36.揺れる魂
「ふふ、じゃあ次だ」
エントロピーの減少についての論文の題名が書かれた扉だった。
「『フェイタル・レバーサー』……」
目の前には水槽が置かれている。腕を広げたほどの大きさの水槽だ。腰の高さくらいの台の上に乗せられて、目線あたりまで水が入っていた。
その水槽の前にはいくつかスイッチがある。
「このボタンを押すと、上からインクが落ちてくる」
「あぁ……」
ぽたぽたと、水槽の上から空気抵抗を受けながら落ちてきたインクは、水に混じるように広がって、薄まっていく。
「エントロピーが増大している。エントロピー自体は熱力学的な量だけれど、こういう熱なんか関係なさそうな混合とかでも、そのエントロピーは増大するんだ」
「有名なパラドクスだな」
このパラドクスは古典力学では説明がつかなかった。だが、量子力学の登場により、その不確定性から、同じ種類の粒子を区別しない不可弁別性が導入された結果、解決されている。
「ふふ……これは、老婆にイースターエッグの作り方を教えるようなものだったかな。とにかく、ボクはここで知って驚いたんだ」
水槽の中の水の色を、大きく変えてしまうほどにインクは混じっていた。
水に揺れて、広がるインクは――、
「――二度と元には戻らない」
「だからこその、この力さ」
静かにゆっくりと彼女はボタンを押す。
そうすれば、まるで逆再生のように、水槽の一点に広がっていた色が集まり、水面を跳ね、水槽の上のインクの容器に戻っていく。
「あぁ、でも、これは出来損ないだ。たったこれだけの現象に、馬鹿げたほどのエネルギーを使う」
「けれども、神の力の一端でもあった。この、不可逆を可逆にする力に、ボクは惚れ込んだのさ」
なにが面白いのかわからないが、一連の現象を彼女は目を輝かせて見つめていた。
他にも、石を砕いた後に直したりだとか、その出来損ないの力を見せつけるような展示がいくつか並んでいた。
彼女はどれも、楽しそうに試していたが、俺は乗り気にはなれずに、ずっと横で眺めていた。
「さぁ、次に行こうか」
「あぁ……。……ん?」
彼女がドアを開けて、少し違和感があった。
電磁気の部屋からエントロピーの部屋まで移動するときは、ドア一枚だったが、今回はわずかながらにスペースがある。それでもトイレがあるというわけではないようだ。
一本道の通路だ。そこを歩いて、次の部屋までたどり着く。
「さっきのところもボクは好きだけど、ここはさらに……」
「ちょっと……、うぐ……っ、待ってくれ……」
頭が痛い。唐突にだ。
立っていられないほどだった。
胸元に違和感が生じ、吐き気もしてくる。
「大丈夫かい……!?」
彼女は、手をかけていた扉から離れて、俺に駆け寄り、躊躇わずに抱きしめてくれていた。優しく背中が摩られる。
どこか意識が遠くなっていくかのような感覚だった。
この世界ではない、どこかの次元の向こうに引き摺り込まれような、そんな不思議な感覚に襲われている。
苦しい。
苦しいが、治るまで待つしかない。いっそ、気を失ってしまえば楽だっただろうか。
「……、はぁ……」
時間がどのくらい経ったかはわからない。まだ違和感はあるが、今はだいぶん楽になった。
「……。無理をさせちゃったかな……」
小声で、俺を抱きしめたまま、優しく俺の背中を撫でて彼女は言った。
「無理はしてないはずだ。急に……急に苦しく……」
「言っただろう。もう死んでる。だからこそ、体の具合が悪くなるってことは、精神に原因があるのさ。無理をさせた以外にないわけだ。もう帰ろうか」
俺の精神状態が、悪くなったということが、よくわからない。
それまで異常がなにもなかったはずなのに、心の問題で、急にここまで具合が悪くなるものなのか。
そもそも、それほど精神に不可がかかるような出来事はなかったはずだ。
「…………」
「肩を貸すよ。今日は一日、看病かな?」
「すまない……」
迷惑はかけられないのに、俺にはどうにもできそうになかった。
また、彼女のあの家で、過ごさないとならない。




