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ハルモノガタリ

作者: 士瀬芙蓉

これは【アニメイト耳聴き2】のために編集した『ハルモノガタリ』の始まりの部分です。


運営様以外の無断転載禁止しております。

 私は扇家一番目の子供としてもとして生まれ、ハルと名づけられた。

 父は一番目のこどもは男と望んでいた。だから私と知ったときは落胆したそうな。年子で生まれた長男には大きく投資し、私には何もない。無関心と表記するのが適切かもしれない。私は、暇な時間を見つけてはやっていた内職と近所の手伝いをしてお金を稼いでいた。

 根を詰めすぎた。いつの間にか私は頭が使い物にならないほど疲れ切ってしまった。

 誰に相談することもできずにいたある日。私は初めて母親に心の内を話してみた。

「ここを出てお行き。お前は扇の人間として生きてはいけない。ここでは女は人間としては生きられない。申し訳ないことをした。もっとお前と話して、すぐに相談できるようになるべきだった。お前は優しいから我慢させてしまった。いらんものを背負わせた。ここを出て人間におなり。自分のために遠くへお行きなさい」

 母との最後の会話。

 私は自分のお金で通っていた中等学校を退学し、貯めたお金で東ノ都へ出た。十三歳最後の日、私は駅で夜を明かした。


 お金はあるが、手持ちは少ないので、仕事を探す事にした。近所付き合いの薄い東ノ都で生き抜くためにもできるだけ身の安全が保障できる職場にしたい。

 少しこの地域は治安が悪いのか、西洋を真似た美しい建造物のごく一部に、雰囲気に合わない張り紙がいくつも張られていた。数枚は破かれ、その上に新しいものが張られている。

 使用人、求メル。東ノ都、古宿 奥番地一六三

 住み込みで食事付きの好条件じゃないか。

 今いる場所から古宿(ふるやど)は少し距離がある。掲示板にある地図には北の方角を指していた。さらに、張り紙にはもう一つ情報があり、「大キナ屋敷ガ目印」だそうで、着いて、見てすぐにわかった。西洋の階数のある立派なお屋敷は息を忘れてしまうほど衝撃的で美しいものだった。


 朝になり、使用人が塀の周辺の掃除をしに出てきた。使用人は私を見るなりおはようございますと上品に挨拶した。これが金持ちの使用人か。

 私は事情を話すと使用人は私を裏口から通し、使用人長の磯山さんに合わせてくれた。厳しい表情の女性だった。隣には藤という磯山さんと同じ使用人長が座っている。こちらの方は穏やかな表情だった。

 根は田舎者。田舎臭いと追い返されるだろうと覚悟していたが、思っていた以上に話は調子よく進み、採用されることが言い渡された。おめでとう私。

 磯山さんが屋敷内を案内していく。雇い主である旦那様の部屋、奥様の部屋、坊ちゃんの部屋、客室、中庭、厨房、食堂、大広間、ダンスホール、離れの和室、使用人の部屋、お庭。部屋数は無駄に多く、本邸以外にもまだ別荘があるらしい。遠回しに都心の政治家の経済力を自慢されているように感じた。


 三年も経てば仕事には慣れたもので、給料も少しずつ高くなり、懐は潤っていた。しかし、ほぼ休みなく働けば疲労は溜まるし休憩時間も過ぎるのは一瞬。採用されてから日を重ねる毎に一日が早くなっていった。

 ある日、お使いを頼まれ街へ出ていた。今年で四年目。相変わらず治安の悪さは折り紙付きで、少しでも裏路地に入れば浮浪者が建物の影で寝転んでいる。最近流行りだした紙煙草の吸殻が、あちこちで落ちていて、その他人が吸った屑を、貧乏人がほんの僅かな残りの煙草を吸ってやろうと掻き集めては、二本の指で煙草を持ち必死に吸っていた。貧富の差がある以上、こういった人がいることは仕方の無いことなのだろう。煙草を吸えばいずれあんな人間に落ちぶれてしまうのではないかと横目で観察していた。

 煙草は絶対に吸わないだろうと思っていたのに、日々の疲労で何を血迷ったのか私は煙草を買ってしまった。

 屋敷内で喫煙をしているのは旦那様だけ。しかもパイプで吸っているものだから、煙草の吸殻が屋敷内で落ちていようものなら磯山さんが血眼になって持ち主を探し回るだろう。それなら暇な時間、人通りも少ない場所でただ一人煙を吹かそうじゃないか。臭いが残らないようにできる限りの対策をして吸殻も回収し、これで絶対にバレないだろうと自慢げな顔をしていた。


