表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/44

学校(4)

「……おっと、っと」

 私は重力に従って壁から背を離すと、けんけんぱ式に前方へつんのめり洗面台に手を突いた。

 突いた両手からはヒンヤリとした硬い感触が伝わり、鼻から息を吸うとフローラル系の芳香剤の香りが鼻腔で知覚されるので、感覚器官の信号が問題なく伝わっていることが分かる。

 続いて、顔を上げながら正面の鏡を見る。

 右を向けば鏡の私は左を向き、左を向けば鏡の私は右を向いた。左右の感覚は明瞭で、視覚等にも異常が無いことを極めて簡単の手順によって確認する。

 すなわち、一葉銀から一葉杏子への憑依は憂いなく完了したということだった……とはいえ、この程度の曲芸は私にとって造作も無く、従って感動も無かった。

「…………」

 余韻もそこそこにカバンを肩に掛け、立て看板を元に戻しつつ廊下に降り立つ。

 まずは……というところで私は足を止め、静寂の廊下でカバンの中をガサゴソと漁り、ボールペンと遅刻届を取り出す。

 そして、近くの柱を下敷きにして遅刻届を完成させつつ……この遅刻届は入室時に先生に渡すのだろうから、先に仕上げておかなくては危なかった……と一安心する。

 記入事項は少なく、遅刻届の作成には一分も要さなかった。

 とはいえ、憑依の作業を挟んだことで既に三時間目は開始しているので、私は遅刻届等々をカバンに仕舞いつつ、早足になりながら教室に向かった。

 階段を上り、廊下を跨ぎながらI組H組G組…………D組C組と横切ると、B組のドアの前に立ち、一息もしない間にそのドアを横に滑らせる。

「……あれ」

 しかし、私の勢いはそこで中断されてしまった。

 すなわち、教室の中には誰も居なかったのである。……先生や生徒、それ以外も絶無の静寂を極めた室内が繰り広げられていた。

 私はその場から二歩ほど後退しつつ、ドアの上部に掲げられている教室札を見上げる。

[2年B組]という、ゴシック体の黒文字。

 見間違いではない……一葉杏子の教室は、間違いなくこの部屋のはずだった。

 私は教室に入り、ふと黒板の端に書かれている時間割表を確認してみる。

 一時間目から順に、現代文、数学、……そして、三時間目の授業は自習だった。自習の文字だけ黄色い字で書かれており、どうやら時間割変更によって自習の時間になったらしい。

 つまり、状況からすると2年B組の生徒は自習をするべく別の教室に移動しているのだろうが、その自習室の場所が不明だった。

 図書室か、視聴覚室か……という候補は挙げられるものの、それらの教室が別のクラスの自習に使われている可能性も有り、遅刻者が居るのだから場所ぐらい書いておかないのか……、と内心で毒づいた。

 そして、面倒に感じつつも自習室を自力で探すことにする。

 自習とはいえ監督の先生は居るだろうから、その先生に遅刻届を出さなければ再び面倒な事になってしまう……というのは、予想するまでも無く自明だった。

 そう思いつつ、消極的の気分のまま廊下に出て、後ろ手にドアを閉めた。

 と、その時。

 私が歩いて来た方向から、ペタペタと廊下を歩くスリッパの音が聞こえる。他にも遅刻者が居るのではという杏子の予想が、ここに来て的中したということだろうか。

 横目でチラリと様子を窺う。

 私と同じ、赤色のスリッパ……ということは、少なからず同級生ではあるのだろう。

 などと思っていると、足音の人物はピタリと歩みを止めて言った。

「……何その髪型」

 そこでようやく、私は顔を上げて目を合わせた。

 すると、堂々とスマホを片手に持ちつつ、もう片方の手はブレザーのポケットに仕舞って、肩にカバンを掛けた猫背の女子生徒がそこには居た。

「智だったんだ、おはよう」

 私は片手を挙げて挨拶をする。

 なるほど、だから一時間目の前に電話した時には居なかったのだな……という具合に納得していると、智は挨拶には返事をせず、スマホを持った手の人差し指で私を差しつつ言った。

