愛さなかった夫
†
居間から楽しげな談笑が聞こえる。
そこにリーリアの居場所はない。
居間のドアに身を寄せ、耳をそばだてる。
張りのある声は、夫であるジェカルドのもの。軽やかな笑い声は、彼の愛人のシャロルティナのもの。それからメイドのキャミィと近侍のピート、義母のマリージェスまでいるようだ。
「このように素敵なネックレスをわたくしがもらってもよろしいの? 奥様に悪いでしょう?」
「あれのことは気にするな。このダイヤの輝きは、シャル、君にこそふさわしい」
「……ッ」
きゅ、と。
リーリアはお古のドレスのスカートを強く握り締め、胸の痛みをこらえながら足早にその場を去った。
*
(わたしは本当に、救いようのない馬鹿ね)
屋根裏部屋がリーリアの自室だ。寒々しくて何もない薄汚れた部屋だが、嵌め殺しの窓からの眺めがいいことだけは気に入っていた。
貴族は自領の中でもとりわけ自然豊かな緑に囲まれた郊外に広大な邸宅を構える。ウィラスティ家もその例に漏れない。ウィラスティ家が古くから所有する屋敷、プライスティ・ホールは村から離れた高い丘の上に建っていた。
おかげでのどかな村の様子がよく見える。まだ二月になったばかりということで外の景色はわびしいが、いずれ草木が芽吹いて春の訪れを告げてくれるだろう。
「ちょっと、何をたそがれてるんだい? あんたに仕事だよ! 食べさせてもらってる分、きっちり働きな」
「……ごめんなさい」
不機嫌そうな中年女性の声が背中にぶつけられた。ノックもなく入ってきたその女性は、女中頭のスーザだ。
ジェカルドが赤子のころから勤めているのが自慢の彼女は、その自負からか誰に対しても態度が大きい。体格もそれに比例しているかのようだった。床板が可哀想なほどにきしむので、リーリアは内心で眉をひそめる。床が抜けてしまっても、自分で直せるとは思えない。修理してくれる人に心当たりだってなかった。毎月支給されている、あの微々たる生活費だけで大工を雇う金を捻出できるだろうか?
「客室の掃除をしておいで。これからお客様がいらっしゃるんだから。小物を壊しでもしたら承知しないからね!」
「はい、すぐに……」
急き立てられ、リーリアは唇を噛みながらも従った。
ウィラスティ家には十分な数の使用人がいる。ウィラスティ家の現当主、ラゼルバン侯爵ジェカルド・ウィラスティの妻たるリーリアが家事をこなすいわれはない。
それでも雑用を言いつけられるのは、リーリアが女主人として認められていないからだ。ウィラスティ家の主たる人々に軽んじられる平民のリーリアは、使用人からもぞんざいに扱われていた。
リーリアとジェカルドが結婚して、もうじき一年が経とうとしている。
二人が結婚したのは聖歴一七六六年、冬の厳しさがしぶとく残る二月十二日。リーリアが十六歳、ジェカルドが十八歳の時のことだった。
陸軍将校だったジェカルドの父、前ラゼルバン侯爵オーニッド・ウィラスティは、戦場でとある一人の軍人に命を助けられたという。
侯爵はそのことにいたく感銘を受け、戦地から帰還してすぐ恩人を探し出して謝礼をすることにした。その軍人こそがゴルドン・ガルベル軍曹、すなわちリーリアの父だ。
王家への忠誠心にあふれる侯爵と、平民ながらも熱心な王室支持者だった軍曹は、ことのほか馬が合ったらしかった。
まるで長年の親友かのようにすっかり打ち解けた彼らは、互いに年の近い男女の子供がいると聞いてすぐさまひとつの約束を取り付けた。軍曹の長女リーリアが結婚可能年齢に達し次第、侯爵の嫡男ジェカルドと結婚させる、と。
オーニッドにしてみれば、庶民の娘リーリアと侯爵子息ジェカルドという身分違いの婚姻を結ばせることで、平民に対する歩み寄りを示したかったのもあるだろう。
元々、身分の撤廃の気運が高まっていた時期だった。平民の中から学と志のある者が出始めて、王侯貴族や聖職者といった特権階級達による長年の搾取の現状に不満をあらわにし、疲弊していた平民もそれに続いたのだ。庶民にも権利をと息巻くインテリやブルジョアに、政治闘争で敗れて日陰に追いやられていた貴族までもが手を貸した。
自由党と名乗ったその勢力が生み出すさざ波が大きなうねりになって国全体を飲み込む前に手綱を取りたいというのが、市民革命を危惧した一部の貴族……融和党の見解だった。オーニッドもその中の一人だ。
