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19:20

※虫が出ます。特に食事中の方はお気をつけください

 ウィラスティ家の華やかな晩餐の席に、いつもと違う顔ぶれがひとつ。侯爵夫人リーリアの姿のないそのテーブルに、金髪の司祭が着いていた。


「この新たなる出会いを祝そう。世界を包む神の愛とラゼルバン領の栄光に、乾杯」


 ジェカルドはワイングラスを持ち上げる。晩餐会の出席者であるマリージェスとシャロルティナ、そして司祭アドニスもそれにならったが、アドニスだけはワインに口をつけようとしなかった。


「申し訳ありません。お酒に弱くて」


 ジェカルドの視線に気づいたのか、アドニスは気まずげに微笑む。


「そうか。なら、無理に飲む必要もあるまい」


 気取られるほどじろじろ見るのは無礼だったかもしれないとジェカルドは顔を赤らめ、手元の皿に視線を移した。

 上質な柔らかい仔牛のステーキはビンテージの赤ワインによく合う。ジェカルドはステーキを上品に切り分け、舌の上でとろけるような極上の味を楽しんだ。


(リーリアにも、これを食べさせてやればよかった。……そうだ。やはりリーリアをここに呼ぼう。彼女は私の妻なのだから、食事を共にするのは当然の権利だ)


 ジェカルドはベルを鳴らしてメイドを呼ぶ。不在の女主人を招くよう、メイドの耳元に口を寄せ──


(待てよ。そもそもどうして、今この場に・・・・・リーリアの席がないんだ?)


 母であるマリージェス。客人であるアドニス。この二人はいい。


 ──シャ・・ティ・・


 さも当然のように同席しているシャロルティナ。彼女はプライスティ・ホールの中に留まり、帰る様子を一向に見せない。だが、ジェカルドの気持ちはもう、リーリアに傾いている。愛人だったシャロルティナとの関係は、確かに清算したはずだったのに。


(それはいつのことだ? シャルに手切れ金を支払って別れたのは……三月のことじゃないか? シャルがこの屋敷の中にいることを、何故私は疑問に思わなかった?)


 思考がぐるぐると回る。何かがおかしい。


(私はリーリアと、やり直す決心をした。きちんと彼女と向き合い、本当の夫婦になることにしたんだ。それなのに……それなのに、どうしてリーリアがどこにもいない?)


 記憶が混濁する。何か、大切なことを忘れてしまっているような。


 もやの中でもがくような追想に終止符を打ったのは、絹を裂くような悲鳴だった。


「マリージェス様、どうなさったの!?」


 はっとして現実に返ってきたジェカルドが見たのは、顔を赤紫色に変色させてもがき苦しむ母親の姿だった。

 シャロルティナが慌てたようにマリージェスに呼びかけていて、アドニスは動揺したのか自分の料理の皿をひっくり返している。零れた料理は彼の身体を汚してはいないようだが、これでは食事は続けられないだろう。


「は、母上……それは一体、どういうことだ……?」


 ジェカルドは茫然としながら尋ねた。白目を剥いた母の姿も衝撃だったが、何より驚いたのは、彼女の口いっぱいに蜚蠊ごきぶりが詰め込まれていたことだった。わずかにはみ出たそのあしは、びくびくと動いて活きがいい。


「料理を喉に詰まらせてしまったんでしょうね。落ち着いて対処すれば大丈夫ですよ」


 使用人達に介抱されるマリージェスを見て、アドニスはこともなげにそう言った。彼だけではない。使用人達もシャロルティナも、マリージェスが蜚蠊をんでいたことには何も触れていないが……この光景は、自分にしか見えていないのだろうか?


 なんとなく嫌な予感がして、ジェカルドは視線を下に落とした。


「ひぃっ!?」


 その瞬間、情けない悲鳴が漏れる。

 つい先ほどまで仔牛のステーキだと思って切り分けていたものが載っているはずの皿に、ばらばらになった大きな毛虫と丸々肥えた蛞蝓なめくじが何匹も鎮座していたからだ。


「ジェカルド、どうかして?」


 シャロルティナがこてんと小首をかしげる。その白魚のような指が摘まんでいるのは蛾の死骸だった。ぶちりとはねを毟り取り、シャロルティナはためらいもせずに口へと運ぶ。


 どこからか蠅が飛んできて、ジェカルドの額にぴたりと留まった。考えるより先に、手は皿を遠くへと押しのける。きらびやかな晩餐の席は、一転しておぞましい下手物げてものの展覧会へと変わっていた。

 うねる蚯蚓みみずのサラダには蟻が散り、パンには蛆虫が湧いている。メインディッシュは山盛りになった不快な害虫。ワイングラスに注がれていたのは、黄ばんだ汚泥のような得体の知れないものだった。浮いているのは小蝿だろうか。


