38.未練
「やぁ、大丈夫かい?」
優しい声色で、彼女は尋ねかける。
俺が初めてここにきた時を思い出したが、少し調子が違うように思えてしまう。
「ここは……? 天国……?」
「ここは、死後の世界さ。天国か地獄かはわからないけど……まぁ、生前の記憶があるなら話は早いか」
ちらりと、彼女は俺のことを見ていた。
未だに俺は、本当にここが死後の世界かどうか、疑わしく思っているが、そんな俺と見比べたのだろう。
「そうですか……」
歳をとった女性だった。
髪は真っ白に染まっている。皮膚はたるみ、顔には苦労の痕が、深い皺がいくつも刻まれていた。
声はしわがれているが、落ち着いている。表情はとても穏やかで、見ている人を和ませるように感じられた。
おおよそ人生を十分に、満足に生きたと思えるような女性だった。
「ここに来たってことは、なにか未練があるということなんだ……。ここは生前の未練を叶える場所だからね」
俺のときにも言っていたが、彼女は、こうして人がこの街にきたとき、いつもこんなふうに言っているのかもしれない。
「未練ですか……? 私は、百まで……もう十分に生きましたから……未練なんてとても……」
「でも、この街じゃ、そういう心残りがないと消えてしまうからね。なんでも思いつくことはないかい?」
まるまる一世紀……たしかに普通の人間なら、そのくらい生きれば十分だろう。
医療技術や、機械技術の発展で、人間の寿命は伸びる一方だったが、それでも百まで生きれば長生きの部類だった。
「だったら、一つ……もし、ここが死後の世界なら、……母が、先に来ているはず……。会えるのなら、私の母に一目でいいから会いたくて……」
「……それは難しいかもしれないね。この街は、お店とかの数に比べて、人は極端に少ないから……アナタの母親がこの街にいる可能性は小さいだろう。それに、先に未練を果たしていなくなっている可能性もあるし……」
「そう……ですか……」
老女は落胆する。
会える可能性が少ないという、彼女の話は理に適っている。反論の余地がないとわかる。
「え……?」
そうすれば、老女の身体から、存在感がなくなっていく。透き通るように、今にも消えて行こうとする。
「たまにあるんだ。きっと、それほどの未練ではなかったのだろうね。一言、二言話すだけで消えてしまうみたいな。きっと、諦めがついて、心が一区切りついたからだろうね」
どうやら、本当に消えてしまうようだった。
今の会話で、きっと満足できたのだろう。だからこそ、思い残しがなくなって、こんなふうに消えていける。
それは、素晴らしいことだから――
「――いや、ちょっと待てよ……!! こんなの絶対おかしいだろ! ここは未練を果たすための場所なんだろ!」
明らかに、未練は果たされていないだろう。
それなのに、こんなふうに消えてしまうのは、あんまりだ。こんなことなどあってはならない。
「いえ、いいんです。……私はもう、満足に生きました……。これ以上望むことなんて……」
「探してくる。俺、探してくるから……。名前を教えてくれ……その人の名前を……」
「……名前は……」
老女は少し考えるように、空を仰いだ。
言葉に詰まっているように思える。とっさに思い出せなかったのか、俺も記憶が抜け落ちてしまっているから、似たような状況なのかもしれない。
「なんでもいい! なんでもいいから手がかりが欲しい。俺が探してくるから……っ! 今日一日だけでもいい」
「エリザベスが来ていると伝えてください。母がつけてくれた名前ですから……」
「なら、ボクも手伝うけど……」
「わかった。じゃあ未練が残るように続きが気になる話でもしておいてくれ。最後まで聞かないと死んでも死にきれないような、とびきりのやつな」
「相変わらず、無茶を言うね。わかったけど、少し、落ち着いてみたら――」
走り出す。
彼女がどのくらい持たせられるかわからない以上、急ぐ他ない。
とにかく、手当たり次第に見かけた人に尋ねていくしかない。
人自体が、まばらにしかいない。一人探すにも、数分は間違いなく走らなければならない。
「すみません――!」
事情を説明して、心当たりがないかを尋ねる。
首を横に振られたから、お礼を言って、また次の人を探す。その繰り返しだった。
途中で、あの人ではないかとか、そういう話を聞いたりもしたが、全て空振りだった。
走り続け、身体にも疲労が溜まり、ペースはどんどんと落ちて行く。
刻一刻と時間は過ぎていって、もう日が暮れる。人はもうほとんどいなくなってしまう。
一度、戻った方がいい。
日が落ちて、完全に暗くなってしまえば道を歩くことが危なくなる。この街には好きこのんで他人嫌がらせをするような人間は基本的にいないようだったから、不審者はないだろうけれども、万一がある。それに単純に暗闇の道で、転んでしまう可能性もある。
見つけられなかったと、伝える他ない。
「……くそっ……!」
自分自身に悪態をつく。
なにか他にいい手がなかったかと、考えがぐるぐると頭を巡る。だが、俺ではこれが限界だった。俺でなかったのなら、見つけられたのかもしれない……。




