2.『妹』
「帰ったね、カロちゃん」
「ああ」
「そうだ、お芋さん配られたんだよ? 食べるよね?」
「お前の分は……」
なにも答えずに彼女は行ってしまう。
喋れば聞こえる距離にいる。だが、決まって彼女はこういうときに、聞こえないふりをする。
彼女の名前はレネ。
姓のない、名だけの存在。俺と同じだ。
親はいない。生まれたときから愛を知らずに育てられた。俺と同じだ。
才能を見出されず、この掃き溜めに送られた存在でもある。これも俺と同じだった。
少し彼女の話をしよう。
労働者階級で産まれた子どもはすぐに親から離れさせられ、施設へと送り届けられる。
そこは、粗悪な環境で最低限のルールやマナーだけを教えられる、育てるだけ、いや、ただ勝手に育つだけの施設だった。
そこで俺たちを繋いだもの、それは他でもない。孤独だった。
ずっと、俺たちは、孤立していた存在だった。
きっかけがなんだったのかは覚えていない。けれど、それから、俺たちはいつも一緒にいた、と、思う。
才能さえあれば、才能さえあれば、こんな暮らしをする必要はなかった。けれど、残念なことに、彼女に特筆するような才能はない。運動能力もイマイチで、記憶力も悪い。
だが、それでも恵まれたものなら、彼女には一つだけある。
容姿だ。
誰よりも愛らしく、見つめる黒い瞳は大きく誰もの心を打つ。
手入れの行き届いていないはずなのに、艶やかな髪をしていて、触り心地がとてもいい。
羽織った一枚の薄いボロ切れから見え隠れする肢体はスラリと長いが、それでいて肉付きが良く、胸も平均より一回りかふた回りくらい大きい。
油断すれば欲情してしまう。
微笑みかければ、悪魔のような美しさを振りまいて、誰彼構わず魅了するだろう。
そんな魔性の魅力を持つレネは、俺の知る、アニメ『幻想戯曲デア・エクス・マキナ』の登場人物だった。
DVD一巻のジャケットにも飾られたヒロインであり、物語のキーキャラクター。
ただし、登場話数がたったの一話。
たったの一話だが、重要な役割を彼女は果たしたのだ。
端的に言えば、第一話、AパートとBパートの間で死ぬ。
彼女は主人公の幼馴染で、仕事の最中に、事故で死ぬ。
主人公の運命を決定付けたと言ってもいい出来事だっただろう。
そのせいで主人公はのちに現れたメインヒロインにそそのかされ、戦いに身を投じることになる。
まあ、そんな主人公のことはどうでもいい。
問題なのは彼女の方だ。
「はい、これ。んん、冷めちゃったよね……はー、はー」
そう言って、もう冷たくなった蒸かし芋を温めようと息を吹きかけている。その姿で、心が温まる。
少しして、やはり無理だと、惜しむように渡してくれた。
この家に調理器具なんて便利なものはない。電子レンジだってない。
かろうじて水道から水が出るくらい。一ヶ月に決まった量だ。一滴たりとも無駄にできない。
「お前は……食べないのか?」
「うんん。私は栄養剤で間に合ってるかなぁ」
栄養剤。
人体に必要な栄養素をバランスよく補給できる優れもので、階級関係なく不足せずに配給されている。
ただし、不味い。
せっかく取った栄養分も、すべて吐き出してしまうくらいに不味い。決して心の栄養を取れるようなものではない、ゲル状の液体だった。
「いや、ダメだろ。ほら、半分」
彼女が好き嫌いをしないことは、知っている。それを飲むときには、顔を歪めていることも、知っている。
長蛇の列に並ばないと、この芋はもらえない。そして、一人一個までだ。
「だめだよ。だって、私はラル兄のために……」
「わかってる。だから半分な」
「でも……」
「俺一人で食べても、全然おいしくないんだぞ?」
その言葉には偽りがない。一人で食べたなら、罪悪感に押し潰されそうになって、味なんてわからない。心の栄養には、やはりならない。
どうか、俺の気持ちをわかってほしい。
「じゃあ、本当に貰っちゃうよ?」
「ああ」
譲る気のない俺を見て、諦め半分に、俺の差し出す芋を受け取る。
こういうとき、諦めるのはいつも彼女だ。
悪いとは思う。自分の弱さが情けなくなる。
「…………」
「…………」
ジッと見つめ合う。
互いに微動だにしない。
とりとめのない沈黙が続く。
「食べないの?」
「いや、お前こそ……」
頑張って並んだレネこそ、先に食べる権利がある。
そう思ったが、互いに、相手こそが先に食べるべきだと譲れないのだろう。
そこらへんは、レネも察しがよく、すぐに妥協案も思いつく。
「それじゃあねぇ、せーので食べよう?」
「ああ、わかった」
「えへへ、じゃあね――」
「「――せーの」」
二人で芋に齧り付く。
そんな上等なものじゃない。甘みも少ない。皮はかたいし、筋張っていて食べにくい。
「美味しいね」
「ああ……」
けれど、美味しいことには違いなかった。
やはり、信じられないことだ。こんな日々が終わりに近づいていることなんて。
だが、ヒシヒシと予兆は感じる。どれだけ今、危うい状況の上にいるかは。
わかってはいるんだ。こんな日々、終わらせなくちゃいけないことを。
「あ、そろそろ時間なんだな……ぁ。準備しなきゃ」
そう言って、彼女は仕事に行く準備を始める。
その姿を見て、どうしようもなく、やるせない気持ちに襲われてしまう。
俺を迎えた後、この時間になると彼女は仕事に出かける。
朝方、俺の起きる前に帰って来て、俺を送り出した後に彼女は眠るのだ。
度々、身体に酷い痣をいくつも作ってくることもあった。
泣きついてくることもあった。
彼女がどうしてそんな仕打ちにあわなければいけないんだ。
「レネ……」
言わなければならないことがある。
問わなければならないことがある。
だから、呼び止めた。
「ふふ、大丈夫だよ! 私が本当に好きなのは、ラル兄だけだから」
「ああ……」
結局は言えないまま。
いつ終わるかもわからない日々。いつ終わってもおかしくない日々。彼女はそう言って、いつも俺に別れを告げる。
「じゃあ、行ってきます」
今日も彼女は行ってしまう。
見送りに外に出る。
後ろ姿を惨めに見つめる。
遣る瀬無さに、ふと、空を見上げた。
白い光が空を瞬き、天上の星がこぼれ落ちたかのように貧困街へと、一筋、流れた。
始まったのだ。