけのことで、また新しく始められるのなら。


 自分がこれまで過ごしてきた日々は、一体何だったのだろうか?


「まずは身を清めよう。部屋も、女主人にふさわしい場所に移さなくては。食事は摂れるかい?」


 悔しくて悔しくて仕方なかった。

 だが、ぐちゃぐちゃと渦巻く感情は言葉にならない。リーリアはただ泣き続けてジェカルドを力なく押しのけ、何を勘違いしているのかジェカルドはそんなリーリアをより強く抱きしめて慰めの言葉を吐く。ろくに栄養も摂っていない女の細腕でジェカルドに敵うはずもなく、必死の抵抗はすべて軽くあしらわれるだけで終わってしまった。


(まだわたしに愛されているなんて、どうして貴方は思っていられるの?)


 どこからか隙間風が吹いてくる。

 もう三月だというのにまだ冷たさの残る乾いたその風は、くすぶっていたリーリアの炎を燃え上がらせた。



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[良い点] どこまでも自分、自分、自分。 破滅に向かって全力疾走する男、ジェカルド。 求められているのは反省や償いではなく「報い」。
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