17:45
「いやはや、ご無事で何よりです」
「もうあの城の呪いは解けましたから、どうかご安心ください」
「本当にありがとうございました、ソディア司祭!」
ラゼルバン県の知事とカレリス市の市長は深々と頭を下げる。相手は一週間ほど消息が途絶えていた聖職者だ。
その司祭、アドニスは柔らかく微笑みつつ、さりげなく左腕の腕時計を確認した。
聖暦二〇二〇年六月二日、十七時四十五分。プライスティ・ホールにいる間はずっと狂ってしまっていたデジタル時計は、正しい時刻を指し示している。
「浄霊師として当然のことをしたまでですよ」
「とはいえ、こういったことはどこにも相談できませんのでね」
「もしやと思ってお願いしたのですが、よもや本当に……っと、これは失礼!」
「いえ、怪しまれるのは慣れていますから」
どれほど歴史と権威がある宗教組織だろうとも、実際に超常的な現象を引き起こせるなどとは思われていない。無邪気に奇跡の実存を信じられるのは敬虔かつ熱心な信者だけだ。現代社会の厳しさは、アドニスだってよく知っていた。
(そりゃそうだろう。怨霊だの呪いだの、マトモな人間が取り合うわけがない。神秘は確かに存在してるっていうのに、自分が当事者にならない限り認めなくても仕方ないさ)
月聖教直下、浄霊師協会。それがアドニスの所属する組織の名前だ。
霊視と浄霊の才能を持つアドニスを養育したその組織では、生者の世界をさまよう死者の救済を使命としていた。世界宗教として広く名を知られる月聖教の中でも、ただの形式上の儀式を行う小規模な集団だと思われがちな浄霊師協会が、実際に怨霊を祓えると知っている者はごくわずかだ。
「お約束通り、報酬は教会や月聖教系列の福祉施設への助成金という形でお支払いいたします。ちょうど、市民から修繕や改善の要望が届いているという施設が何か所かありますので」
「ええ、そうしてください。エクソシストへの謝礼だなんて、表では正直に説明できない使い道ですからね。癒着だなんだと言われないように、うまく手を回しておいてくださいよ」
決して人目には触れさせられないような契約書を交わし、アドニスは市庁舎を後にした。
日は沈んだというのにまだ蒸し暑い。年々ひどさを増してくるこの暑さはどうにかならないものだろうか。せっかく市庁舎に寄る前にホテルでシャワーを浴びて着替えたというのに、今にも汗が吹き出しそうだ。
「ソディアです。プライスティ・ホールの件は解決したので、明日には本部に戻れるかと」
『お疲れ様でした。お気をつけてお帰りください、ソディア司祭』
通話相手は協会の連絡係だ。短い報告を済ませ、アドニスはハンカチとスマートフォンをしまった。
雨の気配を含む六月の匂い。通りの店の自動ドアは、人が通り過ぎるたびに開いてひんやりとした冷気を外へと送り込む。街頭ビジョンから降ってくる明るい音楽や行き交う自動車のエンジン音、それから明滅する信号に急かされて歩く通行人。アドニスもその雑踏に紛れ込む。
五感を刺激するざわめきは、現実に帰ってきたことを教えてくれる。取っていた安ホテルに帰って一眠りして、それから街を発つつもりなのだが、その前にもうひとつだけやっておきたいことがあった。
向かう先は花屋だ。店主はラッピングの吟味に付き合ってくれる。なかなか商売上手な店主だったので、アドニスも笑いながらチップを弾むことにした。
(それにしても、なかなかお目にかかれないような案件だったな。怨霊に囚われた霊が跋扈してるだけならまだしも……)
プライスティ・ホール。その正体は、二百五十年の長きに渡って存続していた呪いの檻だ。
日没から真夜中まで、住人は永遠に同じ一夜を繰り返す。自分がとっくの昔に死んでいることをすっかり忘れたまま、怨霊に殺され続けるために。
リーリアの復讐の舞台と化したプライスティ・ホールは、現実の季節や時間の流れに囚われない。アドニスがあの古城を訪れたのは一週間前の朝七時のことだったのに、敷地に足を踏み入れた時点で空は夕闇に閉ざされていた。
