23.全能の条件
「……っ、ここまでの風を突き抜けるのは危険ですか……。このままでは追いつかれる……。相手をするしかない」
俺の様子に目を配って、ラミエルは方向を変える。俺の存在が完全に足枷になっているのだとわかってしまう。
「ハハ……蝶の羽ばたきは竜巻を起こすと言うが……ワタシは片腕を振るだけで下降噴流を起こす……!」
「バタフライ・エフェクトはカオス理論……。あなたは専門外でしょう……!」
カオス理論――たとえ確率の関わらない力学系の内部で起こる事象だとしても、長期的で完全な未来の予測が不可能だと言う理論のことだ。
予測のためには方程式に当てはめるべく位置に、速度と言うような初期値を測定しなければならないが、無限に連なる小数点以下を全て表示し計算することは不可能だった。必ずどこかで切り下げか切り上げを行わなければならない。
だが、その切り捨ててしまった数字による影響が、時が立ち、いつか致命的なズレとなって現れる――というのが、このバタフライ・エフェクトの言わんとするところだった。
見落とした出来事が蝶の羽ばたきほどに些細でも、竜巻のような大きな事象さえ予測できない。もちろん蝶の羽ばたきがない状態では竜巻が起こっていないのだから、これは蝶の羽ばたきこそが竜巻を起こしたと言ってもいい。
ほんの少しの変化でも、全ての物事が大きく変わってしまうのが現実だ。
「だが、わずかなズレで全てを起こせるというならば、観測の終わったこの空間に……っ、この時に限り……っ、このワタシは全能だ……っ! なぜならば……どうズレれば何が起こるか、ワタシは全てを知っているのだから……! 全てを知れば全てが起こせる。このワタシの情報熱力学においては……全知であることは全能であることと同義……っ!」
遠目には宙に浮いたラファエルが見える。
背中から広がるのは大きな翅。翅脈のような透明な線がラファエルの背中から生え、空間に網を張る。
――『天使の翅翼』。
それはラファエルの行う中空の分子への干渉の結果として現れた空気の揺らぎだ。その翅は広がるとともに、世界へ溶けていくかのようにたゆたって消えていく。
「ですがあなたは全知ではない……。わたくしの『セレスティアル・スプリッター』は……っ、あなたには理解できないのですから!」
スパークが散る。
ラミエルがなにをしようとしているかはすぐにわかった。ラミエルの『セレスティアル・スプリッター』は、ラファエルの『フェイタル・レバーサー』では計算できない理外の機構だ。
だからこそ、『セレスティアル・スプリッター』の電磁気の作用に空間の分子を巻き込むことがこの場での最適解。原理不明な『セレスティアル・スプリッター』に影響された分子たちは、『フェイタル・レバーサー』の観測の結果からずれ、観測を起点とするラファエルの能力は瓦解するのだから。
「多少ずれようが、修正は効くさ! ワタシの『フェイタル・レバーサー』を舐めてくれるな!」
それは領域の奪い合いとも言っていい。
雷光の迸る空間と、暴風の荒れ狂う空間がせめぎ合った。
「だいたいわたくしは、この方と結婚しているんですよ? それをあなたは……!」
「ふん……ワタシたちは付き合っている……」
ラファエルはこちらから目を逸らす。
まるで俺には身に覚えのないことだった。
「それは昔のことでしょう……? 今は結婚して、わたくしの隣にいるのですが?」
「まだワタシは……っ、別れた……つもりはない……」
語気が弱く、今までのような威勢は感じられない。声が震えているのがわかる。
ラミエルを見れば、呆然とした表情で、その言葉を噛み締めているよう。
「み……未練がましい……!!」
それは、つい口をついた言葉のようだった。
「だ、だいたい……おまえもだ……。手酷い振られ方をしたじゃないか……っ! それなのに……っ、ワタシたちの周りをうろちょろうろちょろ……ぉ! 思えばワタシはあの頃からおまえのことが煩わしかった……っ!! 嫌いだった……!」
「ですが結婚の約束をしていました。この人の本当の夢を知っているのはわたくしだけです……。思いの丈を全てぶつけてくれた……心さえ許してくださった……。身体だけの関係だったあなたとは違うのですよ……?」
「お、オマエ……ぇええ! 許さない! 絶対に許さない! ワタシたちの関係を侮辱したな……ぁ! それに……っ、本当の夢……? あぁ……思い出しただけでも、腹が立ってきた……っ。なにが成り損ないだ……っ! なにが『円環型リアクター』だ……! ワタシのことを見下して……っ! 馬鹿にして……っ! あぁ、最悪だ……っ」
狂ったように取り乱すラファエルだった。だが、最悪と言いつつも、彼女の顔は喜色満面だった。気味が悪かった。




