21:00
「……アドニスさん、今度は何をなさってらっしゃるんですか?」
「あはは……。壁から何か物音が聞こえた気がして……」
廊下をさまよい歩いていたリーリアが見つけたのは、壁に耳をつけながら指の関節でこつこつと壁を叩いていたアドニスだった。彼はいたずらが見つかってしまった子供のような顔でリーリアに向き直る。
「ネズミでもいるのかしら」
アドニスの真似をすることにしたのは、ちょっとした出来心だ。この司祭は何か隠している気がする。馬脚を露わすまで、付き合ってあげよう。そう思ってのことだった。
「今はもう何も聞こえないようです。聞き間違いだったのかな」
アドニスはふっと微笑んだ。澄んだその眼差しを直視できず、リーリアはつんとそっぽを向く。
「もう侯爵閣下はおやすみになられたようですが、リーリアさんはまだ起きていて平気なんですか?」
「……ええ、まあ」
「それなら、僕と少しお話ししません?」
「で、でも、貴方はお疲れなんじゃ?」
リーリアは緊張しながらアドニスをうかがう。アドニスは照れたように目を細める。
「何かいい口実が思いつけばよかったんですけど……実は、貴方のことをもっと教えてほしいだけなんです。だめですか?」
そんな風に可愛らしくねだられたって、普段のリーリアなら応じるわけがない──はずなのに。
「す、少しだけなら、いいですよ」
「やった!」
勝手に出た言葉に、リーリアははっとなって口を押える。けれど時はすでに遅く、無邪気に喜ぶアドニスを前にして改めて拒絶の返事は選べなかった。
(だ、だけど、この人は司祭様なんだし……。聖職者の方が相手なら、たとえ二人きりで会ったとしても不貞にはならないわよね?)
そこまで考えて、はたと気づいた。一体誰に対して操を立てるというのだろう。リーリアは自嘲じみた笑みをこぼし、アドニスを居間に案内した。
「それで、その時父がこう言ったんです。『刺繍を覚えるならまず国章からだ、国章が繍えなきゃ話にならん!』って。それがどれだけ難しいかも知らないで!」
「あははっ! 自分にはできないことだろうと、他人に言いつけておけば簡単にできてしまえると思う人はいますからねぇ。お父上がリーリアさんのことを、それだけ優秀に思っていたというのもあるでしょうが」
アドニスは不思議なほどに話しやすく、リーリア自身ですら驚くほど会話が弾んだ。日頃から信者とよく対話しているからなのだろうか。大して話題の引き出しも持たないリーリアから、彼は巧みに言葉を引き出すことができるのだ。
「ふふ、わたしからしたらいい迷惑ですけどね。でも、おかげで腕は上達しましたよ。それにわたし、元々シャクヤクが好きなので。国章の練習だと言えば、小物にシャクヤクの刺繍をしても何も言われなかったんです」
「ああ、なるほど。シャクヤクの花の意匠は、国章に使われていますからね」
(何か実際に作品を見せられればよかったんだけど。もう何もかも、置いてきてしまったのよね)
……どこに、だっけ。
リーリアは内心いぶかしむが、その答えは思い出せなかった。
「おっと、もうこんな時間だ。名残惜しいですが、明日に障るといけません。お部屋までお送りしますよ」
「お気遣いありがとうございます。ですがお送りいただかなくても結構ですよ、ここはわたしの家ですから」
さすがにアドニスを屋根裏部屋に案内するわけにはいかない。彼ともう少し話していたいという渇望を必死で飲み込み、リーリアは微笑んだ。
「そうですか? ……それではおやすみなさい、リーリアさん。また明日」
リーリアは壁掛け時計を見る。もう二十二時を回っていた。思ったより話し込んでしまったらしい。
(不思議。アドニスさんと話していると、心が軽くなるみたいだわ。……もしもわたしがいつもこんな風に陽気に振る舞えていたら、何か変わっていたかしら)
陰鬱な性格をしているという自覚はあった。こんな重くてじめじめした女より、華美で高貴なシャロルティナが選ばれるのも当然だ。まだ婚約者だったころ、そしてまだ義父が生きていたころ、少しでもジェカルドに気に入られようと笑顔の練習やら話題作りやらに励んでいたのがすっかり遠いことのように思える。そんな無意味な努力に時間を割いていたなんて、我ながらいじらしいことだ。