 坊ちゃんにバレた。

 そう、いつものように暇な時間、人通りの少ない場所で煙草を吹かしていた。屋敷内でも一番人の来ない外階段の最上階の踊り場で、坊ちゃんは膝を折り曲げ小さくまとまって座っていた。私はそれに気づかず、流行りの大衆曲を歌いながら煙を吐いている姿を、坊ちゃんに晒してしまったのだ。

 非常に、非常にまずい。傍から見れば即刻クビのこの光景。

 煙草へ 私は職と寝所を失うかもしれません

 東ノ都に来て数日は外で寝ることに抵抗は無かったが、この暖かい環境に溺れてしまった以上、治安の悪い古宿に放り投げられるなど、覚悟も無しに生きていけるわけがない。いや、坊ちゃんは子供。上手く言いくるめれば無かったことにできるかも知れない。

 いや、待て。忘れていた。坊ちゃんは十四歳。私は十四歳になる一日前に東ノ都に一人でやって来たというのに。しかも、坊ちゃんは政治家の嫡男。頭が切れないわけがない。

 もし、クビを免れたとしても、何か良いように利用されるのではないか。十四歳の思春期男子が冷めた目でこちらを見つめてくる。私の人生最悪の試練、どう事を運ぶのが正解か。

「誰にも言いませんよ」

 坊ちゃんが薄い唇をすっと開け、私の心情を察したように言った。

 坊ちゃんの話す姿は実につまらない。本人も自身に興味がないようだった。

「誰だって人には言いたくない一つや二つあります」

「その言い方、坊ちゃんもあるんですね」

「そりゃありますよ」

 坊ちゃんは嘲るように笑った。

「それを溜めたままにしてるんですか」

「人に言いたくないって程では無いのですが、言うことでも無いかと」

「もし、悩んでいるなら、早く信頼出来る人に吐き出した方が身のためですよ」

「吐き出せるほど、信頼出来る人間に会ったことがありません」

「なるほど、坊ちゃんはお友達が居ないのですね」

「可哀想でしょう」

 坊ちゃんはおかしく笑った。なんとなく私もおかしく笑ってみた。

 私はあの日から煙草は控えようと決心した。


 控えられなかった。一週間我慢できた私を褒めてあげたい。

 また暇な時間、例の踊り場へ向かうと、坊ちゃんが小さくまとまって座っていた。

「やっと会えました」

 私をずっと待っていたようだった。坊ちゃんが私の隣に並ぶように立つ。おっと、珍しい。

「隣に来ないでください。見られたら磯山さんに殺されます」

「人に見られて困るようなことをしてたじゃないですか」

「怪しい言い方しないでください」

 これでは煙草も吸えない。いっその事、禁煙の相手として坊ちゃんを利用しようか。

 すると坊ちゃんは定位置に戻り、また小さくまとまって座った。

「僕の悩みを聞いてください」

「嫌です」

「僕は、」

「私嫌って言いましたよね」

「この屋敷の使用人でしょう。拒否なんてできるわけがないじゃないですか」

 可愛い顔をしながら、縦社会を最大限に利用してくる。さすがは政治家の息子。私はしぶしぶ話を聞いてやった。

「何か助言をした方がいいですか」

「いえ、ただの愚痴だと思ってください。吐き出したかっただけですので」

 私は煙草をやめた。


 坊ちゃんが教材を持って踊り場へ来るようになった。試験が近づいているらしい。

 私は中等学校を中退した身だ。でも学んでいた先の学問が少し気になってしまった。私は使用人らしく勉学に対して無知な女を演じつつ、坊ちゃんの教材を覗いた。

 すると、「興味があるんですか」と坊ちゃんは一つ一つ丁寧に教えてくれた。試験の範囲を全て理解しているのか、淡々と説明していく。坊ちゃんは容量が良いらしい。

 試験の結果が満足いったのか、一週間後に嬉しさを隠しきれない表情で階段に座っていた。この表情は初めて見たかもしれない。

 結果は古典以外全て満点だったらしい。その古典も一問だけ漢字を間違えたと言っていたから、実質満点ではないかと少し悔しそうだった。

 勉強をすることが楽しそうで。羨ましいと思ってしまった。私は日に日に学校へ行きたいと考えるようになった。

 東ノ都へ来て早四年、十八歳の女が、今から中等学校へ編入するなど無理な話。大学という手も考えた。でも富裕層がお金にものを言わせて通うのが大学。ただの使用人が貯金した給料で行ける場所でもなかった。世は皆に学問をと進めているはずだが、きっと聞き間違いだろう。


