18:35
「旦那様、司祭様がお見えです」
「司祭だと? どこの誰だ?」
ジェカルドが居間でくつろいでいると、執事のダンブルがやってきた。傍でピアノを弾いていたシャロルティナも手を止めて顔を上げる。
「それが、この辺りでは見ない顔でして。どうやら王都から派遣されたようです。先触れは届いていませんが……」
カレリス村の教会を預かっていた司祭は、しばらく前に亡くなった。恐らく、その後任がようやく到着したのだろう。
「そうか。まあいい、すぐに行く」
ジェカルドはおもむろに立ち上がった。居間の壁掛け時計は十八時を半分過ぎたところを指している。
「わたくしも挨拶したほうがいいかしら」
「大丈夫だ。君はここにいればいい」
しかしその突き放すような声音をシャロルティナは意図的に無視した。シャロルティナの腕がジェカルドの腕に絡まる。ジェカルドはそれをさりげなく振りほどき、応接室に向かった。
「お目にかかれて光栄です、ラゼルバン侯爵閣下。アドニス・ソディアと申します」
黒いカソックを纏った若い司祭が、恭しく頭を下げた。その足元には大きな革張りの鞄がある。
司祭の所作は洗練されていて、身だしなみも整っている。右肩の上でひとつにくくられた長い金の髪の輝きは、裕福さの象徴だ。どこかの貴族の次男坊か三男坊だろうが、家名に聞き覚えはない。田舎の出か、新興の家柄だろうか。ジェカルドは鷹揚に頷き、若司祭に着席を促した。
(それにしても、随分と若い司祭だな。これで本当に司祭なのか?)
恐らく、まだ二十代半ばごろだろう。ジェカルドより年上であることに変わりはないが、前任の司祭─頭が固くて口うるさい、あの頑固な老爺─の印象が強いせいで、これほど若い男が司祭として赴任してきたのは意外だった。
ジェカルドは応接室の柱時計を一瞥する。この時計も、十八時を半分過ぎたところを指していた。
「ソディア司祭、今日はこの屋敷に泊まっていくといい」
「光栄です、閣下」
一番近くのカレリス村までは、歩いて一時間といったところだ。馬ならあっという間だし、そもそもウィラスティ家から馬車を出して送ってやればいいのだが、そこは大貴族の威信というものがある。新しく赴任してきた聖職者に挨拶だけさせてもてなしもしないまま帰しては、ラゼルバン侯爵の名が廃ってしまうだろう。
「ところで、奥様はどちらに?」
「……」
若い司祭は薄笑いを浮かべて尋ねた。何かを試すようなその眼差しに、ジェカルドはわずかに眉をひそめる。
「侯爵夫人は、赤毛の女性だとうかがっていまして」
そう言われたジェカルドは、リーリアの明るい赤の髪を思い出した。シャロルティナの華やかだが冷たく高慢な印象を与える銀色の巻き毛とは違う、あの純朴で温かみのある髪の毛を。
(かつての私は浅はかだった。リーリアの気持ちを踏みにじり、つらく当たった。何の罪もない、無垢な少女だったにもかかわらず。リーリア、この場に君を呼ぶことができたなら……)
貴族社会の右も左もわからない町娘を妻としなければならないことをジェカルドは憂いたし、彼女を妻として重んじたこともない。それがどれだけ恥知らずな振る舞いだったか、今のジェカルドはようやくわかっていた。
「妻は病弱でな。それにとても繊細で、女主人として采配を振るうには至らない。だから、こちらのシャロルティナ嬢が補佐についているんだ」
「……なるほど、そうでしたか」
シャロルティナが淑女の礼を取るが、アドニスは一瞥をくれただけだった。頬を染めて見惚れることも、媚びた笑みと共に歯の浮く台詞を口にすることもない。新しい司祭はずいぶんと無礼な男だと、シャロルティナがへそを曲げたのが手に取るようにわかる。
(どうして私は、この高慢な女を愛してしまっていたんだ?)