「じゃなくて、何その髪型。後ろ髪はどこにやったの、どこかに落としてきた?」

 怪訝そのものの表情で、智は下から睨み付けて来る。

 しかし正直に理由を答える訳にもいかず、私は間に合わせの動機で誤魔化すことにした。

「ただのイメチェンだよ。似合う?」

「イメチェンの範疇を超えてるでしょ。昨日切ったの?」

「いや、さっきトイレで切ってきたんだよ。で、似合ってる?」

「……ああ、鏡あるもんね、トイレって」

 智は勝手に私の心から暗黒を見出してくれたのか、それ以上踏み入ってくることは無かった。

 それならば好都合と、今度は私が質問する側に回った。

「カバン持って歩いてるってことは、智も遅刻したの?」

「うん。寝坊だよ。昨日は随分疲れた」

 智は左目を人差し指で擦る。上瞼がトロンと下がっており、下瞼は隈に窪んでいた。

「森に夜景を撮りに行ったらいつの間にか日を跨いでてさ。急いで家に帰って寝たんだけど、思ってた以上に疲れてたみたいで寝坊した」

「へえ、智って写真の趣味あったんだ」

「撮ったのは写真じゃなくて動画。まぁ、録画に失敗したから結果的に録音だけになったけど」

「それは災難だったね。寝坊までしたのに」

「音だけでも聴く? 風は吹いてなかったから話し声以外はほぼ無音だけど」

 自嘲気味に智は笑い、私は「昼ご飯の時にBGMとして流そうか」と提案したが、「そんなの流されたら遊とネオも反応しづらいでしょ」という至極真っ当の意見で返されて閉口した。

 すると、智はスマホをブレザーのポケットに仕舞いつつ両手を突っ込み、話を切り替えた。

「それより、あんたはなんで遅刻したの? 今まで遅刻だけはしてこなかったのに」

「ああ……えっと、銀の看病してて」

「看病? じゃあ、銀は欠席なの?」

「…………」

 ここに来てようやく、その話題に食いつかれてしまった。

 私は早々に話を切り上げようとする。……あまり迂闊に喋り過ぎてボロが出てもいけない、と思ったので。

「ただの風邪だよ。それより智は教室に行かなくていいの? もう授業始まってるけど」

「授業してるから入れないんだよ。八十個の目玉が一斉にこっちを向くとか、ホラー以外の何物でもないでしょ」

 智は腕を組みながら嘆息交じりに言う。

「遅刻常習犯が何を今更だと思うけどね。二週間に一回は遅刻してなかったっけ」

「私は休み時間の間にしか教室に入ったことはないよ。今日は時間調整に失敗したけど」

「言われてみればそうだっけ。……でも、授業が終わるまで待つ訳にもいかないでしょ。三時間目は始まったばかりなんだし」

「そういうあんたは教室に入らなくて大丈夫なの?」

「勿論入るつもりだけど、肝心の教室の場所が分からないんだよね」

「教室の場所が分からない?」

「時間割変更で三時間目が自習になったんだけど、その場所が書き残されてなかったんだよ。公文先生もそういうところ抜けてるよね」

「それだ」

 と言いつつ、ブレザーのポケットから片手を出して人差し指を立てる。

 何を閃いたのだと思いつつ、完璧に欠席の話題からは遠ざけられたな……と満足していると、智は続けて言った。

「私はあんたの付き添いで、自習室を探しに行けばいいんだ。そしたら落ち度は自習室の場所を書かなかった先生にあるんだから、私は安心して授業をサボれる」

「今からサボるの? 三時間目に登校して来て」

 苦笑しつつ言うと、智は手をブレザーに突っ込みつつ堂々と言い放った。

「眠い目をこすりながら授業を受けても何の意味もない。だったらサボりながら駄弁ってた方がよっぽど良いし、あんただって自習とか別に受けたくないでしょ」

「…………」

 この時、私は彼女の誘惑を拒絶し切れなかった。

 すなわち、彼女に提案にはそれだけの魅力がある……自習が格段に嫌だということではなく、責任を先生に丸投げしたまま堂々とサボってしまう……という不良じみた行いは、高校生ならば誰もが一度は憧れる悪事の一環であり、それを今からするのだと考えると無性にワクワクしてきたのである。