 周囲の声を振り切ってジェカルドは不浄場に駆け込み、喉に指を深く突っ込んで激しくえずいた。ぐちゃぐちゃになった肉片のようなものがぼとぼとと落ちる。それは虫の死骸には見えなかったが、食卓に乗せられたあのおぞましい晩餐が脳裏に焼きついて離れなかった。


「旦那様! 大丈夫ですか、旦那様!」


 駆けつけてきた近侍のピートに背中をさすられる。吐き気の収まらないジェカルドは、それに返事をすることもできなかった。


 どれだけ吐いてもやっと胃液しか出なくなったところで、ジェカルドはふらふらと立ち上がって洗面台に向かった。

 ランプに火を灯して鏡を見れば、歯の隙間に毛虫の毛のようなものが挟まっている。必死で口をすすぐが、震えは一向に止まらない。


「なんなんだ、一体……」

「お顔の色が悪いようです。今夜はもうお休みになりますか?」

「そうだな。ソディア司祭には悪いが、そうするとしよう。……母上の様子はどうだ?」

「司祭様のおっしゃっていた通り、食べ物を喉に詰まらせただけのようです。今はもうすっかり平気なご様子でした」

「そうか。大事がなくて何よりだ」


 ピートの手を借りて主寝室に戻る。清潔な水差しから注がれた冷たい水のおかげでやっと一息つけた。


 夫婦で使うことを想定されたその寝台に、リーリアの気配はない。主寝室とドアでつながっている女主人の部屋にも、リーリアがいる様子はなかった。


「私はもう休む。湯浴みは朝にしよう。リーリアに会ったら、気にせず主寝室で寝るよう伝えておいてくれ」

「かしこまりました。おやすみなさいまし、旦那様」


 ピートは部屋の主たる明かりを消して、ベッドサイドテーブルの上の燭台に置かれた蜜蝋の蝋燭に火を灯す。仄かに部屋を照らす高価な蝋燭から香る甘い匂いが安らぎを誘った。就寝の時間にはまだ早いが、ジェカルドの意識はゆっくりと夢の中に溶けていった。


*


「ったく。どいつもこいつも、僕を便利屋だって思ってないか? あー、仕事選びてぇ……」


 暗く狭いその空間の中で、明かりを手にしたアドニスはうんざりしながら天を仰いだ。夜空は遠く、何も見えない。

 持ち込んだ新品の縄梯子の長さや強度は十分だ。だが、この場において頼れるものがこの明かりと縄梯子しかないと思うと心情的にこころもとない。


「これはゴミ、これもゴミ。あれは……なんだ、ただの蜘蛛か」


 石壁を悠々と這う大きな蜘蛛くもに、アドニスは羨ましげな視線を向ける。


「なぁ、君は僕の探し物について何か知らないかい?」


 蜘蛛は何も答えずに、瓦礫の向こうに消えてしまった。


 実のところ、アドニスはとりたてて虫が苦手なわけではない。お前にはきっと怖いものなど何もないのだろうと、仲間内でからかわれる程度にはアドニスの肝は座っていた。恐怖心が麻痺していると言ってもいいかもしれない。


「うぇ、服が汚れてるじゃないか。最悪すぎる……」


 街の宿に戻りたい。この汚れた格好で外を歩けばいぶかしがられるかもしれないが、人々から向けられる、不審者を見るような目にはもう慣れている。黒いカソックのおかげで多少は汚れもごまかせると信じたい。……問題は、いつ帰れるかわからないことだが。


「……クリーニング代、経費で落ちるよな?」


 さすがに腹も減ってきた。あてがわれた客室に戻ったら、さっさと着替えて食事にしよう。予備の服と軽食を持ち込んだのは正解だった。

 せっかくもてなそうとしてくれた侯爵達には悪いが、出されたものに手をつけるつもりはない。晩餐と称して出された皿の上のものを、アドニスはどさくさに紛れて捨てていた。恐怖を感じないのと不快感を覚えないのは別の話だし、あのご馳走・・・を平らげるのはアドニスの仕事ではない。


「ここじゃなかったみたいだな。定番だと思ったんだけど……」


 一通り周囲をさらったアドニスは、徒労感を抱えながら縄梯子を昇った。

 やっとあの閉塞的な空間と別れられたと、地上に辿り着いたアドニスは大きく伸びをする。だが、ここもまた解放的とは程遠い。


「はぁ……。一体どこにいるんだか。本人に聞いても、どうせ教えてもらえないだろうしなぁ」


 アドニスはぼやきながら煙草に火をつける。


「まあいいさ。時間はたっぷりあるんだから」


 鋭い目つきで屋敷を見上げた。辺りは真っ暗で、静まり返っている。


 プライスティ・ホールの夜はまだながい。アドニスが探しているものも、当分見つかりそうになかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  映画『ゴーストシップ』のシーンを思い出す。  この作品もアレのような道筋を辿るとしたら。  アドニスの「時代」とどれだけ乖離しているのか。  変な話だけどロマンは凄くある。  リーリア…
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