39.母と娘
あの老女と出会った場所へと戻ったが、誰もいなかった。
ただ、近くの壁には無造作に、俺がここを離れたときにはなかったはずの紙が貼ってある。
――日が沈む前に、帰ろうと思う。ご高齢の方だから、歩くのにも時間がかかるだろうし、多分、追いかけても間に合うかな。どちらの結果にしろ、キミが気に病む必要はないから……大丈夫さ。
その紙を綺麗に剥がして服のポケットにしまい込んだ。
悔しい。本当に悔しい。
自分の力の足りなさもそうだが、こんなふうに彼女に気をつかわれてしまっていることが、なによりも悔しかった。
やっぱり俺は、無力で、ロクな人間などではなかったのだろう。
とにかく……彼女たちを追いかける。
道を歩いて、だいぶん経ったところ……ちょうど俺たちの住む家に着く手前ほどで、彼女たちの姿を見つけることができた。
「ん、あぁ、来たみたいだね。張り紙は読んだかい?」
「あぁ……」
「そうかい。じゃあ、ボクは、この人を案内しようと思う……でも、狭い部屋だから、どうしようかなって思ってね」
「…………」
俺が来たときは、広い部屋と言っていた記憶がある。
まぁ、あとから一人で住むにはと、前提を後から付け足していたか。彼女の中では、矛盾していないのかもしれない。
「宿なら自分で探しますから……こんなふうに見ず知らずの私によくしてくださって……」
老女は、申し訳なさそうに恐縮をしながら言った。
ここまで、誰も俺の母親探しの結果を聞いていない。いや、誰も連れてきていないのだから、あえて聞かずともわかることだろう。
なんとなく、気をつかわれているようで居心地が悪い。
「ふふ、別になんてことないさ。これはボクらのわがままだからね。わがままついでに、マリアに頼もうか。一日一人泊めてもらおうってね……!」
「え……?」
彼女は、俺たちの部屋ではなく、隣の部屋の扉の前に立って、扉を無造作に叩く。
「おーい、マリアー。起きているかい? ボクだよ、ボク。少し用事があるんだ」
「…………」
部屋の中からは、物音がする。
慌てるような足音が聞こえて、次の瞬間には、バンと扉が勢いよく開かれる。
「おっと……」
「うわーん……。うぅ……ダメだった……私、ダメだったよ……ぅ」
部屋から飛び出した少女は、その慣性のままに部屋を訪ねた彼女へと抱きつく。運動量保存に従い、少女を抱き止めた彼女は後ろへと倒れそうになるが、すんでのところで踏ん張っていた。
いつも、休むことなく端末を見つめていた少女だったと思うが、なにも手には持っていない。
「あぁ、マリア。大丈夫さ。大丈夫だよ」
優しく抱きしめて、少女を撫でていた。まるで、なにが起きたのかは俺にはわからなかったが、彼女には特に驚いた様子はない。
「……え……っ」
声を発したのは、俺の隣で同じく彼女たちを見ていた老女だった。
唖然とした表情で、二人を……いや、マリアを見ているようだった。
たしかにあの少女の行動には、俺も驚いた。けれども、彼女のその声は、俺のそれとは明らかに違う。
その漏らした声に釣られて、抱き合っていた二人は、老女の方へと顔を向けていた。
「え……そんな……」
マリアが声を溢した後には、わずかな間の沈黙が流れる。
本当に、僅かな間、だったと思う。けれども、重力で時間の流れが引き伸ばされしまったような、そんな、相対的に長く感じてしまうような沈黙だった。
「……っ……」
「っ……!」
走り出したのは同時だった。
老女と、少女の二人は、同時に、引きつけ合う磁石のように走り出した。
「あぁ、エリザベス……! 私の可愛いエリザベス!!」
「……お母さん……。私のお母さん……! そうだった……あなたの名前はマリアだった……!」
「ごめんなさい。ダメな母親でごめんなさい……っ! あなたを産んですぐに死んでしまって……」
「いいえ、わかっている。ずっとわかっていた。私のことを見守ってくれていたのでしょう……? ありがとう。産んでくれて、ありがとう……。ずっと、今まで見守ってくれていて……。ずっと、会いたかった」
「私もそう……っ。エリザベス……私のエリザベス……」
「お母さん……。マリアお母さん……」
名前を呼び合い、涙ながらに抱き合っている。
百を超えた老人が、十の半ばとも思える少女を母親と呼ぶ。見る人が見れば、奇妙に思えるこの光景を、俺は綺麗だと思った。
「ボクはマリアから事情を聞いていたからね。まさかとは思ったけど……ふふ、これは天文学的な確率かな」
「いや、彼女たちの間には、引力が働いていたんだ。きっと必然さ」
その引力に名前を付けるとしたなら、それは愛以外にない。
ことの顛末は単純だった。
マリアが死んだ理由は早齢出産。彼女自身、あまり裕福でない家庭に生まれであったため、進んだ医療の恩恵をうまく受けられなかった。
なんとか、子どもだけは無事に産まれてきたものの、マリア自身は死んでしまったのだ。
彼女が、携帯端末を見つめていたのは、自分の子どもを……エリザベスを見守っていたから。端末は、現世と繋がるための方法で、ここ数日は、特に危篤状態だったから、忙しくて目が離せなかったという。
枕元に立って、まだこちらにくる時ではない、というようなことを、ずっとやっていたらしい。
あぁ、マリアは、今まで見守ってきた。死んでから、ずっと、百にもわたる長い年月を見守っていたのだ。自らの子どもをずっと。
それは、とても、愛に溢れる年月の積み重ねだろう。
それにしても、マリアのような少女が、百を超えた老女の母親だとは思わなかった。いや、よく考えればわかる話だ。それなのに、俺は思い込みだけで動いて、マリアに声をかけなかった。
「ふふ、まぁ、今回はキミが先走ったからね。もう少し、ボクに頼ってくれたらよかった。ここでのことなら、ボクの方が詳しいわけだしね」
とは、彼女の弁だ。
今回に関して言えば、完全に俺の空回りだった。俺がいなくとも、今回の件は、うまくいっただろう。
とても、迷惑なことをしてしまったのかもしれない。




