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22:45

「まったく。こんな夜中に騒ぐなんて、一体どこのどいつなんだか」


 女中頭のスーザはのしのしと廊下を歩く。壁掛け燭台の火はほとんど消えていて、ガラスのランプの中で小さく燃える炎だけではいささかこころもとなかった。


 何やら館内からいくつもの叫び声・・・・・・・・が聞こえるので様子を見に来たはいいが、プライスティ・ホールは広い。原因を見つけるのは骨が折れそうだと、ため息をついたときのことだった。


「そこにいるのは誰だい!」


 視界を黒い何かが横切った気がして、スーザは慌ててランプをかざした。だが、その姿までは捉えきれない。


 嫌な予感がする。しかしスーザには、自分は肝が太い女であるという矜持があった。そのつまらない自負が、スーザの足を前に進めさせていく。


 己を誇示するように胸を張り、力強く廊下を踏みしめる。スーザの歩みを止められるものなど何もない──はずだった。


「ど……どういうことなのさ……」


 絶句するスーザの視線の先には、乱雑に散らばる使用人達の屍があった。


 職種も性別も関係なく、全員苦悶と後悔に顔をゆがめて息絶えている。一体誰がこんなことを。


 だが、スーザの目は闇の中でもぞもぞと動く山を捉える。すわ生存者かと、スーザは慌ててそちらに駆け寄った。


 無数の遺体の中でもひときわ赤いその場所には、鼠の群れがたかっていた。一心不乱に何かを齧っているらしく、ぐちゅぐちゅと水っぽい音がする。


「あっちへおいき! おいきったら!」


 ランプを振り回して鼠達を追い払う。薄汚い灰色の鼠は散り散りに逃げていった。


「ひどいことを……」


 吐き気をこらえながら目をそらす。鼠に集られていたのは、生前の面影がないほどぐちゃぐちゃに潰れた真っ赤な肉塊だった。着ているのが血に染まったメイド服らしいということだけは確認できたが、それがかつてなんという名前で呼ばれたメイドのものだったのか、もうスーザにはわからなかった。


 肉塊には血の跡が続いていた。進む道の指針ほしさに、スーザは招かれるようにその跡を辿る。


 べきょっ、ごしゃっ、どちゃっ。廊下の奥の暗がりから妙な音が聞こえる。このまま踵を返したい衝動に駆られるが、それを好奇心がわずかに上回った。屋敷のことは残らず把握していたいという欲望が、スーザから後退の選択を奪う。


 やがてスーザは音の源に辿り着いた。

 平伏するメイドが、自分の前に立つ黒い死装束ドレスの女に対して謝罪するかのように何度も頭を下げているのだ。ただ下げているというより、女に糸を切られた操り人形マリオネットが顔面から床へ崩れ落ちていると言ったほうが正しいかもしれない。

 無言のままなんのためらいもなく床に顔を叩きつけ続けるメイドには、両手がないように見えた。壊れた人形さながらのメイドを、女は舐め回すように観察している。


 その光景を茫然と見つめていたスーザは、女がこちらを見る気配を察して飛び上がった。もはや彼女の正体を確かめる勇気などなく、身を隠すために慌てて近くの部屋に飛び込む。


「ス……スーザさん……?」

「ピート? ピートなのかい!?」


 暗い部屋をランプで照らす。か細い明りの向こうに、引きつった笑みを浮かべる青年が見えた。


「あんたは無事みたいでよかったよ。早く旦那様達を探して、ここから逃げないと! 何かとんでもないことが起きてるのは間違いないんだから!」

「やだなぁ。まだ思い出してないんですか、スーザさん」


 その時スーザは気づいた。ピートが窓を開けていることを。


 今日は魔女の祝宴ミニュイ・ルージュ。新月の晩だというのに、星の明かりすら届かない。夜空を仰いだところで、何の天啓も下りはしないのに。


「俺はさっき思い出しましたよ。お湯を取りに給湯室に行ったら、大鍋の中でルゾーが茹でられてて。ぐつぐつ、ぐつぐつ……あははははははははっ!」

「な……何を言ってるのさ、ピート……」

「これは償いです、償いなんです。俺達の罪のせいで終わらない。ずっとずっとそうだった。……逃げる場所なんて、どこにもないんですよ」

「ピート!」


 開け放たれた窓に向かって、ぐらりとピートの身体が傾く。スーザは急いで駆け寄るが、自ら墜ちていく青年を止めることは叶わなかった。


「なんだってんだい……」


 スーザは窓から下を覗き込む。ピートの遺体は夜闇に紛れ、ここからでは何も見えなかった。ピートなんて最初から存在していなかったかのようだ。


 あまりに現実離れした出来事が続いたせいで、夢を見ているような気がする。ただ悪夢にうなされているだけで、朝が来ればきっと全部が元通り。誰だって死んでいない。だから早く目覚めてほしい。


