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虐げられる毎日(前編)


 リーリアの一日の仕事は水汲みから始まり、水汲みで終わる。重いバケツを持って、屋敷の裏の井戸から給湯室を何往復もするのだ。汲んだ水は屋敷の人間達の飲料のほかに、温められてジェカルドとマリージェス、それからシャロルティナの洗顔や湯浴みのためにも使われる。


 リーリアをいびる手段には、非効率的なことこそ好まれた。

 今日もリーリアは水を汲む。たとえ今日がリーリアとジェカルドの結婚記念日だって、やることは変わらない。どうせ祝われることなどないのだから。


(落ちないように、気をつけないと……)


 暗いうちから大きなバケツを持って、たった一人で井戸の周りをうろうろするのは少し怖い。死ねば楽になれるかもしれないとぼんやり考えることはあっても、やはり死への恐怖はまだ頭の片隅に残っていた。

 なにより、ここでリーリアが死んだって、思い通りになったと笑う声が聞こえるだけだ。これまでさんざんこき使われて、その死にざままで足蹴にされるのはまっぴらだった。


(早く終わらせて、戻ろう)


 二月の早朝の寒さの中、冷たい水と格闘していればどうしたって手がかじかんでくる。うまく滑車を動かせないことに苛立ちながら、それでもなんとかリーリアは予定していた量の水を運び終えた。


「遅いんだよ! ったく、ぼさっとするんじゃねぇ! 旦那様とシャロルティナ様がお目覚めになる時間だろうが! 大奥様はとっくに起きてらっしゃるぞ!」

「……ごめんなさい」


 侯爵とその愛人が顔を洗うためのお湯の支度をしていた下男のルゾーに怒鳴られながら、リーリアは赤くなった指を包み込むようにぎゅっと握った。手はすっかり冷たくなっている。湯気の昇るお湯がたっぷり入った、そのボウルに少しでも触れることができたらどれだけいいだろう。


(でもきっと、それだけじゃ何も温まらないわ)


 リーリアは踵を返そうとした。その背後では、手の空いていた意地悪なメイドのキャミィが、水が入ったままのバケツをわざわざ抱えてリーリアに近づいてきていた。


「きゃっ!?」

「ちょっとぉ! どこ見て歩いてんの? あんたのせいで床が零れちゃったじゃない! 早く代わりの水を持ってきてよ!」


 滴る冷水に身体が凍る。キャミィはくすくすと笑いながら、空になったバケツをリーリアに投げつけた。


「おいキャミィ! ここで遊ぶな!」

「だってぇ、ネズミがちょろちょろ動いて邪魔するんだもん」

「チッ。おいリーリア、どうしてお前はそんなに鈍臭いんだ? お前のせいで床がびしょ濡れじゃねぇか。とっとと片付けて、さっさとここから失せやがれ! お前が零した分の水を持ってくるのも忘れるなよ!」

「いやっ……! や、やめてください……!」


 ルゾーはリーリアを乱暴に蹴飛ばす。そのままぐりぐりと背中を踏みつけられた。床の水を地味な灰色のワンピースが吸う。キャミィは手を叩いて喜び、近くにあったモップを取った。


「掃除ならあたしも手伝ってあげる。ほら、一緒に綺麗にしよ?」

「ちょっ、やだ、お願い、やめて!」


 顔に押しつけられた汚らしいモップをなんとか払いのけ、リーリアは青い顔で立ち上がる。転がっていたバケツを乱暴に掴み、弾けるように部屋を出た。


 びしょ濡れのリーリアはどこに行っても迷惑がられる。急いで新しい水を用意して服を着替えたころには、すでに朝食の時間になっていた。

 朝食といっても、リーリアのそれはただの食べ残しだ。ジェカルドとマリージェス、そしてシャロルティナが食べた食事を下げ渡したものと、余った食材で作ったまかないを使用人達が食べ、さらにその残りがリーリアのもとに運ばれる。義父が亡くなって以来、リーリアの食事はずっとそうだ。


(ただの残飯ならまだいいけれど、生ごみを混ぜるのはさすがにやめてほしいわ……)


 リーリアは憂鬱なため息をついた。腐りかけの食材、食用に向かない野菜の皮や芯、卵の殻に虫の死骸……毎日毎日そんなものを入れられて、食欲が失せないわけがない。リーリアの体重は減少の一途を辿っていた。

 四肢は枝のように細くて顔は青白く、髪はぱさぱさ。一度夜に鏡を見たときに、自分で自分の姿に悲鳴を上げてしまったほどだ。まさか独身時代のほうがましな暮らしをしていただなんて、リーリアをこの家に嫁がせた父も想像していなかっただろう。


(食べなければ食べないで、「食材を無駄にしてる」なんて言われてまた怒られるのよね。食事も抜かれるし……。こんな食事なら、抜かれたほうがマシでしょうけど。ああ、お腹の空かない身体になりたいわ)


 なんとか食べられそうな部分を探し、もそもそと口に運ぶ。冷めて固くて、まずかった。


 女中頭スーザから用事を言いつけられるまで、リーリアは屋根裏部屋の窓から外を眺めているか、ベッドで横になっているか、あるいは本を読んで過ごしている。他にすることがほとんどないからだ。ただでさえ栄養が足りていないのだから、余計な体力を使わないようおとなしくしているのが一番だろう。