アドニスを迎えた住人達も、今が四月で時間も夜かのように振る舞っていた。自分達がとうの昔に死んでいることに気づいていない哀れな幽霊達は、いまだに当時の栄華にしがみついてその生活の再演をしているのだ。
二百五十年以上前の、四月三十日。
それを伝える史料もなく、事件捜査の専門家でもないアドニスには詳しい時刻まではわからない。だが、その日の夜の間にラゼルバン侯爵夫人リーリア・ウィラスティは命を奪われたはずだ。だからプライスティ・ホールは、四月三十日の夜を繰り返しているに違いない。
それまでずっと心を殺され続けていた彼女は、とうとう肉体の枷から解き放たれてしまった。
プライスティ・ホールで一番強い恨みを遺して亡くなったのはリーリアのはずだ。史実から考える限り、リーリアの死後においてはシャロルティナの扱いもひどいものだったのだろうが、それは自業自得の結果だ。リーリアには関係ない。
リーリアにとってシャロルティナは、純然たる加害者でしかなかった。
そうである以上、シャロルティナはリーリアの復讐から逃れられないのだ。
第一、毒殺の魔女の伝承が半分でも真実ならば、シャロルティナには怨霊になって他人を呪う資格はない。
忘れ去られたリーリアの遺体を起点とする呪いはプライスティ・ホール全体を覆って現実世界から切り離し、生前に自分を虐げた者達の魂をそこに閉じ込めてしまった。恐らくは、リーリア自身も無意識のまま。そうでなければ、涸れ井戸で水を汲むふりをしたり他の住人を恐れたりというような、生前の習慣らしきものを反復してはいないだろう。
リーリアの怨霊に呪い殺された者達は、死後も呪いの主たるリーリアに囚われる。
だから幽霊になってなお、プライスティ・ホールの住人達は歯向かうことを許されないままリーリアの怨念に殺され続けていく。その死の間際、自分が犯した罪と、これまで殺され続けてきた痛みを思い出して。それこそが、彼ら彼女らに課せられた罰だった。
リーリアによる永遠の殺戮の呪いは、あくまでも自分を虐げてきた人間が対象だ。館の外からやってきた人間に効果はない。
それでも、『魔女』の噂を聞きつけて遊び半分でやってくる人間や、科学で解明できないものを目にしたい超常現象愛好家はいる。調査や保全のためにやってきた研究者と業者、それから手つかずの財宝が眠ることを夢見る泥棒もだ。
霊に直接触れられるアドニスほど強い霊感を持つ者はそうそういないだろうが、感受性の豊かな者は案外多い。
呪いによる空間の歪みから、本来なら隔絶されているはずの狭間の世界への道が生じ、そういった者が迷い込む。迷子になった生者達は、朽ち果てた古城をさまよう黒い死装束の女の霊や、自らの死を忘れた亡霊達による日常ごっこ……そして、あの生きたまま腐乱した怪物を見てしまう。永遠に繰り返される四月三十日の虐殺も、垣間見ることになるだろう。
『魔女』は悪女シャロルティナだという先入観があり、ショッキングな惨劇を見せつけられる以上、怨霊の髪の色などという些細なことは誰も気にしない。
噂は噂を呼んで尾ひれをつけるものだ。そして彼らは、身の回りで起こったまったく関係のない不幸な偶然でさえ呪いに因果を結びつけたがる。名目上は行政が管理しているあの廃墟が、立ち入り禁止の心霊スポットになるのにそう時間はかからなかった。
その現状に、手を焼いた者達がいた。呪われた城の建つラゼルバン県カレリス市の名士達だ。
毒殺の魔女と極悪非道の侯爵にまつわる血塗られた歴史は教訓として語り継がねばならないが、本物の呪いや悪霊が実在すると困る。
歴史的建造物であるプライスティ・ホールの悪名を払拭し、観光名所として生まれ変わらせたい。
そのために呼ばれたのが、名うてのエクソシストであるアドニスだ。そしてアドニスは、依頼された仕事を無事にこなしてみせた。
呪いの核を見つけ、神の愛を伝えることによって怨霊を浄めるのが、月聖教におけるエクソシストの役割だ。
呪いの核は、大抵が怨霊本人にゆかりのあるものになる。遺骨はその最たる例だ。