 そう願いながら、スーザはドアの前にぴったりと耳をつけて神経を集中させる。屋敷の外に出て、ピートの安否を確かめに行きたかったからだ。幸い、妙な気配はもう感じなかった。


 おずおずとドアを開ける。廊下にはもう何も残っていなかった。足元を埋め尽くしていたおびただしい数の屍も、鼠の群れも、黒い女も。誰かの悪趣味ないたずらだったのだろうか。そう思いたいが、生臭くて重苦しい空気がまとわりついて離れない。


「ったく、どうせまたキャミィ達の仕業イタズラだろ! 今度はタダじゃおかないよ!」


 微かに漂う血の残り香を吹き飛ばすように、スーザは憤りをあらわにする。怒りを燃料にして心を燃やし続けなければ、震えすぎて足が折れてしまいそうだった。


 だが、そんな風に前だけ見て歩いていたのが災いしたのだろう。エントランスホールへと続く階段の前で、スーザは足をとられて転んでしまったのだ。


 樽のように肥え太った身体はごろごろとよく転がる。太く短い指を何かに引っかけることもできないまま、スーザは大理石のエントランスホールに勢いよく投げ出されてうつ伏せに倒れこんだ。


 全身を強く打ちつけ、頭も朦朧としている今、立ち上がろうにも立ち上がれなかった。落ちていく時に額を切ったらしく、血が目に入って視界すらもかすんでいる。


 そんなぼやけた世界の中で、黒い何かがゆらゆらと動いているのが見えた。


(何かで滑った……? でも、後ろから誰かに押されたような気も……)


 ほんの一瞬のことだ。記憶が混濁し、スーザ自身にもはっきりと掴めない。


 だが、彼女はすぐに理解した。思い出した。ピートが残した言葉の意味を。


「お、お願いだよ、やめておくれ……! あたしらだって悪気はなかったんだ。大奥様や旦那様に逆らうなんてできないって、あんたにだってわかるだろう? だから、悪いのはあたしらじゃない……!」


 スーザはうわべだけ取り繕った言葉で自分を正当化し、起き上がろうと必死でもがく。

 それでも、折れた四肢がスーザの意に従うことはないし、彼女が赦されることもない。


 起き上がれないスーザのすぐ横で、黒いドレスの裾が翻る。まるでスーザを嘲笑っているかのように。


「ひ、人が下手したてに出てやってるっていうのに、この恥知らずが! あんたみたいな人でなし、地獄に堕ちちまえばいいんだ!」


 精一杯の罵声も、虚勢が露呈した今となってはなんのおどしにもなりえない。もはやスーザに興味などないかのように、黒い影は遠ざかっていく。


 向けた言葉の槍はもう、誰の心も貫けない。天に投げた石は、自分に返ってくるのが道理だ。


 少なくとも今のスーザには、エントランスホールを華やかに彩る巨大なシャンデリアが落下してくることに気づいても、そこから逃れるすべを持ち合わせていなかった。


*


 晩餐の後、具合の悪さを理由に休んでしまった息子に代わって客人をカードやボードゲームでもてなそうとしたマリージェスだったが、司祭は理由をつけて娯楽室に来なかった。

 使用人に呼びに行かせても、司祭は喫煙室や撞球室、それどころか客室にもいやしないという。娘のように可愛がっているシャロルティナが湯浴みのために部屋に戻ったので、マリージェスも諦めて自分の時間を過ごすことにした。図書室で趣味の読書にふけっていたのだ。


 そろそろ寝室に行こうと、屋敷の中を歩いていたときのことだった。

 まるで罪を一身に背負う聖者のように磔にされた、シャロルティナの亡骸を見つけてしまったのは。


 こてんと首をかしげる仕草が愛らしい、気品のある令嬢だった。

 夫や前任の老司祭はシャロルティナをふしだらな泥棒猫だと言って毛嫌いしていたが、マリージェスは彼女のように華のある令嬢こそ息子の嫁にふさわしいと考えていた。ジェカルドがすでに結婚していることを、マリージェスは認めていなかった。


 いつか嫁いでくる義娘むすめのことは大事にしようと、マリージェスは決めていた。

 マリージェスは、素直に自分を慕ってくるシャロルティナをことさらに可愛がった。


 その、可愛い可愛いシャロルティナ。ねじ切られた首は頼りなさげに胴に載り、一度でも傾ければもう元に戻ることはない。

 胴体の向きとは反対に、顔が壁を向くよう首が置かれていたことだけは救いだろうか。恐ろしい死に顔を見なくて済んだのだから。その代わり、彼女が絶命していることを一目で理解することになったが。


