98.恋人?
彼との日々を確かなものにするために、私のできることは一つだった。
「どうしたんだ? こんな時間に。アザエルと一緒に寝るんじゃないのか?」
「アザエルなら、寝かしつけてきた」
「そうか……」
私は、彼の部屋に押しかけていた。
物が少ないと思った。ビッシリと図や式の書かれたホワイトボードが壁に据えつけられているのが目について、他にあるのは机と椅子にベッドくらい。
あとは、アジサイだろうか……部屋の隅に飾ってある。よく見ると、造花のようだが、それが部屋の唯一の彩りで、嫌に目立った。
机の、紙が無造作に散らばっているその上に、彼は私が来る前、ついさっきまでいじっていたであろう端末を置く。
「ねぇ、アジサイ。好きな花?」
「あぁ、そんなようなものだ」
「そうなの?」
歯切れの悪い答えだった。部屋にこだわりのわざわざ飾っているのだから、そう思ったのだが、今ひとつわからない。
「それで、もう、こんな時間だ。なにか大切な用があるんじゃないか?」
なにか誤魔化されたようだった。
それでも、私がどうしてここにきたのかを思い出した。
「あのね。サリィのやりたいこと、見つかったの……。あなたに、それにアザエルに、二人の役に立ったり、二人が喜んでくれたり、幸せだと、サリィも幸せになれる……っ」
だからと、私は続けようとする。言いたいことはたくさんあった。一番大切なことを伝える前に、知ってほしいことはたくさんだった。
そんな息継ぎの合間に、彼は、独り言のように言葉を挟む。
「サリエル。お前はいいな」
「……?」
困惑する。わずかな羨望がまじった、そして諦めるような声色で、彼は言っていた。
「他人の幸せを自分の幸せと思える人間は、心が綺麗だ。本当に、素晴らしいと思うよ」
まるで自分は、そうではないとでも言いたいように私には聞こえる。
「あなたは、そうじゃないの? みんなを幸せにするって……」
「言っただろう? 帳尻合わせ……辻褄合わせだ。言うなれば、マイナスをゼロに戻すようなものなんだ。あるべき形になるだけだ。それを幸せに思えるような人間では、俺はないよ……」
「…………」
「あぁ、だから……そこでようやく、みんなと同じスタート地点に俺は立てるのかもしれない」
彼は言った。
そんな言葉に、私はしばらく圧倒されてしまっていた。彼はどこにいて、なにを見ているのか、私にはわからない。
「……っ」
「サ、サリエル……どうして泣いているんだ」
そうして、感じる。彼が背負っているものは、重い。
その傑出した才能の分、他人に背負えないものを代わりに背負っているのではないだろうか。まるで呪いのようだと思った。
思えば私は、ここに来てから、彼が休んでいる姿を一度も見たことがない。常になにかの作業をしていた。
娯楽なんて彼にはなく、眠る以外は、ずっとグリゴリの改良を続けている。
悔しくて、どうしてそんな感情が湧くかわからないけれど、だから、私は彼に抱きついて言う。
「サリィがアザエルのママでしょ? あなたがパパ」
「……あぁ、アザエルの親というのなら、俺たちはそうなるだろうな」
「あなたは、他人が幸せならサリィが幸せになれるって言ったけど、それは違う。アザエルも、あなたも……私にとっては家族だから……。家族はサリィの一部で……っ、だから、そう! あなた達が幸せならっ、サリィは幸せで……っ」
どうして私が泣いているのか、ようやくわかった。
彼が、きっと心の中では苦しんでいるからだろう。理屈では、私にはわからないけれど、それが私にまで伝わって来ているからだ。
「サリエル……なにをするつもりだ?」
「仲の良い夫婦がすること」
あぁ、元から私はそのつもりでここに来たんだ。
夫婦がどういうことをするか、知識はあった。
私は、彼ともっと仲良くなりたかった。彼の息抜きにもなるだろう。私たちが仲良くなれば、アザエルも嬉しい。そうすれば、私ももっと幸せになれる。
ただ、そんなのは上っ面で、誰よりも彼と親しくありたいと、そういう衝動が私にはある。
「サリエル。そういうのは無理だ。俺には、今、そうだな……あぁ……恋人、の、ような相手がいるんだ……」
気まずげに彼は言った。まるではっきりとしない。
「ようなもの……?」
「あ、あぁ。そうだな……」
彼は、机の上にある倒れた写真立てを、直した。
旅行先だろう、昔の戦争で科学の発展により進化した兵器の被害に遭って、戒めとして遺された建物が背景には写っている。彼と、女性が、二人並んでいる写真だった。
「綺麗な人……」
彼と一緒に写っている女性は、そう表現する他にない女性だった。
おそらくはアンドロイドだが、ここまで美を極めたような造形も珍しかった。
「あぁ、そうだろう? 俺にはもったいないくらいで……それで別れて……、あぁ、一度は別れたんだけど、最近はまた会うようになって……月に一度」
「サリィの方が一緒にいる」
「いや、まぁ、昔は一緒に住んでたんだ……。それに、今も会うたびに、あぁ、そういうこともしてる……」
「…………」
私は悲しい気持ちになる。裏切られたような気持ちだった。
「だから、駄目だ。すまない……」
私はもう、走り出していた。




