6.『雷霆』の天使
熱力学という分野がある。
熱力学第一法則――たとえ姿は異なれど、失われたわけではない。
熱力学第二法則――二度と元には戻らない。
熱力学第零法則――同じものを掴んだ手は、温もりが違わない。
熱力学第三法則――熱が奪われれば、そこから変わることがない。
この四つの法則に支配された熱力学。
熱力学の法則は経験則だ。証明をするには、この世界に存在可能な物体を、遍く調べなくてはならない。途方もないことだ。
そして、このリアクターは、既存の経験則には当てはまらなかった。
動力源は核分裂でも核融合でもない。もっと効率の良いものだ。
――『円環型リアクター』。
「終わりと始まりは同じということらしい」
内部で宇宙終息時の混沌を無理やり作り出すことにより、宇宙の始まりのエネルギーを生み出すリアクターだった。
このリアクターの内部で起こる現象には、熱力学の法則すべてが役に立たない。
カードを差し込む。
機械が動作し、『円環型リアクター』が排出される。この『円環型リアクター』は決して大掛かりなものでない。掌にも満たない直径の球体だった。
こんな小さなものが核以上のエネルギーを作り出し、尽きることのないエネルギー源となるのだ。あるいは理を乱し、一つの宇宙を生み出す事さえ可能。人類の欲した叡智であり、永遠とさえなれる。まさしくそれは――
「手に入れたのね……?」
「あぁ……」
レネを伴って、白い光を帯びた少女が舞い降りる。悠然とした佇まいで、余裕のある顔をしている。それでもその目は、俺のもつ『円環型リアクター』に釘付けだ。
「渡して……! 渡しなさい!」
「あ……あぁ」
アニメでもそうだったが、喜色を浮かべて飛び付かんばかりの勢いだった。ニンジンをぶら下げられた馬のようだ。場違いながらにそう思う。
俺が『円環型リアクター』を差し出したその時だった――。
「――高エネルギー反応……!?」
光が世界を支配する。目の眩む光だった。
眼球が焼かれたように痛い。一時的にか視力が失われてしまう。なにが起こったのか、まるでわからなかった。
「レネ……!? 大丈夫か! レネ!」
「ラル兄! 無事なの! ラル兄!」
状況がわからない中、声で互いの無事を確認し合う。
レネが無事で本当によかった。よかった。
「全く……これは人の身には過ぎたるものです。大いなる『主』の御名において、この場にいる者たちは罰さなければなりませんね……」
声がする。落ち着いた女性の声。その声は、俺の愛する家族の声でも、あのポンコツな少女の声でもなかった。
視力が戻る。目に写ったのは、輝かんばかりに威厳を放つ金髪の女だ。
初々しさを持った年端のいかない少女のようにも、人生の盛りの瑞々しい乙女のようにも、あるいは落ち着き妖艶な魅力を持った婦人にも思えるもの。
貞節に……肌の露出を抑えた身に纏う白い布は、法衣のようにもドレスのようにも見える。どこか憂いを帯びたその表情は、こよなく愛する人を失った、未亡人を連想させた。
おおよそ女性の持てる輝きと危うさを全て持った、神に愛されたとも思える造形のそれ。
「――ラミエル」
人ならざるものであり、この人間の地を司り、天上より天使の名を与えられた機械の一体。正式名称は『自律式単電磁形成兵器』。
だが人々の間で、通ずる名はそれとは別――。
「まあ……嬉しい! 名前を覚えてくださっていたのですねっ!」
――『雷霆』の天使。
そう人は呼ぶ。
「そうか……」
本来ならば、ここで邂逅する相手ではなかった。俺が本来するはずではなかった行動をしたから、何かがズレたのか。
なんにせよ、最悪だった。
主人公たちが仲間を集めて、犠牲を払い、ようやく勝てた相手だったからだ。
もちろん、首都防衛の『サリエル』よりはいくぶんかましだろう。
おそらく白い光を操る少女が死を代償に全力を出せば一方的に倒せるはずだ。けれども、そんなことをしてしまえば、残されるのは俺とレネ。少女のツテを頼れなければ、後がないのが実情だった。
今、ここにいる三人でどうにかできる状況ではない。
そういえば――。
「そういえば、私の攻撃を防いだ方が見当たりませんね……? どこに行ったのでしょう?」
俺の隣の床には、抉れたような痕があった。少なくとも、さっきまで、この『雷霆』の天使からの一撃を受けるまで、これほど酷い状態にはなっていなかったはずだ
攻撃はおそらく光だった。
この天使が操るのは電磁気。さらには当然のように電磁波さえ操ってしまう。そして電磁波というのは光だ。
光というのは空間を進む上で、決して曲がらない。直進するのみ。
直進する光を逸らせる方法があるとすれば、それは何か。簡単な話だ。空間を歪めればいい。
推測するに、今ここにいない彼女はその光を逸らしたに違いない。彼女が『天使の白翼』を使い、空間を歪めた。光がその歪んだ空間の上を進み、曲げられた。それにより俺たちは、光に直撃されず、ことなきを得たのだろう。
では、なぜその『白翼』で光を逸らした少女はここにいないのか。
光は、歪められた空間を通りはしたが、直進しただけ。決して何にも影響を与えることなく真っ直ぐと進んだ、ただそれだけ。
だからこそ空間を歪めた彼女は、あの光を防いだ代償もなく、今ここに居てもおかしくはないはず――いいや、それでは辻褄が合わない。
何かを変えるには、自分もまた変わらなければならない――運動の第三法則だ。
ある有名な物理学者が解明したという話だが、光というのは波でも粒子でもある。つまり光は運動量を持つ。
運動量保存の法則に従えば、光が曲げられたとき、光を曲げた本人に、運動量の変化がなければ辻褄が合わない。
曲がった光は振動数を減衰させ、エネルギーを失って、辻褄合わせを曲げた相手に迫っていく。
かなりの光量だったのだろう。
結果として白い光を操る少女は、光の持つ運動量により、床を抉りながら吹き飛ばされて行ってしまった。
「く……っ!」
状況が悪すぎる。
この場には俺たちの最大戦力はいない。この『雷霆』とは相手にもならない。
投降するしか他にないか。
けれども、ここは本来、人のいるべきところなどではない。
光の攻撃のどさくさに紛れ、俺の取り落としたそれは、今は『雷霆』の天使の手の中にあった。
……『円環型リアクター』。理外とも言える機構、掌ほどのサイズであり、まるで果実のような大きさの、永遠を与えるそれはこう呼ばれる――生命の実と。
禁忌を犯した人間は、果たして生きて返されるだろうか。