 それが一体誰の仕業なのか、マリージェスにはわからない。

 けれど磔にされたシャロルティナを見ながらケタケタと嗤う黒い女に気づいた時、マリージェスはなりふり構わず逃げ出した。


「一体どうしてこんなことに……!」


 とっさに飛び込んだのは厨房だ。部屋の片隅で、マリージェスは縮こまって震えていた。前ラゼルバン侯爵夫人、貴婦人の中の貴婦人として褒め称えられるべき自分が、こんな暗がりでみじめにおびえて逃げまどっているなど、あってはならない事態だというのに。


 それもこれも、もとをただせば原因はきっとリリアンヌ・ウィラスティにある。この国の黄金期を築いた偉大なる女王と同じ名前を持った、あの忌々しい姑のせいだ。


 若き日のマリージェスは、なかなか子供を産めないことを義母にねちねちと責められていた。自分と夫、どちらに原因があるかはわからない。それでも子供に恵まれないという事実に変わりはなく、義母リリアンヌのちくちくとした嫌味を聞かされるのがマリージェスの日課だった。


 幾度目かの流産を経験した果てにやっと授かった待望の嫡男を、マリージェスはことさらに可愛がった。もうこれ以上子供を産むのは難しいと医師から忠告されていたので、産まれてきたジェカルドには万が一のことがないよう大事に大事に育ててきた。何人もの乳母や子守りをつけて、片時たりとも目を離させず、過剰なほどに愛でくるんできたのだ。


 憎いリリアンヌはほどなくして死に、それと引き換えにして愛しいジェカルドはすくすくと健康に育ってくれた。

 マリージェスがジェカルドのことをなにより大切に思っていることは、夫のオーニッドだって知っている。


 それなのに。それなのに彼は、最愛の息子を世論の犠牲にしようとした。

 マリージェスには何の相談もなく、オーニッドは勝手にジェカルドの結婚を決めてしまったのだ。


 どこかの良家の令嬢との政略結婚であればまだ理解はできる。けれどそうではなかった。オーニッドが息子の嫁にと選んだのは、平民だったのだ。それも、あの義母と同じ由来の名を持つ小娘を。


 この国きっての女傑と伝わるリリアンヌ女王の名は、女児の名前として好まれる。リリィだのリリエだの、愛称だけでもリリアンヌに寄せようという流行もあった。

 だから、それが珍しくない名前だということは、マリージェスも頭では理解している。それでも、新たな家族の一員としてその名前を受け入れられるかは別だった。


 若かりし頃、マリージェスをさんざんさいなんできたリリアンヌ・ウィラスティ。蝶よ花よと育てられてきた生粋の貴族令嬢だったマリージェスに、その洗礼はあまりに痛烈だった。

 せっかく義母が消えてくれたのに、今度はリーリアという小娘がウィラスティ家の仲間入りをする。ジェカルドの妻として、ウィラスティ家の血統を汚す。そんなこと、許せるはずがない。義母を想起させる名を持つ女に、愛しい息子を渡すことなどマリージェスにはできなかった。


 かつて自分がされたことの何十倍も苛烈な洗礼を、マリージェスはリーリア・ウィラスティに与えた。

 不満を訴えてものらりくらりとかわすだけだった夫や、どんな時でも口うるさい義母。当時の憎悪はより熟成されて蘇る。それはすべてリーリアにぶつけられた。


 リーリアにとっては、いまや自分こそがかつての自分にとってのリリアンヌ……否、それ以上の存在になっていたことに、マリージェスは気づけなかった。

 義母との仲が悪かったからこそ、自分は義娘に親切にしたい。そんな誓いを、マリージェスは自ら反故にした。


 だから今、その横暴の報いがマリージェスに降りかかる。


「あの時お義母かあ様がわたくしをしつこく責めなければ……! あの時お義母様がわたくしをいたわってくれていたら……! わたくしは、きっとあの子に優しくしてあげられたのに……!」


 それでもマリージェスが向ける後悔の先は、自分の所業ではなかった。責任を転嫁してすべての因果のはじまりを探す彼女の目には、犯した罪は見えても贖い方が見つからない。


 がちがちと歯を鳴らしながら過去に思いを馳せるマリージェスだったが、やっとその目が現実を捉えた。部屋の外から聞こえてくる、優しい歌声のおかげだ。


 子守唄のように聞こえる。歌声はだんだん大きくなってきた。どうやら声の主は近づいてきているらしい。


(ジェカルドが幼いころ、わたくしも乳母達の傍でああやって……)


 幸福な追想に浸りながら、マリージェスはうっとりとその歌声に聞き惚れる。そのまま彼女は導かれるように立ち上がり、部屋のドアを開けた。


 そこに立っていたのは、黒い死装束ドレスの女だった。

 女の喉がいびつにうごめき、歌う声が一気に濁る。もはや歌とも呼べないその雑音は、鎮魂歌にもならなかった。

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