18:55
「……あら?」
星明かりも奪われた新月の晩、ジェカルド達の湯浴みのための水の用意を済ませてしまおうと井戸に向かったリーリアは、宵闇にまぎれて奇妙に動く黒い影を見つけた。
それはカソックを着た青年だった。ランプというにはあまりにも眩く輝く筒のようなものを手にした彼は、井戸に向かって何かを投げ込むと、慎重に井戸の中を覗き込んでいる。
「んー……ま、これぐらいならいけるか」
「ちょっ、ちょっと! 貴方、一体何をしてるんですか!?」
「おっと?」
声をかけると、青年はゆっくり振り返った。月よりまばゆい金の髪と、静かな夜を思わせる青紫の瞳に思わずリーリアの視線が吸い込まれる。見たことのない青年だ。
この、まるで物語の王子の象徴のように整った顔立ちなら、忘れようと思っても忘れないだろう。彼がくわえている棒は何だろうか。うっすらと煙が見える。先端が燃えているようだ。危なくないのだろうか。
「もしかして、貴方がラゼルバン侯爵夫人でしょうか」
眩しさに配慮したのだろう。青年は筒の明かりを絞り、足元にあった革張りの大きな鞄の傍に立てかける。
「え……ええ。一応、そうです」
リーリアはためらいながらも頷いた。馬鹿を言うなと笑い飛ばされるかと思ったが、青年はそんな素振りを見せない。くわえていた棒を懐から取り出した銀色の箱のようなものに押し潰すように入れ、青年は深々と一礼した。
「お目にかかれて光栄です。僕はアドニス・ソディア。王都から遣わされた聖職者です。侯爵閣下のご厚意で、しばらくこちらのお屋敷に滞在させていただくことになりました。もしご迷惑でなければ、貴方にもその許可をいただきたいのですが」
「リ……リーリア・ウィスラティです。リーリアと呼んでください。お、お、夫のお客様であれば、当然歓迎します」
リーリアも黒いドレスの裾を持ち上げてちょこんとお辞儀をした。アドニスはリーリアの手を取り、その手の甲に恭しくキスをする。
(まさかこのわたしを見て、侯爵夫人と呼んでくれる人がいるなんて)
アドニスに笑みを向けられると、たちまち心臓が跳ね上がった。この感情になんと名前をつければいいのか、リーリアにはわからない。
(だ、だめよ。もうジェカルド様に何をされたか忘れたの? どれだけ善人に見える人でも、そう簡単に心を許してはいけないわ。幽鬼のようになってしまった自分の姿を思い出しなさい。こんなわたしにまで丁寧に接してくれるなんて、きっと何か裏があるに違いないわ)
リーリアは首をぶんぶんと横に振り、アドニスの手から逃げる。久々に触れた人の手は温かかった。その名残を惜しむように、アドニスと触れ合っていた手を無意識のうちにもう片方の手で握ってしまう。
「貴方、ここで一体何をしていたんですか? プライスティ・ホールの敷地内とはいえ、魔女の祝宴の日の夜に外を歩くのは……」
「散歩がてら、煙草を吸うのにどこかいい場所はないかと探していまして。お屋敷の中で吸うわけにはいかないでしょう?」
アドニスは軽い調子で小さな箱のようなものを見せた。見慣れない箱で、中には棒状のものがいくつも入っている。アドニスが先ほどまでくわえていたものだ。リーリアは煙草に詳しくないから、珍しく見えるのかもしれない。
(ああいう形の煙草もあるのね……)
煙草をたしなむ男性というのは、リーリアの周囲にはほとんどいなかった。父は高級な嗅ぎ煙草より安価な酒を愛していたし、義父もたまにパイプを吸う程度だ。ジェカルドに至っては、吸っているところを見るほど彼と会ったことがない。愛煙家なのか嫌煙家なのか、ちっとも見当がつかなかった。
「ところで、さっき貴方は井戸に何か投げ込んでいたように見えましたけど……」
じとりと見上げながら尋ねると、アドニスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。この井戸の深さが知りたくて、つい石を投げ入れてしまったんです。僕の生まれたところでは井戸がなくて、好奇心に抗えず……」
(井戸がないなんて、よっぽど水道の整備された都市から来たのね。もしかして、生まれも育ちも王都の高級住宅街とか?)
