月が綺麗ですね(I love you)
嬉野川のせせらぎが耳に心地良い。どこかで茶葉を炒っているのだろうか、芳しい香りが漂ってくる。
「最近、書いてるのか?」
僕は浴衣姿のマユミに声を掛けた。満月を眺めていた彼女はグラスの酒を一口呑むと、振り向いてニコリと笑った。
「小説のこと? なかなか時間がなくて」
マユミは僕のグラスが空なのを見ると、錫の酒器を取り上げて酒を注いだ。
「ありがとう」
一口呑むと艶やかな香りがゆっくりと花開いて、五臓六腑に染み渡る。
「咲良の大学も決まったし、これから少しは時間ができるだろう?」
「仕事が忙しいのよ。この旅行だって、行けるかわからなかったくらい」
「磁器婚式の記念旅行なのに? 二十年目の節目じゃないか」
「ふふ。冗談よ。すごく楽しみにしてたんだから」
酒と温泉の効能か、うっすら上気した顔のマユミは微笑む。
「あなたこそ、ずっと創作から離れているでしょう? 昔は夜中に書いていたのに」
「愛する妻と娘のために働いているからね。気持ちの余裕がなくて」
「ありがとう。感謝しています」
「僕も感謝しているよ。僕の大事なマユミに乾杯」
「私の大事なあなたに乾杯」
僕とマユミは、そっとグラスを合わせた。
「月が綺麗だ」
「ふふふ。またプロポーズしてくれるの?」
「プロポーズ? なんの話?」
「忘れたの? 夏目漱石が『I love you』を月が綺麗と訳したって教えてくれたじゃない」
「豆知識を披露しただけだ」
「その後に言ったことも忘れちゃった?」
「おぼえてないな」
「じゃあ、思い出して。私といると、いつでも月が綺麗に見えるって」
「そんなこと、言ったかなぁ?」
「ずいぶんロマンティックだったから、あなたと結婚したのよ」
「あれから二十年かぁ……」
「いかがでしたか?」
「長かったような、短かったような。咲良が生まれたのはついこの間だった気がするのに、春から大学生か」
「あなたと私の二人暮らしが始まりますね」
「何をしようか?」
「また旅行へ行きましょうよ」
「ここへ旅行に来てるのに、もう次の旅行の話かい?」
「だって楽しいんですもの。温泉に入って、美味しいお料理を頂いて、こうやってあなたとゆっくりして」
「明日は何をしようか?」
「さっきからお茶の良い香りがするでしょう? 美味しいお茶を探しに行きたいわ。それから素敵な湯呑みも」
「新婚旅行で嬉野へ来た時に、夫婦茶碗を買ったなぁ。そういえばあの茶碗、たまにしか食卓に出てこないけど、どうしてなんだ?」
「すごく嬉しい事があった時だけ出すって決めているの」
「そうだったのか。知らなかったよ」
「ふふふ」
彼女の小さな笑い声と、川のせせらぎが重なる。酒の馥郁とした香りを楽しみながら、時間がゆっくりと流れてゆく。こんなに贅沢な時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。
「さっき、あなたから小説を書いてるのかって聞かれた時ね、ちょうど次に書くお話のことを考えていたの」
「どんな話?」
「素敵なお話。あなたと私が出会って、可愛い娘が生まれて、三人で幸せに暮らして、娘が羽ばたいてゆくお話。それが第一章」
「第二章は?」
「あなたと私、二度目の新婚生活が始まるお話。一緒に楽しい思い出をたくさん作るの」
「今回の旅行も出てくるのかい?」
「もちろん! 二度目の新婚旅行ですもの」
「まだ書かれてないのに、もう愛読者が一人できたよ。早く書いてくれよ」
「ふふふ。おうちに帰ってからゆっくり書きます。お楽しみに♪」
「待ち遠しいなぁ」
「あなたも何か書きましょうよ」
「僕が?」
「そうよ。また昔みたいに、一緒に書きましょうよ」
「そうだなぁ」
「何をお書きになりますか?」
「そうだな…。僕の人生は、年を重ねるごとに月が綺麗になる話を書くよ」
「私の月も綺麗ですよ」
そして僕たちは、月が浮かぶグラスで乾杯した。