「分かったよ。付き合ってあげる」

 そして気づいた頃には、私の口は殆ど自然のままに肯定の意を唱えていたのだった。

「よし。じゃ、さっそく校舎から出ようか」

 智は皮肉気味な微笑を口の端に浮かべつつ、クルリと転回して教室とは真逆に廊下を進んだ。私もその後に続き、彼女の横に並ぶ。

 しかし、数歩進んだところで私は至極当然の心配事を思い出したので、歩きながら前屈みになって智の耳元に囁いた。智自体が小さいのに猫背なので、体勢にかなりの無理を来しながら。

「これ、ずっと歩きっぱなしで大丈夫? 自習室を探してるフリをするなら、どこかの部屋には入らないといけないよね」

「もちろん五十分間歩き続けるつもりはないよ、これ以上疲れたくもないし。だから、気楽に休める場所で腰を落ち着けたいところだ」

「そんな場所ある? 授業中だし、どこの部屋も空いてないと思うけど」

「うん。ただ、授業中だからこそ誰も入ってこない部屋もある」

「授業中だからこそ?」

 智があまりにも堂々と話すものだから私も囁くのを止めて背を伸ばすと、彼女は「旧校舎」と言った。

「あそこは先生以外立ち入り禁止だけど、その先生は授業の最中で旧校舎に居ない。だから、今ならあそこで悠々自適に羽を伸ばせる」

 その説明を聞いて、私は頷きかける。

 貴志辺高校には私たちが廊下を歩いている新校舎の他に、旧校舎と呼ばれる施設がある。

 その用途は不明だが、なぜか校舎は取り壊されることなく保存されている。……ただ、生徒は原則立ち入り禁止の区域であり、中に入れるのは先生しか居ないのだが、その先生は授業中とのことだった。

 まさにお誂え向きのスポットだという、簡潔で明快なプレゼンテーション。

 しかし、そこまで単純な話だとはスンナリ思えなかった。

「先生しか入れないんだったら、結局私たちが行ったところで中には入れないんじゃないの? 授業時間中だけ開いてるわけでもないだろうし」

「開いてなければ入るのを諦めるほど、私は利口じゃないよ」

 すると、智はおもむろにカバンに片手を突っ込んで、先端のかなり細いプラスドライバーのようなものと、波打った形状のピンセットのようなものを取り出した。両方を合わせても片手の内に握られるサイズだった。

 見覚えのないそれらの道具を覗き込みつつ、私は尋ねる。

「それは?」

「ピックとテンション。主にピッキングに使われる工具だね」

「ピッキング」

「そう」

 へえ、と相槌を打ちながら、私は上の空の気分になる。

 ピッキング道具を携帯しているということは、智は日常的にピッキングをしながら生活しているのだろうか……基本的にピッキングとは、不法侵入等に派生する違法の行為のはずなのだが……などと思いつつ、若干の緊張をしながら彼女の横顔に視線を移す。

 しかし当の本人はといえば、実に飄々としていた。

「言っておくけど、盗みをしたことはないよ。ただ、私は入りたいと思った場所に入るだけ。それが今回はたまたま旧校舎だった、というだけのことだよ」

「盗みはしてない」

「してないね」

「何に誓ってそう言える?」

 智は首を傾げて逡巡の後、「神かな。神は信じてないから」と言った。



 それからの会話は、ごく他愛ないものに終始していた。

 というのも、智にいくらピッキングの前科があるのだとしても私は警察官ではない……友人として通報する責務があるのかも知れないが、通報しなかったところで私に刑罰が科されることもない……ただ、通報しないという前提で他人の前科を深掘りするのも妙な趣味だと思い、結局ノータッチの方向で処理したのである。