だが、近い将来起こりえる時代の変化を予期できる貴族ばかりではない。生粋の保守的な上位貴族達は、たかが平民に何ができると侮っていた。そんな保守党の貴族にとって、融和党はただの心配性の小心者の集まりだった。
自由党と保守党、その間に立たされた融和党は、国のバランスを一心に担う羽目になった。階級制度の完全なる廃止ではなく、あくまでも緩和。その形こそが、どちらの勢力の顔もなんとか立てられる最大の譲歩だ。
国王の忠臣と名高いウィラスティ家が美談を理由に平民の血を取り込もうとしたことは、強引に世論を誘導する平民議員や活動家達へのいい牽制になった。融和党の狙い通り、この思いがけないシンデレラストーリーに自由党の改革主義者達はひとまず溜飲を下げたのだ。
保守党としても、情に篤いオーニッド・ウィラスティらしい理由の縁談だし、ウィラスティ家ほどの名家の当主が決めたのならと一応納得することはできた。その貴賎結婚を理解して受け入れられるかは、また別の話だったが。
内向的でおとなしいリーリアを、オーニッドは貞節な淑女そのものだと褒めそやした。野暮ったいながらも清楚で、すれてもいないリーリアは、古い人間の好感を得やすかった。
「リーリア」という名前が、オーニッドの亡母の名である「リリアンヌ」を思わせたのも、彼に気に入られた一因だったかもしれない。
リーリアの名前は、史実において偉大な名君として伝わるリリアンヌ女王からあやかったものだ。きっとオーニッドの母親の名も、同じ理由でつけられた名前なのだろう。もしかすると、名付け親は王室関連の人物なのかもしれない。大貴族の婦人ならともかく、平民の自分の名前が─何代も前のこととはいえ─国主だった女性の名を由来に持つなどおこがましいと思っていたが、やっとこの重すぎる名前が好きになれそうだった。
貴族と縁づけることで舞い上がったリーリアの父ゴルドンは、淑女教育の費用と称して親戚や隣近所に金をせびっていた。どうせ酒代に消えるからと普段は貸し渋る彼らも、将来のおこぼれに預かろうと競うように金を貸した。ウィラスティ家からも支度金は支給されていたが、それは元々あった借金の返済に充てられていた。
案の定、借りた金の大半は父の酒代として消えていった。愛する妻に先立たれ、過酷な戦場で心を病んだ男は酒にしか救いを求められなかったからだ。
それでも半分ぐらいは、リーリアのために使ってもらえた。ぴかぴかのコインは、ドレスとか本とか、リーリアがずっと憧れていたものに変わってくれた。リーリアの話を聞いて、ちゃんとそれを覚えていてくれる、酔っていない時の優しい父がリーリアは好きだった。
それから三年間、ガルベル家とウィラスティ家は家族ぐるみの付き合いをした。
といっても、手紙と金銭、それからプレゼントのやり取りが中心だ。社交期を迎え、ガルベル家が暮らしている都市にウィラスティ家が滞在することがあった時だけ、リーリアはこの誉れ高い一族の面々と直接会うことができた。
元々リーリアは、家事や内職の合間に教会の日曜学校に通っていた。勉強熱心だったので、基本的な読み書きや計算なら問題なくできた。
オーニッドのはからいで家庭教師を雇ってもらい、週に二回はマナーのレッスンもさせてもらえた。いつかウィラスティ家に嫁げる日を、リーリアは指折り数えて待っていた。
本が好きなリーリアのために、ジェカルドはよく詩集や小説を贈ってくれた。どれも素敵な内容で、贈り主のセンスの高さがよく表れていた。
それがジェカルドからの贈り物ではなく、ウィラスティ家の使用人やラゼルバン侯爵自身がジェカルドの名前で都合してくれていたものだったことを知ったのは、ウィラスティ家に嫁いでからだ。
リーリアは二つ年上の貴公子に淡い初恋を抱き、ジェカルドもリーリアを妹のように可愛がった。ジェカルドに可愛がってもらっていると、リーリアは思っていたと言ったほうが正しいのだろうが。
だってジェカルドからの手紙はすべて彼の近侍のピートの代筆で、プレゼントもオーニッドや執事が用意していたのだから。直接会えた時に婚約者が口にしていた優しい言葉のすべてが社交辞令だったなんて、夢見がちな少女には見抜けなかった。
どれだけオーニッドに気に入られて引き立てられていたとしても、ガルベル家の階級は変えられなかった。代々軍人の家系とはいえ、さしたる武功があるわけでもない。政治的判断以外の理由で、侯爵家に嫁げる奇跡など舞い込むわけがなかった。
