表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月が綺麗ですね(I love you)

作者: ソウ マチ

嬉野川のせせらぎが耳に心地良い。どこかで茶葉を炒っているのだろうか、(かぐわ)しい香りが漂ってくる。


「最近、書いてるのか?」

 僕は浴衣姿のマユミに声を掛けた。満月を眺めていた彼女はグラスの酒を一口呑むと、振り向いてニコリと笑った。

「小説のこと? なかなか時間がなくて」

 マユミは僕のグラスが空なのを見ると、(すず)の酒器を取り上げて酒を注いだ。

「ありがとう」

 一口呑むと艶やかな香りがゆっくりと花開いて、五臓六腑に染み渡る。


(さく)()の大学も決まったし、これから少しは時間ができるだろう?」

「仕事が忙しいのよ。この旅行だって、行けるかわからなかったくらい」

「磁器婚式の記念旅行なのに? 二十年目の節目じゃないか」

「ふふ。冗談よ。すごく楽しみにしてたんだから」

 酒と温泉の効能か、うっすら上気した顔のマユミは微笑む。 

「あなたこそ、ずっと創作から離れているでしょう? 昔は夜中に書いていたのに」

「愛する妻と娘のために働いているからね。気持ちの余裕がなくて」

「ありがとう。感謝しています」

「僕も感謝しているよ。僕の大事なマユミに乾杯」

「私の大事なあなたに乾杯」

 僕とマユミは、そっとグラスを合わせた。


「月が綺麗だ」

「ふふふ。またプロポーズしてくれるの?」

「プロポーズ? なんの話?」

「忘れたの? 夏目漱石が『I love you』を月が綺麗と訳したって教えてくれたじゃない」

「豆知識を披露しただけだ」

「その後に言ったことも忘れちゃった?」

「おぼえてないな」

「じゃあ、思い出して。私といると、いつでも月が綺麗に見えるって」

「そんなこと、言ったかなぁ?」

「ずいぶんロマンティックだったから、あなたと結婚したのよ」

「あれから二十年かぁ……」

「いかがでしたか?」

「長かったような、短かったような。(さく)()が生まれたのはついこの間だった気がするのに、春から大学生か」

「あなたと私の二人暮らしが始まりますね」

「何をしようか?」

「また旅行へ行きましょうよ」

「ここへ旅行に来てるのに、もう次の旅行の話かい?」

「だって楽しいんですもの。温泉に入って、美味しいお料理を頂いて、こうやってあなたとゆっくりして」

「明日は何をしようか?」

「さっきからお茶の良い香りがするでしょう? 美味しいお茶を探しに行きたいわ。それから素敵な湯呑みも」

「新婚旅行で嬉野へ来た時に、夫婦茶碗を買ったなぁ。そういえばあの茶碗、たまにしか食卓に出てこないけど、どうしてなんだ?」

「すごく嬉しい事があった時だけ出すって決めているの」

「そうだったのか。知らなかったよ」

「ふふふ」

 彼女の小さな笑い声と、川のせせらぎが重なる。酒の馥郁(ふくいく)とした香りを楽しみながら、時間がゆっくりと流れてゆく。こんなに贅沢な時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。

 

「さっき、あなたから小説を書いてるのかって聞かれた時ね、ちょうど次に書くお話のことを考えていたの」

「どんな話?」

「素敵なお話。あなたと私が出会って、可愛い娘が生まれて、三人で幸せに暮らして、娘が羽ばたいてゆくお話。それが第一章」

「第二章は?」

「あなたと私、二度目の新婚生活が始まるお話。一緒に楽しい思い出をたくさん作るの」

「今回の旅行も出てくるのかい?」

「もちろん! 二度目の新婚旅行ですもの」

「まだ書かれてないのに、もう愛読者が一人できたよ。早く書いてくれよ」

「ふふふ。おうちに帰ってからゆっくり書きます。お楽しみに♪」

「待ち遠しいなぁ」

「あなたも何か書きましょうよ」

「僕が?」

「そうよ。また昔みたいに、一緒に書きましょうよ」

「そうだなぁ」

「何をお書きになりますか?」

「そうだな…。僕の人生は、年を重ねるごとに月が綺麗になる話を書くよ」

「私の月も綺麗ですよ」


そして僕たちは、月が浮かぶグラスで乾杯した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] いつも思いますが、ソウさんは本当に語彙力が豊かですね! エッセイとはまた違った面白さをありがとうございます!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