(あのころは、自分なりにお洒落も礼儀作法も頑張ってみたんだっけ。ジェカルド様がわたしを見てくれるようになったのは、もう全部諦めてからだけど)
そうだ。もう、なにもかもが遅かった。ジェカルドがリーリアに気づくのも、リーリアがアドニスに出逢うのも。
アドニスとの会話は、久しぶりにリーリアに人間らしい温かみをもたらしてくれた。誰からも与えられなかった安らぎを、彼はリーリアに教えてくれたのだ。
けれど、今となっては無意味なことだった。この胸にもう一度火を灯してくれた彼に焦がれたって、手が届くことはないのだから。
(アドニスさんのことは諦めなさい、リーリア。分不相応な想いは自分を不幸にすると、よく知っているでしょう? それすら忘れてしまったのなら、もう一度鏡を見ることね)
自分にそう言い聞かせながら、リーリアはふらふらと立ち上がった。けれど足が思うように前に進まず、床の上を這ってしまう。
リーリアとジェカルドの離縁は成立していない。聖職者たるアドニスが、既婚者のリーリアを愛してくれることもきっとないだろう。
(だって──こんな醜い怪物を愛してくれる人なんて、どこにだっていないんだから)
*
「ひゃあっ!」
「お、驚きすぎよ、キャミィ。ただの影じゃない」
「だってぇ……」
蝋燭の炎に揺れる影に身をすくませ、キャミィはこわごわと辺りを見渡した。
夜になって廊下の壁掛け燭台の火を消しながら手入れをしていくのもメイド達の仕事の一つだ。キャミィは同僚のクルエと一緒に回っているが、プライスティ・ホールはあまりに広い。他の場所は別のメイド達が担当しているだろう。
「ほら、早く終わらせてあたし達ももう寝ましょ。明日も早いんだから」
「はーい。あーあ、めんどくさぁい」
クルエが押さえた脚立に昇り、キャミィは壁の燭台の火を吹き消す。光源は少し離れたところに点々と掛けられた燭台と、クルエが下から照らしてくれるランプしかないので薄暗い。それでもなんとかキャミィは受け皿に溜まった蝋を取り除き、銀の燭台から埃を拭きとっていく。
「ねーねークルエ、今日いらした司祭様、すっごく美形だったよねぇ。あたし、狙っちゃおうかなぁ」
「聖職者なんてやめときなさいよ。どうせ結婚できないのに」
「だからいいんじゃん。後腐れないし」
「あのねぇ。万が一にでもどっちかが本気になったら大変でしょ? それにあの司祭様、なーんかヘンなのよねぇ。まるでこの屋敷を嗅ぎ回って……」
クルエはそこで言葉を切った。キャミィは燭台を見つめたまま、続きを促そうとする。
「わぁぁ!?」
「ちょっ、クルエ、うるさいんだけど!?」
急に響いたクルエの悲鳴に驚いて、キャミィは危うくバランスを崩しそうになる。実際、クルエが身体をぶつけて脚立が揺れたので、危ないところだった。
抗議の意味を含めてキャミィはクルエを見下ろす。しかしクルエはキャミィのことなど見向きもせず、ただ一点を凝視していた。
「あ、あれ、あれって」
「え……」
クルエのランプが照らす先。まだキャミィ達が明かりを消していない廊下。這いつくばる影があった。
纏う死装束は漆黒で、振り乱した髪は不吉なほど赤い。
血に染まった白目。だらりと垂れた舌。
闇の中でらんらんと輝く、飛び出た眼。
人ならざるものが、そこにいた。
かくかくとぎこちなく手足を動かし、ソレはゆっくりとキャミィ達のもとに這い寄ってくる。二人の悲鳴が重なった。
脚立を突き飛ばすように逃げたクルエの後を、キャミィは必死になって追いかける。ちらりと後ろを確認すれば、ソレもまたキャミィ達の後をつけるように這いまわっていた。
キャミィもクルエも全速力で走っているのに、一向に引き離せない。それどころか、ケタケタと愉悦に満ちた笑い声まで聞こえてくる。仄かな光に照らされて揺らぐ影がとても大きく見えた。
逃げても逃げても周りの景色は変わらない。まっすぐ伸びる廊下は延々と続く。終わりはなかった。
「なんであたし達があいつに狙われなきゃいけないの!?」
「知らないわよそんなの!」
涙と鼻水で顔を汚すキャミィに、クルエは食ってかかるように叫ぶ。
知らない。
知らない。
本当に、そうだっけ?
