味方が一人もいない家
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今日もプライスティ・ホールに客がやってきた。今日の来客は、王都から派遣されたドストーレという警部だった。
四日前に病没した老司祭の件で、何か気になることがあったらしい。そのため、リーリアも形ばかりの事情聴取を受けることになり、屋根裏部屋から慌てて連れ出された。
リーリアの質素なドレスと梳かれただけの髪を見たドストーレ警部は怪訝そうな顔をしたが、すぐに本題に入った。
「ラゼルバン侯爵夫人は、ボルバ司祭が持病を患っていたという話は聞いたことがありますか?」
「いいえ。最近はめっきりご無沙汰していましたし、そういったことはわかりません。ですが、司祭様はご高齢でしたから……。確か、心臓の病でしたよね?」
「そうです。あの年齢であれば、急な発作が起きても不思議ではありません」
「では、何故捜査を?」
尋ねてみても、警部は曖昧に微笑むだけだ。しかし目の奥は笑っていない。威圧されているように感じられて、リーリアは小さく首をすくめた。
(司祭様、どうしてお亡くなりになってしまわれたのかしら。お年を召していたとはいえ、あまりに急すぎるわ。……そういえばお義父様も、まだお若いのに同じように心臓を病んでしまわれて……)
亡くなった老司祭は、閉鎖的な田舎の気風をそのまま煮詰めたような人間だった。夫に尽くす善良で貞淑な妻であれと、彼は事あるごとにリーリアに説いていた。
とはいえその主張は、父からも散々言い含められていたことだ。幼いころからそう育てられてきたリーリアにとって、その教えは至極当たり前のことだった。
聖職者という立場に加え、かつてラゼルバン侯爵だったオーニッドの信頼を得ていることもあって発言力の強い老司祭は、リーリアの肩を持つ数少ない人間だった。
彼は、どんな扱いを受けても文句ひとつ言わない忠実なリーリアを認め、家庭のある男といつまでも関係を持つシャロルティナを責めていた。愛人を囲うこと自体は構わないが相手を選べ、妻への義理もしっかり果たせ、とジェカルドに口出しすることも多々あったようだ。オーニッドの妻であるマリージェスとも、折り合いが悪かったらしい。
オーニッドと懇意にしていたボルバ司祭にとって、親の意に沿わない息子や、夫の意見に賛同しない妻は、たとえ相手が誰であろうと等しくろくでなしのようだ。
そんな司祭でも、さすがに表立ってウィラスティ家を非難して醜聞を市井に広めてはまずいと思っていたのか、リーリアには沈黙と忍耐を命じていた。
リーリア自身は、あの老司祭のことは好きでも嫌いでもなかったが、彼は生前のオーニッド以外のウィラスティ家の人々には煙たがられていた。
(領主の妻なのに、お葬式に出ることも許されなかったから、司祭様には最期のお別れも言えていないのよね。……もしかしてドストーレ警部は、そのことでわたしを疑っていらっしゃるのかしら。困ったわ、どう説明すればいいの?)
ウィラスティ家での冷遇をドストーレ警部に訴えても、何かが変わるとは思えなかった。
リーリアに沈黙を求める権力者は多い。彼らの不興を買うようなことがあれば、その時こそリーリアは何もかもを失うだろう。警部のことも不利な立場に追い込んでしまうかもしれない。
リーリアは迷ったが、結局口をつぐんで視線を床に落とすことを選んだ。
ドストーレ警部はそれから、いくつかの質問をした。司祭が死ぬ数日前のジェカルドとシャロルティナ、それからマリージェスの様子。司祭が何か言い遺してはいなかったか。答えはすべて「わからない」だ。
だってリーリアは屋根裏部屋に閉じ込められてばかりで、そこから出る時は使用人達以外の視界には決して映らないように注意していなければならなかったから。しばらく会っていなかった司祭の死の前兆なんて、知る由もなかった。
手ごたえのないリーリアに警部もすっかり匙を投げ、諦めがちに帰っていった。
ジェカルドやシャロルティナに会ってしまわないように、リーリアはそそくさと屋根裏部屋に戻ろうとした。使用人の侮蔑の眼差しと嘲笑が刺さる。
「屋根裏のネズミがどうして階下を歩いてるの? いつもの仕事の時間じゃないのに。誰か雑用でも押しつけた?」
「警察が会いに来たらしいよ。またお屋敷の物でも盗んだんじゃない?」
「あらぁ? わたし、最近はそんないたずらしてないわよ?」
「じゃ、別の人がやったんでしょ。あの目障りな成り上がり女に出て行ってほしい人なんて大勢いるんだから」
メイドのキャミィとクルエは声を抑えもせず、ちらちらとリーリアを見ながら嗤っている。きっとリーリアに聞かせたいのだろう。
リーリアは何もしていないのに、ただ歩いているだけでこのざまだ。慣れているとはいえ、つらかった。
屋根裏部屋から義母のアクセサリーが見つかったことで、義母から激しい折檻を受けたことは記憶に新しい。
夫はリーリアを庇うどころか、一瞥もくれなかった。リーリアのことなど心底どうでもいいのだろう。
盗難事件がリーリアを追い出したいメイド達の策略で、首謀者がクルエだったと露呈しても、メイドは誰からも責められなかったし、リーリアに謝罪しようとする者も誰一人としていなかった。
(わたし、どうしてあの人達にまで馬鹿にされないといけないのかしら。……死ぬまで一生、このままなの?)