 シャロルティナに命令されて、ちょっとした刺繍をすることならある。だが、それ以外で貴族の夫人らしい仕事を任せられることは一度もなかったし、華やかな社交界を目にしたこともない。

 結婚前に父に仕立ててもらったぴかぴかのドレスはすべて義母に切り刻まれて、雑巾としてメイド達が好き勝手に使ってしまった。着ていくドレスもないのだから、お茶会や舞踏会なんて夢のまた夢だ。


「まだこんなに日が高いってのに、ぐうぐう昼寝だなんていいご身分だこと! 本当にあんたは怠け者のグズだね! この無駄飯食らいが! ちょっとは恥ずかしいと思わないのかい?」


 粗末なベッドの上で死んだように眠っていたリーリアは、突然耳元でそう怒鳴られてをかけられて悲鳴を上げた。飛び上がり、ばくばくと激しく動く心臓を押さえる。目を三角にしたスーザがいた。


「もうすぐ旦那様とシャロルティナ様の湯浴みの時間だってのに、バケツ一杯の水すら用意できないのかねぇ! まったく使えないったら!」

「で、でも、朝にたくさん汲んで……」

「そんなもん、もうとっくに使っちまったよ! この屋敷に何人の人間がいると思ってるんだ! 第一、旦那様達に置きっぱなしの水を使えって!? そんな馬鹿な話があるかい!」

「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 畳みかけられてすっかり委縮してしまったリーリアは、小声で謝罪を繰り返しながらベッドを出る。


(まさか寝過ごしてしまうなんて。本当に最悪……)


 屋根裏部屋から降りるための梯子階段に足をかけようとした瞬間、視界一杯にスーザの巨体が広がった。スーザに突き飛ばされたと理解した時には、すでに身体は宙を浮いている。指先が手すりをかすめ、あっという間に背中から床に叩きつけられた。

 階段が短いおかげで大怪我はまぬがれたが、ぶつけたところがじくじくと痛む。とっさに床に手をつけたせいで、手首もひねってしまったらしい。


「ちんたらしてるんじゃないよ! 本当にのろまなんだから。大げさに転げ落ちたところで、誰もあんたを受け止めやしないよ?」


 鼻を鳴らしたスーザはどすどすと階段を下りてくる。リーリアを突き飛ばしたことなんて、まるでなかったかのようだ。


「あぅっ!? ど、どいてください……!」


 手を踏みにじられて骨が軋む。このまま潰されるかと思った。


「いつまでも甘えてないでさっさと立ちな!」


 急き立てられて、リーリアはよろよろと立ち上がった。痛む身体を引きずって、なんとか屋敷の外を目指す。


(たくさん使用人がいるなら、どうして誰もわたしの仕事を手伝ってくれないの……? 誰も助けてくれないのは、わたしが悪いから……?)


 心も身体も悲鳴を上げていた。自然と涙が零れ落ちる。


(使用人の人達だって、わたしと同じ平民なのに……どうしてわたしだけ……)


 理由はわかっている。館の主人であるジェカルドと、その母親のマリージェスが許可したからだ。あの図々しくて目障りな小娘のことは好きにしていい、と。


 この家においてリーリアは奴隷。その大義名分が、使用人達の心を麻痺させた。繰り返される暴行は、やがて使用人達の自発的な言動になり、どんどんエスカレートしていく。身の程知らずの平民に屈辱を与えるという貴族の遊びは、同じ立場の平民の認識すら塗り替えたのだ。



「……!」


 廊下でばったり出会ってしまったのは、夫とその愛人だった。予想だにしない遭遇に、息がひゅっとのどに詰まる。


「なんだ、あの醜い化け物は。乞食でも入り込んだのか?」

「やだ、ジェカルドったら。奥様でしょう?」

「あれが?」


 シャロルティナの顔に浮かぶのは嘲りだ。ジェカルドの眼差しは冷めきっていて、リーリアのことなどなんとも思っていないようだった。リーリアの顔なんて、もう忘れていたのかもしれない。ジェカルドはうんざりとしたようにシャロルティナの腰を抱き、そのまま立ち去ってしまった。


 すれ違いざまに、二人に付き従う近侍のピートがリーリアに射殺すような目を向けた。嫉妬に狂って主人達の妨害をするなら容赦はしないというように。


(わたしをこんな風にしたのは、誰ですか) 


 骨と皮しかないほど痩せ細り、髪も肌も手入れできずに襤褸ぼろを着て、俯きがちでふらつきながら歩くリーリアを、夫は化け物のようだと評した。


 確かにリーリアは元々地味だ。華やかな貴族社会の基準でからすれば、対して目立ちもしない雑花だろう。それでも、咲いた花の美しさは花びらの色や大きさだけでは決まらない。


 かつてのリーリアは、温かく微笑むことのできる、優しい目をした純粋な少女だった。控えめで健気なそのありようは、周囲の人々の心に安らぎを与えていただろう。


 けれど、その楚々とした面影はとうにない。物欲しげに目だけぎらつかせて唇を噛みしめる陰鬱な自分の姿は、誰の目から見ても醜いに決まっている。そんなこと、リーリア自身が一番よく知っていた。

 

(貴方との結婚記念日なんて、祝ってほしいわけじゃない。わたしにとっては、ただの呪わしい日よ)


 リーリアは長い前髪の奥からジェカルド達の背中を睨み、廊下を走り出す。早く、早く井戸に水を汲みにいかなければ。


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