アドニスがあまりにもしょんぼりした顔をするものだから、怒る気力も失せてしまった。リーリアはため息をつき、「もうやらないでくださいね」と言って滑車を動かして井戸から水を汲む。その一連の動作を、アドニスは興味深げに見ていた。
「へぇ、こういう風にやるんですか。だけど水ぐらい、使用人に汲ませればいいのでは?」
「……これもわたしの仕事なんです。わたしは名ばかりの侯爵夫人ですから」
自嘲気味に笑う。すると、急に滑車が軽くなった。アドニスが一緒に動かしてくれているのだ。
「結構難しいですね、これ。貴方のような可憐な女性が一人でやるのは大変でしょう。ここにお世話になっている間ぐらい、僕がお手伝いしますよ」
「こ、困ります。お気持ちはありがたいですが、お客様に下働きの仕事をさせたなんて知られたら、夫やお義母様になんて言われるか……」
「気にしないでください。僕がやりたくてやっているだけですから」
そう言って、アドニスは茶目っ気たっぷりにウインクした。
(司祭様って、ボルバ司祭様のような厳格な方ばかりかと思っていたけど、こういう方もいらっしゃるのね)
結局リーリアはアドニスに押し切られ、水を運ぶことまで手伝ってもらってしまった。幸運にも、その間に他の使用人達に見つかることはなかった。きっとみんな、晩餐の支度で忙しいのだろう。給湯室の番をしている下男のルゾーも、今はまだいないようだ。
(アドニスさんがいらっしゃるからかしら? ……そういえば最近、いじめられていないような……。最近って、いつからのことだっけ?)
リーリアは首をかしげる。頭がぼんやりして、よく思い出せなかった。
「アドニスさん、手伝ってくれてありがとうございます。おかげですぐに終わりました」
「これぐらいお安いご用です。さ、そろそろ夕食の時間ではありませんか? きっともうすぐ、使用人の方が呼びに来てくれますよ」
「ええ。どうぞ楽しんでくださいね」
ぺこりと頭を下げる。アドニスは目を丸くしたが、すぐに事情を察したようだった。
(そりゃ、すぐわかるわよね。下働きの仕事をする侯爵夫人に、晩餐の席が用意されているわけがないもの)
胸がちくりと痛む。悲しいけれど仕方ない。けれどせめてこの親切な聖職者だけは、奴隷を虐げる意地悪な看守に変わってほしくなかった。
「リーリアさんも同席できるよう、僕から侯爵閣下に頼みましょう」
「いいんです。わたしなんて、あの人にとってはいないほうがいいんですから」
「そんな悲しいことをおっしゃらないでください」
アドニスは食い下がるが、リーリアは首を横に振る。むしろどうして彼が自分に構うのか、そのほうが不思議なくらいだった。
(誰にだって怪物扱いされるわたしを、まさか女として見ているわけでもないでしょうに。ましてやこの人は司祭様なんだから。……神様の愛を伝える司祭だからこそ、こんなわたしにも手を差し伸べてくれるの?)
まなじりに浮かぶ涙をそっとぬぐう。リーリアはもう一度頭を深く下げた。
「今日は本当にありがとうございました。それでは、おやすみなさい」
「……ええ。どうかいい夜を、リーリアさん。またお会いしましょうね」
リーリアはアドニスから目をそらして踵を返す。もう二度と会うことがないといい。そうであれば、アドニスの豹変を見なくても済む。この一瞬の邂逅を、永遠に美しい思い出としてリーリアの中にしまっておくことができるだろう。