都合のいい、ストレスのはけ口。この屋敷においてリーリアの存在意義はきっとその程度なのだろう。貴族のメンツのため追い出せないが、その半面逃げる心配もない。殴っても殴っても元の位置に戻る人形は、日頃の鬱憤をぶつける先にちょうどいいに違いない。
このプライスティ・ホールが自分の家だと思えたことは、嫁いで以来一度もない。
義父が存命だった時ですら、義母や夫、それからふらりと遊びに来る夫の愛人に気を使っていたので、ここを心休まる場所として捉えることができたことなんて本当は一日たりともなかった。
(この家は本当に息が詰まるわ。せめて庭だけでも、外出できたら)
ふと立ち止まり、廊下の窓から庭を見下ろす。仲睦まじげに腕を組んで散策するジェカルドとシャロルティナがいた。
義父が亡くなって以来シャロルティナはこの家に入り浸っていて、堂々と主寝室を使っている。もしかしたら、彼女の本来の家であるアミラ・ホールにいる時間より、このプライスティ・ホールにいる時間のほうが長いかもしれない。
まさかリーリアの視線に気づいたわけではないだろうが、シャロルティナが何気なく空を見上げた。そこでうっかり目が合ってしまった。シャロルティナの唇はにんまりと弧を描く。
「シャロルティナさん……」
まるでリーリアに見せつけるように、シャロルティナはジェカルドに身を寄せて豊満な胸をその腕に押し当てた。相好を崩すジェカルドは、最初からリーリアのことなど気づいてもいない。リーリアはさっと顔を赤らめて、急いで窓から離れた。
(せめて一人だけでいいから、話を聞いてくれる人がいたらいいのに。嫁いだばかりのころは、市井に顔を出すこともできていたけど……今はもう外出を許されていないから、きっと街の人達にも会うことはできないでしょうね)
慈善活動の一環として、炊き出しや慰問に出ていた日のことを思い出す。まだ義父が存命で、リーリアが未来に希望を持っていたころのことだ。
リーリアは救貧院や孤児院に足しげく通い、教会の手伝いも積極的に行っていた。平民の身ながら貴族に嫁いだリーリアを、市井の人々は羨望の眼差しで見つめた。移ろいゆく時代の中で、リーリアは亀裂の走った二つの階級をつなぐ架け橋だった。
しかし義父が死に、ウィラスティ家の人間によるいじめが苛烈になっていくにつれ、リーリアは家の中に閉じ込められるようになった。他者と触れ合える機会を奪うことで、家の外の人間が異変に気づいたり、リーリアが彼らに助けを求めたりしないようにするためだろう。ボルバ司祭に会わなくなったのもそのころからだ。
「こんなことになるのなら、ウィラスティ家になんて嫁いでくるんじゃなかった……」
うじうじと悩むことしかできない、無力で臆病な自分が一番嫌いだった。リーリアは藁を敷き詰めた黴臭いベッドの上で静かに涙をこぼす。遠い記憶の彼方で、今は亡き母が教えてくれた子守歌を口ずさみながら。
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