だからどの文献にもリーリアの遺体の発見と埋葬の記述がないことに気づいたアドニスは、リーリアの遺骨がまだプライスティ・ホールのどこかにあるとあたりをつけて、それこそ呪いの核だと考えた。
巷で流れる噂のように、怨霊の正体が『魔女』だと思わなかったのは、アドニスの長年のエクソシストとしての勘のようなものだ。何故なら怨霊は、善良だったのに虐げられた人間が転じて生まれるものなのだから。
変わり果てた姿が生前の姿と結びつかないせいか、このことはあまり知られていない。そもそも、霊の実存自体が疑われているので、事実がどうであろうと気にしない者が大半だが。
神は人を救わないし、人を裁きもしない。それでも見ている。人の善悪を見つめ、平等に愛する。見ているだけの神に代わって働くのが、神のしもべたる聖職者だ。
聖典にきちんと書かれているこの公平にして傲慢、怠惰で悪趣味な神のありようを、人は都合よく解釈した。天は常に見ているのだから正しいことをしなさいとか、悪い行いは自分に返ってくるだとか。だから月聖教は何もしない神を掲げているにもかかわらず、博愛の宗教として世界的な地位を築いて今も名声を保っている。
怨霊の正体についてのアドニスの予想は、最初に廃墟を訪れたときに美しい姿のままのシャロルティナを見たことで確信に変わっていた。本当に怨霊と化した魂ならば、その恨みを纏うかのように恐ろしい姿に変質してしまうからだ。
しかしシャロルティナは、半透明なことを除けばごく普通の人間に見えた。その隣にいた侯爵は異形の姿をしていたが、彼もまたリーリアの怨念に嫐られる犠牲者に過ぎない。アレの対処はアドニスの専門外だ。リーリアの呪いさえ解ければ、なるようになるだろう。あの肉体そのもののように腐った魂が行き着く先は地獄か、はたまた誰にも気づかれない狭間の世界になるだろうが。
そしてアドニスはとうの昔に枯れた古井戸の底を調べ、壁の中に何かが埋められていないか確かめ、最終的に荒れ果てた庭でリーリアを掘り当てた。
無事に見つけた彼女の遺骨は、知事との契約によって手厚く埋葬されなおされる手はずになっている。あの荒廃した城も修繕されるはずだ。もうリーリアの魂が孤独にさまようことはないだろう。
(腐乱死体だか狭間の不死者だか知らないけど、どうやってあの侯爵はそんな姿に……いや、深くつつくのはやめておこう。どのみち、怪奇現象のすべてを解明できるわけじゃないんだから。死後の報復すら、神は認めて良しとするんだ。きっとアレもその一環だろう)
丁寧にラッピングしてもらった花束をひとつ買ったアドニスは、その足で街の中央広場へと向かう。その広場には、革命の嚆矢として有名な悲劇の乙女リーリアの銅像が鎮座していた。
「この銅像が、貴方に似てるかどうかはわからないけどさ」
アドニスは銅像を見上げる。
様々な方法で殺され続けるだけの幽霊にすぎないシャロルティナやマリージェス、それから使用人達は人間の姿を保っていたが、呪いの元凶であるリーリアは怨霊という言葉にふさわしい姿に成り果てて声まで濁っていた。
「でもきっと、本当の貴方はこの花が似合うような愛らしい子だったと思うよ」
だからアドニスは、彼女が本当はどんな風に笑い、どんな声音で話すのかを知らない。笑顔も声も、彼女は奪われてしまったのだから。
それでもアドニスと話していた時、あの黒いドレスの怨霊にはごく普通の少女さながらの、純情で無力で、優しい女の子の姿が重なっていた。
「どうか安らかに、リーリアさん。次に生まれ変わったら、そのときこそ幸せになれるといいね」
アドニスは短く祈りを捧げ、静かにその場を後にした。
空はすでに本物の宵闇に染まっている。彼方で瞬く一番星を見上げ、アドニスは愛用のライターでお気に入りの銘柄の煙草に火をつけた。
時代に翻弄された犠牲者を悼む銅像の下に残されたシャクヤクの花束を、夏風が柔らかく撫でていった。
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