 そもそも、こういった智のグレーゾーン式の素行は、改めて考えると大して珍しくもない。

 遅刻の常習者というのもそうであり、授業中にスマートフォンを操作してみては、校内施設の鍵を勝手に複製もする。

 そういった悪行の数々を傍で見ながら、……あえて注意するようなことでもない。悪事には違いないが、どれも他者への迷惑を目的とはしていない……ということも傍で見続けていたので、遊もネオも努めて注意しようとはしないのだ。

 そして、本来であれば無視せざるべき案件からは完璧に背を向ける形で、雑談の域を出ないような他愛ない話を、廊下を行きながらし始めたのである。

「動画を撮るって結構珍しい趣味だよね。写真撮るとかだったら分かるけど、なんで動画を撮るの?」

「これは写真家の人と真っ向から意見が対立するところだと思うんだけど、私は……この風景を極限まで美しく撮ってやろう……みたいな哲学は持ってないんだよ。ただそこに存在する事象を映像に収めて、記憶し切れないことを記録するためにカメラを回してるっていうだけ。要するに、日記の延長線みたいな目的で動画を撮ってるんだよ」

「映像制作とかではなく、ホームビデオ撮るみたいな感覚ってこと?」

「その方が分かりやすいかな。だからまあ、他人に見せたところでね。被写体に見せるとかであれば別だけど」

「小学生の頃、お父さんとかが運動会の動画撮ってくれたけどさ。あれって自分で見返すのは恥ずかしいよね。写真じゃない分、必死になって顔が歪んでるとこまで見れちゃうから」

「自分の歪んだ顔は嫌い?」

「好きな人なんていないでしょ」

「年は取りたくないな」

「そうだね」

 などと取り留めもない会話をしつつ、階段を下りて一階の廊下に立つ。

 そのまま下駄箱でローファーに履き替えて、生徒用玄関を出ると体育館の横を通り抜ける。体育館から物音はしないが遠くから掛け声と笛の音が聞こえたので、この時間はグラウンドで体育が行われているのだな…………と。

 軽く肝を冷やしながら体育館をそそくさと切ると、その奥に建つ旧校舎がやっと姿を現した。

 木造で、外から見ただけでも歴史の深さが(うかが)い知れる外観。

 黒塗りにされた板張りの壁は風雨に曝されて部分的に白くなっており、玄関や窓枠には赤茶色の錆び。換気扇は特に錆が進行していて、元からそういう色なのではと疑う具合にビッシリと赤茶色の粒粒がこびりついていた。

 そして、私たちは正面玄関を無視してそのまま旧校舎の裏側に回る。

 片や校舎の壁、片や三メートルほどの高さの擁壁で挟まれた狭い道を行き、出しっ放しにされたバケツやデッキブラシ等を避けつつ裏口に到達する。

 すなわち、二段ほどの石段を上り、その先の壁に備え付けられた鈍色の金属製ドア。

 ……こちらの壁は錆びていないのだな。すぐ隣の森林で風雨が遮られていたりするのだろうか……などと考えていると、既に智の作業は隣で始まっていたのだが、その見事な手際。

 まず、石段を上ると同時にドアの前で跪き、肩からカバンを下ろして中から例のピッキング道具を二つ取り出す。そして片手で取り出したそれらを両手に持ち替えると同時に、躊躇なくそれらの先端を鍵穴に突っ込んでカチャカチャ言わせ始めたのである…………ピンセットでこじ開けた鍵穴の隙間にドライバーをねじ込む、というやり方に見えた。

「そんなに堂々とピッキングして大丈夫? 見つからない?」

 完全に出遅れた形で、智の丸めた背中に話しかける。

 すると、智は「新校舎からは死角になってるから大丈夫。用務員が通りかかるかも知れないけど、それも大丈夫でしょ。ここまで誰とも遭ってないんだし」と背中で答えた。飄々というよりは無謀な気さえしてくる言い草だが、成るように成るか…………と。

