40.おかえり、ただいま
「そうだ。一つ言っておきたいことがあるんだけど。これを伝えないと、死んでも死にきれないから……。この人、借りるよ?」
「え……っ!?」
マリアが、俺の腕を掴んだ。
マリアは、ほとんど消えかけだった。それなのに、急なことで、よくわからなかった。抵抗をする間もなく、マリアに部屋へと連れ込まれて、少し乱暴にドアが閉じられる。
マリアの部屋には、たくさんの写真が飾ってあった。
産まれてから、学校への入学に、なにかで表彰をされたときの写真、卒業、さらには就職だろうか、あとは結婚……まだまだある。
人の人生の始まりから終わりまで、その飾られた写真の数々にある種の壮観ささえ覚えてしまう。
「どうして、そんな曖昧な態度なの?」
「なんの話だ……?」
詰め寄られて、唐突に切り出された話は、俺には理解し難いものだった。
「あの子に親切にされてるでしょ。ここ、そんなにいい部屋じゃないから、会話けっこう聞こえてるし……」
「あー……、そうなのか」
気にも留めなかったが、そう指摘されれば気まずい。
特に聞かれてまずい会話をしていたような記憶はないが、それでも、二人だけと思って喋ったことが、誰かに聞かれているというのは、恥ずかしいものがある。
「はぁ、とにかく……絶対にあの子は、あなたのこと好きだから。曖昧にぼかしているから、わかりづらいと思うけど、そうなの。あなたのことをずっと、待っていた」
「…………」
「どうして、そんなふうにとぼけているの?」
マリアの言っていることは正しいだろう。
そう考えれば、彼女の不可解な行動も、かなりうまく説明ができる。
彼女は、きっと、ここに来る前の俺のことを知っているのだ。
知っていて、言わないのは、彼女のことを思い出せない俺が自分を責めないため。ずっと受けている胡散臭いような印象は、そうやって、俺のために俺をうまく騙そうとしているからだろう。
「ただ、それは違う。俺のような人間が、あいつに好かれる理由なんてない。記憶がなくても……それはわかる」
彼女は、とても優しい。
ことあるごとに、俺は彼女に気をつかわれていた。後でおねだりをすると彼女は言っているが、そんなことをしたことは今までなく、する素振りさえない。
本当に、俺のことをよくわかっているから、気負わせないために、そう言っていたのだろう。
こうして数日過ごしただけでも、自分のダメさ加減ばかりが目についてしまう。こんな俺を好きになるわけがない。
「ただ、一緒にいるだけで好きになったじゃダメかな? 大切なのは、理由じゃなくて……好きっていう事実でしょ?」
「……っ」
彼女の気持ちを聞いてみたわけではない。
だからこそ、全ては俺の推論でしかないのだ。観測をしてみるまではわからない。何事もそうだ。
「大丈夫。あの子はあなたをずっと待っていた。私と同じだから、わかる。うん。言いたいことはちゃんと言ったから、それじゃあね」
そうして、マリアはドアを開けた。
彼女の子どものエリザベスが、そのドアの向こうにいる。
親が子どもを家に迎え入れるようにして、マリアはエリザベスを抱き上げた。
二人は笑っている。とても幸せそうに笑い合っていた。
「た、ただいま……。やっと……お母さんのところに……」
「おかえり、やっと……あなたを……」
光が満たす。
目の眩むような光だった。その光景は、きっと太陽よりも眩しかっただろう。それでも俺は、強く目に焼き付けた。そうでなければならなかった。
もう、いない。
彼女たちは、もう、もともといなかったかのように消えてしまった。もう、いない。
ふと、振り返る。
写真だ。マリアの家に飾ってあった、その写真は残っている。
「あぁ……」
エリザベス、彼女だけが映っているだけの写真かと思っていたが、それは違う。よく見れば、死んでしまった母親も写り込んでしまっているようにも見えて、なんとなく、暖かい気持ちになった。
「行っちゃったね……」
「そうだな……」
「寂しいかい?」
「いや……」
二人とも、満足していなくなった。これはきっと、素晴らしいことなのだから、寂しいなんて思いはしない。
「そうか……そうだね」
それを聞いて、彼女は納得したように呟く。
きっと、このやりとりで、俺の胸の内を察してしまったのだろう。




