たったひとつの願いと呪い
エピローグは本日17時40分ごろに投稿予定です。
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リーリアと夫婦ごっこをするというジェカルドの気まぐれは、それから一か月ほど続いた。
愛していたはずのシャロルティナを手切れ金ひとつで追い出し、打って変わってリーリアを溺愛する。その豹変ぶりは、リーリアには不気味としか思えなかった。
だってリーリアは、彼が本当に愛しているのがなんなのか理解していたからだ。たとえそこから目をそらして彼に気を許したとして、自分もいずれシャロルティナのように放り出されるのかもしれないという予感もある。ジェカルドの自己中心的な愛を素直に受け入れるには、リーリアの心は傷つきすぎていた。
「リーリア。私はこれだけ君を愛しているのに、どうしてその愛が伝わらないんだい?」
かたくななリーリアは、ジェカルドの望み通りの反応を引き出せなかった。
ジェカルドの困惑はやがて苛立ちに変わり、プライドを傷つけられた憎悪に育つ。自分の理想とする物語が始まらないことは、傲慢なジェカルドにとっては我慢のならないことだった。
「……だって貴方が愛してるのは、わたしじゃないんですから」
ベッドの上で放心したまま横たわるリーリアは、小さく嗤った。
虚ろな目は組み伏すジェカルドをまっすぐ見上げられず、じっと横の壁を見ている。抵抗できずに裸体をさらす少女は、あまりにも危うげだった。
(それでもわたしは、いつかこの人の子を宿すの? 愛し合っていないのに?)
調子の外れた子守歌を、自然と口ずさんでいた。途切れながらも流れる歌声に、ジェカルドは眉根を寄せる。
(自分の身も守れない場所で、小さな命を授かったって……その子のことまで不幸にするだけでしょう……?)
尊敬できる人と、祝福される結婚をするはずだった。
幸せの中で、いつかは愛しい我が子をこの腕に抱く。そんな未来を夢見たことがあった。
「歌うのをやめろ、リーリア。今は大事な話をしているんだ」
強引に目線を合わせられる。歌声は途絶え、代わりに一筋の涙が伝った。
(ジェカルド様は、いつもこうね)
ジェカルド好みのドレス。ジェカルド好みの化粧。ジェカルドが望むこと以外はさせてもらえない。鏡に映る淑女が誰なのか、リーリアにはもうわからなかった。
それまでやらされていた下働きの仕事はすべてやらなくていいとジェカルドに言われたが、使用人達がリーリアに向ける棘のある眼差しはそのままだった。
使用人を総入れ替えして、それまでのリーリアの待遇が外に漏れては困る。だから誰もクビになることはなかったし、新しい使用人が増えることもない。女主人らしい采配の権限は、リーリアには与えられなかった。
凝り固まった価値観の者同士で形成された環境が打破できていない以上、ジェカルド一人の態度が変わったからといって、他の人間からのリーリアに対する心証は変わらない。
シャロルティナの美貌や血統に心酔していた者達は、シャロルティナを実質的に追い出したともいえるリーリアをより強く憎んだ。主人たるジェカルドにその怒りの矛先を向けるわけがないから、当然と言えば当然だ。
怒りが最も顕著だったのはマリージェスだった。リーリアのようなどこの馬の骨とも知れない平民女が、愛息子に自分が認めた女を捨てさせたことがよほど腹に据えかねたのだろう。ジェカルドに気づかれないよう、マリージェス主導の嫌がらせは巧妙なものになっていった。
いや、もしかしたらジェカルドは、とっくにそのことに気づいていたのかもしれない。
すべてに気づいていたうえで、虐げられる不幸な少女をたった一人で守り続ける英雄という幻想に、彼は浸っていたいだけだったのだ。
「……ジェカルド様。貴方が一番愛してるのは、貴方自身なんじゃないですか?」
そんな日々に、リーリアは終止符を打ちたかった。
「もしも本当に、わたしのことを愛してくれているなら……プライスティ・ホールじゃない場所で、どこか遠くの場所で……静かに暮らさせて……」
リーリアは、心からの願いを呟いた。相手が生きているうちに離婚することは法律で禁止されている。だからこその譲歩だった。
「ふざけるな……ふざけるなリーリア! 私を捨てるつもりか!? 私達の結婚が何故結ばれたのか、わからないわけではないだろう!?」
「ここでのことは、誰にも言いません。世間体は守ります。だからどうか、どうか……お願いです、ジェカルド様……」
激昂したジェカルドはリーリアを殴った。殴られた頬より、心のほうが痛かった。
だってそれは、リーリアのことを何も理解してもらえていないことの証明だったのだから。
「ここまで私に尽くさせておいて、一体何が不満なんだ!」
「……わたしはただ、わたしを人間として扱ってほしいんです……」
「とんだ性悪だな、君は! リーリア、君がここまで強欲な女だとは思わなかった! 人の欲望に際限などないということか!?」
「違う……違うの……。そうじゃなくて……」
無垢だと思った野花がただのしつこい毒草だったと気づいたかのように、ジェカルドは目に失望を浮かべた。リーリアの言葉なんて、彼の耳にはもう入らない。
ジェカルドは怒りに任せ、少女の細首を強く締める。見開いた目に涙を浮かべたリーリアは醜い苦悶の声を漏らした。
己の首を圧迫するジェカルドの手に必死で爪を立て、リーリアは足を激しくばたつかせる。しかし逃げることは叶わず、痙攣したのちに彼女はその動きを止めた。