シャロルティナを見るたびに、己の愚かさを突きつけられる。真の幸福は、ずっと傍にあったのに。ジェカルドは自嘲しつつ、アドニスに向き直った。
「すぐに客室の用意をさせる。こんな田舎で退屈だろうから、屋敷の中は好きに見て回ってくれて構わない」
「ご配慮いただきありがとうございます」
「歓迎の晩餐に招待しよう。晩餐の時間になれば使用人に呼びに行かせるから、それまで自由にくつろいでくれ」
「晩餐……」
アドニスは左手を胸のあたりまで持ち上げて、拳を軽く握りながらひじを曲げた。視線は手首に落としている。敬礼の一種だろうか。見慣れない、奇妙な動作だ。
彼は右手でカソックの袖をわずかにずらしていたので、その左手首にぴたりと巻かれた腕輪のようなものがちらりと見えた。鈍い銀の光を放っているが、宝石などはついていないようだ。王都の流行りの装飾品なのだろうか。社交シーズンは夏の盛りに開かれる。それまで王都にはめったに行かないので、流行については詳しくなかった。
「侯爵閣下。つかぬことをおうかがいしますが、今日は聖歴何年の何月何日だったでしょうか?」
「何?」
いきなり何を訊くのだろう。ジェカルドはいぶかしく思いながらも答えようとした。
「一七六七年の……」
(まいったな、私までうろ覚えだ。この男につられたのか)
意識していないことは、意外とすんなり出てこないものらしい。シャロルティナに視線を移すと、彼女も戸惑っているようだ。ぱっと出てこないのか、宙を見つめて首を小さくかしげている。
ジェカルドの返答を待つかのように、アドニスは黙したままだった。ジェカルドは苛つきながらも考えを巡らせる。
「四月三十日だ。今夜は魔女の祝宴だから、なおのこと夜遅くに出歩かないほうがいい」
昔からの言い伝えで、四月三十日は忌まわしい日とされている。なんでも、魔女や悪魔が跋扈して人を狂気に駆り立てるとか。形骸化した伝統ではあるが、そういったものを重視するのも田舎の風土だ。
「だが、それがどうかしたのか?」
「いいえ。実は最近、少し忙しくて。お恥ずかしいことですが、日付の感覚が曖昧だったのです」
(妙な男だな。金だけはある家の人間が、ぼんくらの世話を教会に押しつけたか?)
品定めをするように、ジェカルドはアドニスをじろじろと見た。何がとははっきりわからないが、どことなく違和感がある。
(まさか、聖職者のふりをした不届き者ではないだろうな?)
そんなジェカルドの内心を見透かしたのか、アドニスはおもむろに祈りの聖具を取り出した。ぴかぴかと輝く月十字のペンダントは、年季こそ違えど確かに前任のボルバ司祭が持っていたものと同じ意匠だ。
(月聖教の聖職者にのみ与えられるそれを持っているというのなら、どれだけ風変わりな男であっても本物の聖職者に違いはないだろう。どこかの誰かから盗んでいなければの話だが……カソックのサイズもぴったり合っているように見えるし、どれもこの男のものと見てよさそうだな)
それならば、この胡散臭さの源は一体なんなのだろう。疑念は残るが、ジェカルドはそれをいったんしまい込むことにした。それよりも、アドニスの前にいると居心地が悪く感じられて、早く応接室を離れたくなったのだ。
「ダンブル、客人の案内を頼む」
「かしこまりました、旦那様」
ジェカルドが立ち上がると、シャロルティナもそれにならった。廊下に出ると、少し気分が落ち着いた気がする。
「あの司祭様、なんだか少し変ではなくて? わたくし、気味が悪いですわ」
「どうせ金で位階を買った成金の息子だろう。私達が相手をするほどの人間ではないさ」
シャロルティナが纏う強い香水の匂いが鼻についた。しなだれかかる彼女を軽くあしらい、足早に居間に戻る。どうして隣にいるのが愛しい妻ではないのかと、ジェカルドは深くため息をついた。