 坊ちゃんの通う学校は男子だけが在籍している。なのに、どこからか仕入れた情報屋が、他の男子生徒に最近の女子の流行を吹き込んでいるらしい。その流行というのが週間雑誌だった。掲載されている恋愛小説が面白いと、いかにもその年代の女子が好みそうな内容だと納得してしまった。

 坊ちゃんは近くに置いてあった鞄からその雑誌を取り出して、ペリペリと紙の音を立てながら頁を捲り、見開きの状態で私に見せてきた。

「十七歳の令嬢と、二十五歳の軍人が主軸の切ない恋愛(ロマンス)物語です。出会いは最悪、それでもだんだんお互いに惹かれ合うんですけど、幕末という激動の時代で彼らに衝撃の結末が、と言うのが世の乙女に刺さるみたいでして」

「ほう」

「興味無さそうですね」

「恋愛は切ないものでしょう」

 坊ちゃんから雑誌を受け取り、仕事が終わった夜、雑誌を捲って小説を読んでみた。

「月下杏夜」

 艶めかしい文章が気になり作家名を見た。酷く美しい名の音で、顔の良い男の周りに大勢の女が囲んでいる様子が浮かんでくる。

 作品名は『愛撫』。率直な言葉に、私はその場で吹き出してしまった。

『愛撫』は官能小説ながらも女性を立てた文章で、あとから知ったが、新人賞を受賞したと新聞に掲載されていた。

 しかし、このような物語が思春期の女子に好まれているのかと考えると、いささかこの国の性教育は大丈夫なのかと不安になってしまった。

 雑誌の後ろの頁の広告欄。そこに無償という文字が見えた。思わず内容を確認すると、大学の特別枠の募集のものだった。学力の基準を満たしていれば誰でも受験できるというもの。合格者は卒業まで無償で勉強をすることが出来ると記載されている。合格枠は三つ。狭き門だ。

 東ノ都へ来た当時であれば、何も関心は持たずにこの雑誌を坊ちゃんに返していたかもしれない。今、私はどうしても勉強したいと思うようになっていた。

 そこからの行動は早く、使用人の仕事をこなしながら、坊ちゃんから教科書を借りて勉強をした。分からないところがあれば別の紙に書き写し、教科書に挟んで坊ちゃんに返し、次に会った時に問題を写した紙に解説が載るという流れがいつの間にかできていた。それが半年ほど続き、大学へ基準を満たしているか確認のための書類審査が返ってきた。書類審査は合格。私はお屋敷を出ることを磯山さん伝えた。

「お世話になりました」

 磯山さんは優しく微笑み、背中を叩いて応援してくれた。とても素敵な職場だと強く思った。


 新たな住まいはお屋敷を出ていく前に目星をつけていた。古宿から東南へ車で四十分程、下原(したはら)にある暖かな住宅街を少し進めば、少し大きめな木造住宅が見えてくる。名はきれい荘。大家さんと話もついていて暖かく迎えてくれた。

 私は階段を上がって二つ目の部屋に住むことになった。布団と机、そして箪笥も既にあり、久しぶりの畳の匂いが鼻を抜けていく。

 生活も慣れ、試験日に向けて勉強に力を注ぐ毎日。他に目が向くことはなく、ご飯の時間になっても下に降りることがないせいか、痺れを切らして一階に住む黒鯛さんが大きな音で襖を開けることが何回もあった。それから大家さんが気を使い、襖の前までご飯を持ってきてくれた。私の気づいた頃には、味噌汁が必ず冷めていて、それでもおにぎりは冷めても美味しく、暖かく感じた。


 少し苦手と感じた問題があった。近代文学だ。試験には維新後から増えた物語文と論文が問題として必ず範囲になっている。読解力が乏しいのか全く本文から問いの答えを見つけられずにいた。