 半ば私も無謀の根性になっていたのだが、ある発想を閃いて言う。

「智って、落合君が行方不明になったこと知ってる?」

「知ってる。先生から聞いた、B組の男子が失踪したって」

「急に話変わるんだけど、落合君ってここで監禁されてたりしないのかな」

「なんで監禁されてるって思うの? 家出とかじゃなくて?」

 智はピッキングの手を止めることなく、後ろ姿で聞き返してくる。

「いや、なんとなくだけど、落合君の行方不明には何かしらの事件性があると思うんだよね。 昨日の夜って、いろいろ事件があったみたいだし」

「裏庭にもテープとか張られてたんだっけ? それで誘拐ね。でも、監禁場所はここじゃないと思うよ。人の出入りが激しい学校を監禁場所に選ぶのはリスキーだから。どうやって食糧とか運ぶんだって話になってくる」

「まあ、そうなるか。なら、智は落合君がどこで監禁されてると思う?」

「そんなに気になる? あんた別に落合と接点ないでしょ」

「落合君自体はね。だけど、行方不明ってなると話は別だよ。死亡事件かもしれないし」

 智はピッキングの手を止めて振り向いたが、すぐに作業を再開して「そういうもんかな」と言いつつ、再度カチャカチャと鳴らしながら続ける。

「まあ、落合の場合がどうかは知らないけど、私は病院が最も監禁場所に適した環境だと思ってるよ」

「病院って……それこそ人の出入りが激しいと思うけど。何でそう思うの?」

「条件はあるけどね。つまり、犯人が医者という場合だ」

「犯人が医者」

 頷きつつ、ピッキングの手は止めないままに続ける。

「まず、医者は何らかの方法で被害者を気絶させる。そしたら次は麻酔を打つか睡眠薬を嗅がせるかして、被害者の意識を気絶状態から昏睡状態にまで持っていく。すると今度は被害者を自分の病院に運んで手術をする。医者が病人に手術をするのは当たり前だからね。そして手術のドサクサに紛れて、被害者の声帯と両足のアキレス腱を切断する。これで喋れもしないし、動けもしない病人の完成というわけだ。そして、そのようにして出来上がった病人は病人なんだから、病院で永遠に監禁していても誰もそれを気にも留めないというカラクリだよ」

「…………」

 腕を抱えつつ絶句し、ややあって口を開いた。

「……とんでもないこと言うね。迂闊に病院とか行けなくなったんだけど」

 自分の身を案じて、という意味ではない。

 すなわち、当たり前のように病床で仰臥している人が、実は医師の手によって作り出された人為的な病人なのかも知れない……私たちはそれをそうと知らず、白昼の中で堂々と監禁されているその人を見過ごし続けて生きているのかも知れない……という知見を得ると同時に、妙に痛切な気分になってきたのだった。

 聞くに値しない、都市伝説の類かも知れない。

 ただ、智の声色には、都市伝説だろうと何だろうと聞く者に信じさせる魔力が有るのだった。

「そもそも病院なんて迂闊に行くような場所じゃない。それ以外に方法が無い時、やむを得ず訪れる場所なんだから」

 という教訓めいた言葉で締め括ると同時に、鍵穴からカチャリという小気味いい音が鳴る。

 犯人は満足そうに頷きつつ立ち上がると、丸いドアノブを掴んで回し、ドアを引きながら振り返りつつ「入ろうか」とだけ促して中に入ってしまった。

 私は左右に首を振り、誰も見ていないことを確認してから後に続く。ローファーは智が脱がなかったので、私も土足で侵入した。



 屋外に比べて室内に錆びは侵食していなかったが、代わりに板張りの床や壁、そして天井が部分的に腐食していることが分かる。

 木材からは本来の鮮やかさが失われ、隅の方は黒ずんでいる……というのが目で見える腐食の程度であり、一方で歩く度に軋む音がする床の音からも、聴覚的に腐食の形跡が明らかだった……新校舎が立った後でも何等かの用途のために残されているなら防腐剤が塗られているはずだとも思ったが、防腐剤程度で対策可能の腐食ではないのかも知れなかった。