平民への迎合を嫌がって、なおも平民の搾取を続けようとする特権階級の人間は、平民の顔色をうかがう融和党を馬鹿にしていた。ラゼルバン侯爵のことを臆病者だと陰ながら嘲っていたのは、ラゼルバン侯爵夫人マリージェスと嫡子ジェカルドも例外ではなかった。
荒っぽい飲んだくれの男やもめに育てられた内気な少女は、どれだけ磨かれようとも貴公子の眼鏡に適うことはなかった。亡き母に代わって幼いころから一身に担ってきた家事の手際など、彼にとってはむしろ減点対象だ。ジェカルドは早々にリーリアを「召使も同然の小娘」と決めつけ、一切の関心を寄せなかった。
リーリアにとって幸運だったのは、結婚するまでジェカルドの本性を知らずにいられたこと。おかげで甘い幻想に浸っていられた。
リーリアにとって不運だったのは、結婚してから奈落に突き落とされたこと。たとえどれほど悲惨な境遇でも、生きているうちの離婚は神が許さない。気づいた時にはすべてが遅かった。
たとえウィラスティ家の人間がリーリアのことを嫌っていても、ラゼルバン侯爵オーニッドと志を同じくする良識ある他の貴族達は、リーリアをウィラスティ家の妻として縛りつけておきたいのだ。リーリアがウィラスティ家の妻でいれば、融和党は平民の理解者面をしながら特権階級としての地位についていられる。
鼻高々でリーリアを送り出した父のもとに逃げ帰れば、どんな折檻を受けるかわからなかった。ガルベル家の末代までの恥になるし、侯爵オーニッドの名前にも泥を塗ることになるのだから。
父は、嫁いでいった娘はその家のしきたりに従うのが当然だと考えている。それに背くことを、彼はきっと許さないだろう。
平民と貴族の和解のための結婚なのに、花嫁がそこから逃げ出したとなれば、改革を望む活動家達はそれ見たことかと貴族の非道を叫ぶだろう。目論見を台無しにされた融和党の貴族に、贖罪を強く求めるに違いない。最悪の場合、それは多くの血を見ることになりかねなかった。
そうなれば、平民ごときが貴族を侮辱したと、保守党の貴族は怒りをあらわにするだろう。融和党の貴族も同様だ。その後に起きることについて、リーリアには一切の責任が取れない。そうである以上、誰だってリーリアを逃がすわけがなかったし、逃げるわけにもいかなかった。
現実を突きつけられたリーリアだが、それでも初めのうちは前を向けた。ジェカルドに心から尽くしていれば、たとえ望まれなかった花嫁でも、いつかは愛してもらえると。
それが誤りだと気づいたのは、義父であるラゼルバン侯爵が病気で亡くなってからだ。リーリア達が結婚して、わずか三か月後のことだった。
義父が亡くなる少し前から、ジェカルドは近所のカントリーハウスに引っ越してきた貴族の女性に夢中になっていた。伯爵令嬢のシャロルティナだ。
彼女は身体が弱く、閑静な土地で療養するために来たらしい。シャロルティナが引っ越してきた時点ですでにジェカルドは新婚だったが、彼が見つけた真実の愛に、出会いの順番など関係ないらしい。リーリアが焦がれた言葉も眼差しも、リーリアに向けられることはついぞなかった。
ジェカルドにとっては、シャロルティナこそが最愛の女性だ。彼女がいる以上、ジェカルドの心にはリーリアが入り込む余地などどこにもない。
リーリアは、元から夫に顧みられることのなかった妻だ。
唯一の庇護者だった義父を亡くしたことでリーリアへの風当たりは強くなり、名ばかりの女主人は下働きも同然の境遇に落とされていた。
今でもジェカルドや義母がリーリアをこの家に置いているのは、きっと世間体を守るために違いない。融和党の顔を立てた結果だ。実体のない妻として名前だけが留め置かれ、リーリア自身は名もない娘として追い出されたり殺されたりしないだけましなのだろう。
(それでも、やれることをやらないと。だってそうしなければ、わたしが生きている意味がないもの)
女中頭のスーザに命じられた掃除を終え、やっと一息つく。
これから来るという来客について、リーリアは何も聞かされていなかった。女主人らしい采配を振るうことは、リーリアには一切期待されていない。客人に挨拶するどころか、絶対に顔を見せるなと言われるだろう。
案の定、邪魔な野良犬を追い払うかのように屋根裏部屋に連れ戻されたリーリアは、ただじっと窓の外を眺めていた。
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