 小さな頃から読書をしてこなかったことが原因だろう。坊ちゃんから餞別にもらった雑誌と、その雑誌に載っていた月下杏夜の『愛撫』を買い、触れた紙の色が変わるまで読み漁った。

 私は参考書として読んでいたのに、夜食を持ってきてくれた大家さんに誤解をされた。冷静に考えれば、十代の女が官能小説を必死に読み漁っているのは、はたから見れば、そういう時期なのだろうと思っても仕方がない。翌日に大家さんは私を見るなり小さく震えながら笑うものだから、変な噂を黒鯛さんに植えつけられる前に、何度も説明した。

「大丈夫、私はちゃんと理解していますから」

「それが誤解だと言っているのです」

 これが二日続き、私は誤解を解くことを諦めた。


 季節も冬へと近づき、部屋に火鉢がやってきた。紺色無地、暖かい道具なのに色が冷たい。そんなことを考えながら炭の上にやかんを置き、大家さんから隠れて魚の切り身を火鉢で焼いて食べていた。

 しかし、そんなことをすると部屋が魚臭くなる。大家さんはそれが嫌で珍しく怒るのだ。でも、勉強をすると意外にも体力を使うものでお腹が空いてしまう。味も美味しいのでやめられなかった。

 だから魚を焼いた時は窓を開けて必死に換気をした。お屋敷の力仕事で培った腕力を最大限に活用して敷布団を仰ぎ、うちわで空気を入れ換える様はもう必死だった。それでも大家さんは眉間に皺を寄せて私を見ては、「魚」と一段と低い声で睨みを利かす。大家さんは鼻がよく、魚以外にも、頻度は減ったが、紙を燃やして遊んでいると、じっと機嫌の悪い猫のような目でこちらを睨むことが何回もあった。

 そんな生活態度を全く直さない私を大家さんは追い出すこともなく、受験の応援をしてくれた。おかげで苦手な問題も減り、受験当日を迎えることとなった。


 結果掲示の日、受験票を片手に一人大学へ向かった。周りは男だらけ。共学なのだが、女が受験したのは私だけだったようだった。

 手元の受験票に書いてある番号を掲示板の中から探す。どれだけ探しても私の番号は、見つからなかった。

「不合格、落ちました」

 短く大家さんらに結果を伝え、自室へ戻った。

 手応えはあった。あの日、時間内に余裕をもって全問題を解き終わり、見直しをして試験を終えた。問題用紙と答案用紙はその日に回収されるから、何が違うのかを改めて確認ができない。納得がいかなかった。

 せめて点数だけでも知りたいと思い翌日に大学まで行き問いかけてみると、答えられないと一点張りで何も教えてはくれなかった。

 仕事を辞めて、そのあとも大学へ行くために全ての時間を費やして勉強をしてきた。私の人生で初めての大きな決断を納得できないまま終わらせるのが許せず、何度も大学へ行き、不合格の理由を教えてほしいと頼み続けた。

 その回数を数えるのが億劫になった頃。その日も大学へ行き頼み込んでいたとき、年配の男が私に声をかけてきた。大学の教授で受験の責任者と言っていた。

「女だから落とした」

 一言いうと教授は足早に校内へ入って消えて行った。

 点数満たずの不合格と知れば、きっと私は泣くのだろうと思っていた。実際そんなことはなく、答えは単純明快で、たった一言で終わってしまうものだった。女だから、この他に答えがなかったということは、試験の点数は合格基準を上回っていたに違いない。私は女でなければ合格し、教授が消えて行ったあの校内に足を踏み入れられたのだ。

 たった一言で、私の人生初の大きな決断が終わった。なんとあっけないことか。心臓をぼとりと落したような気分だった。欲しかった答えが得られたのだから、泣く理由もできたはずなのに涙は出てこなかった。

 生きている実感がないまま一か月が経った。

 大家さんにお使いを頼まれ、外を歩くと、桜は満開で、一つ風が吹けば花弁が空を舞いそうだった。その下を、新しい学生服を身にまとった青年が初々しくも高揚した顔で街を歩いていた。

「なんで」

 不意に口から出た言葉は、私からやっと涙を引き出してくれた。一粒の涙が頬を伝うと、漏れだした感情は押し殺すことなどできず、遠くなる青年の後姿を見ながらその場に崩れ落ちた。春の暖かな日差しも賑やかな商店街の声も何もかもが、女である私を嘲笑っているように聞こえて仕方なかった。