「こっちだよ」

 呼ぶ声に反応して顔を上げると、智は階段を一段上ったところから私を呼び掛けていた。

「二階に行くの?」

「一階は物置だから、入ってもくつろげないし」

「よく知ってるね」

「初めての侵入であれだけ素早くピッキング出来ないでしょ。ほら、行こう」

 事も無げに答える智に促されるまま、私は彼女の横に並んで階段を上った。彼女は外観とは裏腹に、その実は行動派の性質である。

「ここでいいかな」

 二階に上がると、智は一番近くにあった教室のドアを滑らせてさっさと中に入ってしまった。そこが空き部屋であることはやはり調査済みなのだろう。

 続けて私も中に入り、まずはその全景を見渡してみる。

 ……想定していたよりも、よほど教室らしい空間…………。

 というのは、机や椅子などは撤去されているのだろうと思っていたのだが、それが違った。

 まず、机は四十脚ほど並んでいて欠けているような様子ではなく、教壇の上には教卓がある。それだけでは足らず、少し汚れた黒板の横には何も貼られていない穴だらけのコルクボードがあり、配置物とその座標だけを見れば殆ど新校舎の教室と遜色なかった。

 ただし、壁や床が部分的に腐食した木造であることや、曇り空を映している窓に木製の格子が施されていること、黒板が板の上に墨汁を塗っただけのような簡素なデザインであることやコルクボードに何等の紙片も掲示されていないことからも、やはりこの空間は旧校舎の一環なのだな……と再認識しつつ、何気なく手前の机に手を置いてみた。

 ここで私は、妙な事実を発見した。

 すなわち、……つい机に触れてしまった。古い校舎の古い机なのだから、手にホコリが付着してしまったぞ……と思いつつ、手を引っ込めて手の平を見たのだが、そこにはホコリ特有のくすんだ白さというものが全く付着していなかったのだ。

「…………」

 薄茶色に変色した机の方を見ても、私の手形は残っていない。

 旧校舎の一室まで掃除が行き届いているということだろうか……それにしては黒板やコルクボードに活動の痕跡は見当たらないが……と思っていた時。

「好きなとこに座るといいよ。先生が使ってるのか知らないけど、そこまで汚くはないから」

 智が廊下側の最後の席に座りつつ言ったセリフを聞いて、私はナルホドと納得した。備品が撤去されていないことからも、何等かの目的で使用されている一室である可能性は考えられた。

 そして彼女の席の前に座り、その拍子にあることを思い出して、椅子を横に座る形で振り向きつつ尋ねた。

「裏口の鍵って開けたままで大丈夫だった? 入るとき閉めるの忘れてたんだけど」

「別に開けたままでいいよ。外から見て鍵が開いてるかとか、パっと見で分からないだろうし」

 そういうものだろうか、と思いつつ木造の壁を背もたれにすると、智は続ける。

「それよりも考えるべきは、旧校舎に誰かが入ってきた場合の逃走経路だろうね。一階からの来訪者に対して二階からバレずに逃げるって、簡単ではないだろうから」

「窓から飛び降りる訳にもいかないしね。確かにそれぐらいは考えといた方が…………」

 と言ったところで、私は顎を指で摘まみつつ言葉を区切ってしまった。

 智は足を組みながら、「そんな真剣に考えることでもないと思うけど。別に誰も来ないよ、それこそ事件のせいで先生は忙しいんだから」と気休めを言ったが、私は別のことを考えていた。

