虐げられる毎日(後編)
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「家政の取り仕切りもできない、社交もできない、夫の執務の補佐もできない。貴方は一体、何のためにこのウィラスティ家に嫁いできたの?」
厳しい眼差しでリーリアに尋ねるのはマリージェスだ。その傍には当然のようにシャロルティナがいる。
居間のソファは二人にすっかり占領され、リーリアは立っていることを余儀なくされていた。まだスペースは十分残っているのだが、リーリアを隣に座らせるなどという選択肢はマリージェスもシャロルティナも最初から持っていないのだ。
ジェカルドが仕事で不在でも、シャロルティナは構わずプライスティ・ホールに遊びに来る。誰もそれを咎めないし、追い返そうともしなかった。
今日もシャロルティナはマリージェスと一緒に昼食を摂り、午後の時間も仲良く過ごしている。その席にわざわざリーリアを呼んだのは、退屈しのぎの娯楽に違いない。
(どうしてわたしが女主人らしく振る舞えないかなんて、貴方達が一番よく知ってるのに……)
リーリアは唇を噛んでシャロルティナを一瞥した。シャロルティナのほっそりとした白い指と金色のフォークが合わさると、まるでそういう美術品のようだ。リーリアでは絶対に手の届かない、華奢で高価な陶磁器の置物。それが二人の住む世界の違いを如実に表していた。
ソファでくつろぎながら優雅にオレンジを一房ずつ口に運ぶシャロルティナを直視できなくなり、リーリアはうつむいて擦り切れたスカートの裾をぎゅっと握る。
爽やかな甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。メイドの手によって丁寧に皮を剝かれたオレンジなんて、リーリアが食べられたことは一度もない。
「マリージェス様がお訊きになっていらっしゃるのよ。黙っていないで何か答えたらいかが? まさか奥様ったら、耳まで悪くしてしまわれたのかしら?」
「わ、わたしは、貴族と平民の橋渡し役として……」
シャロルティナにせっつかれる。なんとか絞り出した声はかすれ、変に上ずっていた。その情けない様子に、シャロルティナ達の背後に控えるメイド達が顔を見合わせてひそやかに笑っている。
「ご立派なお題目ですこと。貴方には荷が重すぎると思いますけれど。ねぇ、マリージェス様」
シャロルティナはリーリアの頭の先から足の先までじろじろと見た。まるでつまんだ紙屑をぽいっと放り投げるように視線を外され、リーリアはぎゅっと目をつむって傲慢な女主人の詰問という恥辱から逃れようとする。だが、マリージェスがそれを許さなかった。
「そうやって目をつむって耳を塞いでいれば誰かが助けてくれると思って? 馬鹿馬鹿しい。貴方みたいな陰気な醜女を助けてくれる王子様なんているわけがないでしょう?」
(……そう。そうよね。この人のことは嫌いだけど、この人の言う通りだわ。こんな卑屈なわたしを愛してくれる人なんて、現れるわけがない。自分のことは、自分で守らないと……)
一人で生活するだけの力も知識もリーリアにはある。人知れずに家出して、誰も知らない新天地でやり直すのは不可能ではないように思えた。
けれど、貴族に逆らってどう生きていけばいいのだろう。嫁いでから受けた数々の横暴を、リーリアは市井に広めてしまえるのだ。たとえリーリアにその気がなくたって、貴族達にその言い訳は通じない。リーリアの口を封じるために結託した貴族から逃げきるための路銀も足も、用意できる気がしなかった。貴族を敵に回した者の末路を想像しただけで身が竦んだ。
「本当に、どうしてこのような気の利かない婢女がジェカルドの妻なのかしら。ああ、可哀想なジェカルド……」
そう言いながら、マリージェスはハンカチで目元をぬぐった。