並走しながら二人は顔を見合わせた。
己の罪に気づいて心が折れる。足が止まるのに、そう時間はかからない。
「あ……あたしが悪かった、あたしが悪かったからぁ……! お願いだから、殺さないで……」
「ごめんなさい、ごめんなさい! どうか許して……許してください……」
二人は意を決して振り返り、必死の謝罪を繰り返した。
「あ、あれ……? いなくなってる……」
だが、暗い廊下をランプで照らしてみても、あの恐ろしい怪物の姿はない。
「あ、あたし達、助かったのかな?」
「は、はは……。許してもらえた、かも……」
安堵の息が漏れ、二人はへなへなとその場に崩れ落ちる。浮かべる笑みは乾き、涙と粗相が止まらない。
けれど今はそんなことより、あの女から逃げおおせたことのほうが──
突然キャミィの顔に何かがかかる。視界が赤く染まった。鉄臭くて生ぬるい。
「キャ……キャミィ……」
隣のクルエが、泣きそうな声でキャミィを呼ぶ。錆びついたブリキ人形のようなぎこちなさで、キャミィはクルエのほうを見た。
クルエの手癖の悪さは、メイドの間ではちょっとばかり有名だった。銀食器をちょろまかしたり、大奥様の宝飾品をちょっとだけ拝借したり。その分手先が器用で仕事が早いので、よほどの物でない限り女中頭のスーザや執事のダンブルに感づかれても見逃されていた。許されるぎりぎりのラインを見極める抜け目のなさも、クルエの要領のよさを表していたといえるだろう。
そんな彼女の手が、今はもうどこにもない。
クルエの両腕は、壊れた噴水のように鮮血を噴き上げている。キャミィに浴びせられたのはそれだった。
「やだっ……! やだ、やだぁぁぁぁぁ!」
キャミィの悲痛な叫び声が響き渡る。見苦しくも立ち上がろうとした瞬間、キャミィの世界が反転した。後ろから髪を引っ張られて倒れ込んでしまったのだ。
「掃除、手伝ってあげる」
キャミィの耳元で、何者かがしゃがれ声で囁く。かすれて潰れたその声を聞き、キャミィは絶望を浮かべた。
髪を強く掴まれたまま床に頭を叩きつけられたキャミィは、辺りを縦横無尽に引きずり回される。まるで、廊下を汚したクルエの血を拭き上げさせられているかのように。
「やめてよぉっ……! 掃除、したくないっ……! てっ、手伝わなくていいからぁ!」
キャミィはでたらめにわめきながらもがくが、助けはなかった。クルエは座り込んだまま事切れていたし、仮に息があったとしてもキャミィを引き戻すための手がないのだからどうしようもない。
キャミィの身体がひとりでに宙に浮く。雑巾を絞るかのように、その細い肢体がねじれていく。
壮絶な悲鳴とともにぼきぼきと骨の折れる音が響き、びちゃびちゃと血が滴る。雑に床へと落とされて、また全身を使って拭き掃除。底意地の悪いメイドはただの赤黒い塊に変わり果てるまでその拷問を何度も何度も繰り返されたが、廊下はちっとも綺麗になっていなかった。