 結局、大家さんに頼まれたお使いも何を買うのか忘れてしまい、手提げが空のまま、きれい荘に戻ってしまった。大家さんにお使いのことを謝り、部屋に戻ると、すぐ後ろに大家さんが付いてきていたようで、部屋に入るなり私を抱きしめ、頭をそっと撫でてくれた。

「あなたは、よう頑張りました」

 大家さんの胸で私は泣いた。

 泣き疲れ、次に起きたのは夕方の頃だった。泣き腫れた目元を濡れた布巾で冷やし、私はあることを思いついた。

 大学に石を投げてしまおう。

 それできっぱりとけじめをつけようと思ったのだ。してやられてばかりでは癪じゃないか。なにかやり返さなければこの気持ちが収まるとは思えなかったのだ。

 その日の夜。耳をすませば、住人の寝息が聞こえてくる。私は息を殺し、誰にも見つからないようきれい荘を出て大学へと足を進めた。

 手ごろな石を探しながら春の夜を楽しむ。道端には桜の花弁が積もっていた。満月だったら、この桜ももっと美しく見ることができただろう。春は短く、よく見ると桜の木にも若い新しい葉が芽吹いていた。今年の春ももうそろそろ見納めとなりそうだ。

 大学へ着くと、わざわざ人通りの少ない裏へ回り、低木の隙間を汚れながら抜けて敷地内へ入った。私を不合格にしたセンスも無い、廃れたこの大学の綺麗な姿をざっと見て、準備運動をしてから、一番偉そうな部屋めがけて思い切りに石をぶん投げた。石は想像していた以上に美しい放物線を描いて三階のガラスを砕いた。

「ストライク!」

 野球は詳しくはない。きれい荘の近くに住む少年たちが叫ぶなかに、あのような言葉があった気がする。

 近くの石を拾っては投げて、挙句の果てには漬物に使えそうな大きな石で一階の玄関をへこませてやった。一つだけで済ませようと思っていたが、思いのほか楽しくなってしまったのだ。恨めしい大学のガラスが割れる音は非常に爽快で、散らばる破片は、星の光が反射しているように見えてキラキラと輝いていた。

 さて、それほど楽しく大きな音を立てていれば、夜であっても人の目が向くというもの。きっちり制服を着た警察のような男が数人、私を指さして走ってきた。まずい。確実に逮捕される。盛り上がっていた体は一気に冷め、私は男達から全力で逃げだした。裏から出ようと試みたものの、すでに男が一人見張っていたので逃げながら他を探すことになってしまった。

 とはいえ、私はこの大学の敷地内がどこを回ればどこにつながっているのか全くわからない。男達は反対から回れなどと、お互いに指示し合って私を追いかけてくる。せめて大学から出なければと探し回るも、敷地を囲う塀は高く、隙間も無かった。

 ついに男たちに囲まれてしまった。私の後ろには塀と石碑と大きめな木しかなかった。お互い息が上がっている。

「もう、観念してくれ。私らも君も体力はもうないだろう」

「捕まりたくない。だから、逃げます」

 石碑を踏み台にして、太く枝分かれした木をつたい、高い塀を腕力で登って後ろを振り返ると、男たちは口を開けて固まっていた。

「ご苦労さんでございました」

 笑顔で言ってやった。私は塀を飛び降りて、追ってくるかもしれないと走ってきれい荘に向かった。

 やってやった。恨みが晴れたらしい。自然と腹の底から笑いがこぼれ出てきた。下品で、こんな声が自分から出るのかと思うほど、大きな笑い声が止まらなかった。桜の花弁と共に追い風が吹き、人生で一番輝いていると、この人生の主人公が私あると、自分の中のもう一人の自分が言っているような気がした。

 きれい荘に来て半年。桜の舞う美しい夜だった。


前書きにも記載しましたように、これは【アニメイト耳聴き2】のために編集した『ハルモノガタリ』の始まりの部分です。

『ハルモノガタリ』の約11,000字を頑張って編集して8,000字以内に収めました。

本来ならもっと細かいハルの心の声が入っています。これはイケそうだったら投稿しますね。


扇ハルは春野司という小説家になります。大学不合格は始まりにすぎません。

これからいろんな人に出会い、人生を進めていくハル。どうか見守っていただけると幸いです。


ここまで読んでくださった読者様。感謝いたします。


私は縦書き派です。

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