その白いレースのハンカチはシャロルティナからの贈り物だが、そこに施された美しい刺繍はリーリアが繍ったものだ。シャロルティナの身の回りの品から義母とジェカルドに贈るちょっとしたプレゼントまで、彼女の代わりに刺繍をするのもリーリアの仕事の一つだった。
元々シャロルティナは刺繍が苦手で、自分のメイドにやらせていたそうだが、そのメイドが結婚を機に辞めてしまったので新しい刺繍係を探していたという。白羽の矢が立ったのが、繕い物の得意なリーリアだ。
貴族に嫁ぐにあたって刺繍のやり方も覚えたおかげか、リーリアの作品はマリージェスとジェカルドの目すらもきちんと欺けているらしい。誰からも苦情がないというのはそういうことなのだろう。リーリアが繍ったとも知らずに刺繍をありがたがるマリージェスとジェカルドの姿は、想像しただけで滑稽だった。
「いいこと? ジェカルドは本来、シャロルティナさんのように完璧で美しい淑女と結婚できるはずだったの。その幸せを台無しにしたのが貴方なのよ」
マリージェスはきつい目つきでリーリアを一瞥する。何も答えられなかった。
(いくらこれが国のための結婚で、お父さんとお義父様の約束の結果だったとはいえ、わたしなんかが侯爵家に嫁ぐべきじゃなかったっていうのは本当にそう。わたしなんかと結婚していなかったら、きっとジェカルド様はシャロルティナさんと……)
そのほうが、誰にとっても幸福だったのは明らかだ。許されるのであれば、今すぐジェカルドの妻の座をシャロルティナに渡したい。けれどそれは、リーリアの一存で決められることではなかった。
「マリージェス様も、貴方のためを思ってこうおっしゃっていますのよ。身の程はわきまえてくださる?」
返事をしようと口を開いたリーリアだったが、言葉は声にならない。貧血を起こし、思わずその場にしゃがみこんでしまったからだ。
「なんてみっともないのかしら。ジェカルドの妻を気取るのなら、もっと淑女らしくしてくださらないと。疲れたというのなら、これでもお飲みなさい」
シャロルティナはそう言って立ち上がり、リーリアのもとに歩み寄った。彼女の手には熱い紅茶の入ったティーカップがある。
めまいに耐えながら、リーリアはか細い声で礼を言ってティーカップに手を伸ばそうとした。
だが、シャロルティナはリーリアにカップを渡さない。すっとリーリアの手を避けて、カップを大きく傾ける。
「うっ……!?」
零れる紅茶がリーリアの肌を直接滑っていく。人が飲むためのお茶の適温だが、それでも熱いことに変わりはない。予期せぬ痛みにのたうつリーリアを、シャロルティナは扇子で口元を覆って意地悪そうにくすくすと笑いながら見下ろしていた。メイドはすぐシャロルティナのために新しいティーカップを用意して紅茶を注ぎ直している。
それからも、マリージェスとシャロルティナの小言は延々と続いた。疲れを和らげようと少しでも楽な体勢を模索しようとしても、だらしがないと怒られる。結局二人の気が済むまで、リーリアはずっと心を殺していなければならなかった。
やっとリーリアが解放されたのは、日が暮れてジェカルドが帰ってきてからのことだった。もうリーリアに興味はないというように、マリージェスとシャロルティナはいそいそとジェカルドを出迎えに行く。リーリアもふらつく身体を引きずるように、日課の水汲みに取り掛かった。
必要な量の水を汲み終え、屋根裏部屋へと戻った。朝に拝借していた水差しからごくごくと水を飲み、固い寝台に寝そべって足をもみほぐす。寒く冷たい屋根裏部屋に、談笑する家族の温かい声は聞こえない。残飯にありつける時間まで、リーリアは息を殺して安っぽい獣脂の蝋燭に手をかざしていた。
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「ジェカルド、どうかしら? わたくし、貴方のためを想って一針一針丁寧に縫いましたのよ」
「ああ。素晴らしい出来栄えだ。大切にするよ、シャル」