「……リーリア? リーリア!?」
我に返ったジェカルドは慌ててリーリアを揺さぶる。だが、鬱血した顔とだらりと力なく垂れた舌が、彼女の命がとうに潰えていることを告げていた。
ジェカルドは大急ぎでピートを呼び、リーリアの遺体を隠すことにした。名門ウィラスティ家で殺人事件など、あってはならないことだからだ。
誰もが寝静まっていた夜更け、青年達は中庭の薔薇の木の下に秘密を埋めた。
せめてもの弔いにと、少女に黒い死装束だけ着せて、あとは自然に還るように任せた。聖暦一七六七年、四月三十日の晩のことだった。
──しかしそれ以降、プライスティ・ホールでは奇妙な現象が起こるようになる。
いわく、黒いドレスを着た幽霊を見た。
いわく、赤毛の化け物に襲われた。
ただの怪談なら握り潰せば済む話だが、実際に死人まで出た。
不吉の予兆に使用人達は我先にと暇を願い出たが、それが受理される前にみな死んだ。どれも屋敷の中でのことだった。
相次ぐ不審死に警官が来る。連日続くきつい取り調べの中で、怪しい人物として侯爵に捨てられた元愛人が浮上した。プライスティ・ホールの連続不審死との関連は不明だが、彼女に前侯爵と司祭の毒殺疑惑までもが持ち上がった。
捜査の途中でリーリアの失踪も浮き彫りになってしまったことで、ジェカルドは一計を案じた──すべてをシャロルティナに押しつけてしまえばいいと。
幽霊話なんて、捜査機関が真面目に取り合うはずがない。それよりも、リーリアの失踪についてジェカルドの関与を疑われるほうが問題だ。
一方のシャロルティナには、すでに別の殺人に関与していた疑いがある。今さら余罪が増えても問題ないだろう。そう考えてのことだった。
そしてジェカルドはシャロルティナを、前ラゼルバン侯爵オーニッドとボルバ司祭、そして現ラゼルバン侯爵夫人リーリアを殺害した罪で、『魔女』として火刑に処すことにした。
市井の人々は、前領主が死んで以来姿を消したリーリアの身を案じていた。平民の希望の星たる侯爵夫人は城内で静養していると聞いていたのに、どこにもいないとは何事か。市民は不満を露わにし、警察も威信にかけてリーリアの身に起こったことを突き止めようとしていた。
ジェカルドがその追及から逃れるためには、シャロルティナを生贄にしてすべての罪を背負わせるしかなかったのだ。
だが、死の連鎖は止まらない。
遺体すら消えたリーリアの祟りだと、最初に言い出したのは果たして誰だったか。
誰も彼も、真面目に取り合うのが遅かった。その真相が屋敷の外に伝わる前に、それを語れる者はいなくなってしまった。
リーリアの死から一か月も経たないうちに、プライスティ・ホールは無人の城に成り果てたのだから。
ドストーレ警部率いる捜査隊に捕らえられる前に、狂気に陥ったシャロルティナはプライスティ・ホールに逃げ込んだ。
使用人達が次々と不可解な死を遂げたことで神経が衰弱しきったジェカルドとマリージェスを巻き込んで、毒による無理心中を試みたのだ。
城からはシャロルティナとマリージェスの遺体だけが見つかった。ジェカルドの遺体は発見されなかったが、怒れる市民に八つ裂きにされることを恐れてどこか遠くに逃げたのだろうとみなされた。醜く責任をなすり付け合って争った者の末路だ。
使用人だって、もう一人として生き残っていない。
プライスティ・ホールの住人達が、ずっと黒い少女の笑い声に急き立てられるように死へと向かっていったということを伝えられる人間は、もはや誰もいないのだ。
多くの死者を出したことにより、領主の館と尊ばれていたプライスティ・ホールは、呪われた城として名を馳せるようになった。
ただしその呪いは、傲慢な領主にもてあそばれて世界を恨んだ身勝手な『魔女』シャロルティナによるものだとされている。
市井で囁かれる噂話の中において、リーリアは貴族と平民をつなぐ架け橋の役目を立派に果たそうとしたものの、心ない領主の愚行によって尊厳を踏みにじられて殺された、悲劇の乙女ということになった。
そしてそれから三年も経たないうちに、融和党が恐れていた事態が起こる。市民革命だ。
平民の希望たるリーリアをむざむざ殺されたことで市井の人々は怒りに湧き、憎しみが国中に伝播した結果、ついに彼らは蜂起したのだ。
横暴な貴族に散らされた、悲劇の乙女リーリアを忘れるな──
その言葉を標語にして民衆は団結し、鮮血による洪水が国中を浚った。
革命によって王権は倒された。人々は『魔女』の呪いを恐れていたのでプライスティ・ホールが略奪と蹂躙の対象になることはなかったが、特権階級という聖域を破壊する嵐が国中で吹き荒れた。
新たな政治体制が確立し、共和制の国家として正式に生まれ変わるまで、何十年と混沌の時代が続いた。
その混乱に飲み込まれ、プライスティ・ホールで起きた事件の真相など誰も気にしなくなっていく。
そして、毒殺の『魔女』の呪いと極悪非道な侯爵、時代の生贄となった哀れな乙女にまつわる物語だけが残された。
そうやって、国は、時代は移り変わっていった。
ただひとつ変わらなかったのは、プライスティ・ホールから出ることを許されなかったリーリアが、その間ずっとプライスティ・ホールの人間を憎み続け、呪い続けていたことだけだ。
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