立派な刺繍の施されたマントを広げたジェカルドが微笑むと、シャロルティナは満足そうにはにかんだ。
亡き父と同じように、ジェカルドも陸軍将校の地位を持っていた。もっとも、大した出兵経験はない。ただ軍服を着てたまに砦に顔を出し、国防に貢献しているような雰囲気を出すだけの役職だ。
実際に動くのは部下だけで、ジェカルド自身の仕事は書類にサインすることか、人前で重々しく頷くことぐらいだった。昔気質の貴族軍人には、貴族こそ率先して前線に赴くべきだなんて吹聴する者もいるが、そんな野蛮なことはジェカルドの性に合わない。
(きっとかなりの時間を費やしたのだろう。これほど見事な刺繍を施せるとは、さすがはシャルだ)
このマントは、陸軍の盛装のひとつだ。特に若い貴族軍人は、きらびやかに着飾ることで自分や家の威信を示す。誉れ高い勲章はもちろん、人目を引く華美な刺繍も好まれた。実際に戦場に出ることはなく、出たとしても安全な司令部にずっといるのだから、目立って困ることはない。そもそもジェカルドがこれを着ていくのは、もっぱらパーティーだけだった。
(さっそく、今度の市長の晩餐会で着ていくとしよう。……ん?)
マントを大きく広げ、金糸で縫われたウィラスティ家の家紋をしげしげと眺めていたジェカルドは、ある違和感に気づいた。
マントの端に、白く細かい埃がうっすらとついている。繍っているうちにうっかり端が床についてしまうこともあるかもしれない。だが、プライスティ・ホールの掃除は行き届いているはずだ。シャロルティナが暮らしているアミラ・ホールだってきっとそうだろう。シャロルティナがどこで刺繍をしていようと、こんな風に埃がまとわりつくはずがない。
なんとなしに顔を近づけてみる。集中しないとわからないが、ほんのわずかに黴臭い。マントが黴ているわけではないから、どこかの臭いが移ってしまったのだろう。ますます意味がわからなかった。一体どこにマントを置いておけばこんな風になってしまうのだろうか。
(いや、待てよ。屋根裏部屋なら、あるいは……)
にわかには信じられないことだ。それでもジェカルドは、マントを持ったまま無意識のうちに天井を見上げていた。
ジェカルドの正妻、リーリア。父オーニッドの死後、妻は私室を屋根裏部屋に移したという。執事のダンブルから聞いたところによれば、彼女は自ら望んでそうしたそうだ。
比べるのもおこがましいほど、リーリアは何もかもがシャロルティナの足元にも及ばないのだから、身を引くのは仕方あるまい。シャロルティナに女主人の座を譲るのは、身の程をわきまえた平民らしい仕草と言えた。お飾りの妻の分際で大きな顔をして贅沢をされるより、屋敷の片隅でひっそりと暮らしてもらっているほうがよほどましだ。
最初からリーリアは、名目だけの許婚だった。父の偽善で押しつけられた、形だけの結婚。そんなものにジェカルドの人生を台無しにされたくはない。
意図して視界に入れないようにして、彼女に関するすべてを他人に丸投げするうちに、いつしかジェカルドの中でリーリアの姿はぼやけ、おぼろげになっていった。
結婚してからもそれは変わらなかった。父の手前、女主人の部屋を与えてやったが、一度も寝室を共にしたことはない。主寝室を使うのは、もっぱらシャロルティナとの秘密の逢瀬の時だけだった。
父の死後はシャロルティナとの関係を隠す必要もなくなったので、堂々と彼女と睦み合っている。そんな環境が、いっそうジェカルドからリーリアの記憶を薄れさせていた。
「シャル、もう一度聞くが……この刺繍は、君が施したんだな?」
「ええ、そうですけれど?」
ジェカルドは無意識のうちにマントを抱き寄せる。
胸の奥底で何かさざめき立つのを感じたが、その感情の名を彼はまだ知らなかった。
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