「いや、落合君はどうやって誘拐されたんだろなって思って」

「落合のことで悩んでたんだ。そんなに気になるものかな」

 顎を上げつつ、疑問の表情を隠そうともしない。

 唐突な話の転換だと思われたのだろうが、しかし私は脈絡なく彼の話をしたのではなかった。

「何も藪から棒に落合君の話をしてる訳じゃないよ。ほら、今の状況って、落合君が行方不明になったシチュエーションと似てるなと思って」

「二階の子供部屋に居たはずが翌日の朝には家中のどこにも居なかった、だっけ。先生からはそう聞いたけど」

「そう。それって、よくよく考えるとおかしいんだよ。もし誘拐されたんだとしたら、犯人はどうやって家の人にバレずに誘拐したんだって話になるよね。いくら夜中とはいえ、そんな大胆なこと誰にも見つからずにやってのけるなんてほぼ不可能だと思うんだけど」

「……ああ、それで今の状況と繋がるのか。二階から誰にも見つからずに、どうやって一階の玄関から脱出するんだって話」

「そういうこと。つまり、落合君が行方不明になった道筋を考えることは、私たちの脱出経路を考えるヒントにも繋がるんじゃないかな」

「ヒント、ねえ」

 少しの間、智は窓の向こうを眺めつつ面倒臭そうな表情をしていた。

 しかし、やがて「他にすることもないか」と呟くと、智は緩慢な動作でのっそりと席を立ち、おもむろに教室の中央まで歩いて振り返って言った。

「ベッドを作ろう」

「……ベッド? どうやって作るの、そんなの」

 唐突な提案に当惑し、やや的を外した返事が出る。

 その困惑した私にはお構いなしに智は、「机、六個ぐらい合わせたら一台分にはなるでしょ。ほら、手伝って」と言って、さっさと机を動かし始めていた。

 小学校の給食みたく、机同士を隣り合わせて一つの台にする。

 理由はともかく、智はそれを作りたがっているのだな……というのが分かり始めたので、私も意味不明のままその作業を手伝い、ものの数十秒で教室の中央に木の台が完成した。こう並べてみると、確かにベッドくらいのサイズにはなるだろう。

「それで、これをどうするの?」

 腕捲りをしつつ尋ねると、智はローファーを脱いで台の上に腰掛け、「今から私は落合としてここに寝転ぶ」と事も無げに言う。

「落合君として?」

「要はシミュレーションだよ。台の上で眠っている私を、犯人という設定のあんたがどう誘拐するのかという模擬実験。机上の空論をぶつけ合うよりは生産的でしょ」

「それはそうだけど、急に積極的だね。あれだけ面倒臭がってたのに」

「私にはゼロか百しかないからね。やると決めたら徹底的にやる、そのスイッチが入っただけ」

 そう言うと智はさっさと台に横たわってしまった。カバンを枕に見立て、仰向けでもうつぶせでもない横向きになった。普段も横向きで眠るのだろうか、などと思った。

「やるなら早くしない? 時間にも限りはあるんだし」

 智は片目だけで私を見上げながら言う。目の下の隈が就寝時の人間らしさを演出していた。

「そうだね。じゃあ早速始めようか」

 私は「おやすみ」と言いつつドアの方に振り向き、智のおやすみを背中で聞きながら教室を出て、ドアを閉めた。

 そして、そのドアに凭れかかると長大息する。

 一先ずの休息……というのは、智との一連の会話は他愛ないようでいて、かなり神経を磨り減らす内容だったのである。

 例えば、教室の前で話した時は一葉銀の欠席から話を逸らし、それと同時に智にカマを掛けるなどもしていた。

 すなわち、事件の翌日に遅刻して来た智には事件に関与している疑いがあるのではと考え、それとなく落合視聡の話に誘導して反応を窺っていたのだが、結果的にこの調査は無駄なものだと分かった。

 つまり、智が昨日の夜に森へ行った時の録音。

 事件があった時間に別の場所にいたというアリバイ。この存在によって、少なくとも素人の私が彼女を疑り深く詮索していいような状況ではなくなったのである…………と。

『そういうわけだけど、これで満足した? 杏子』

 この調査を依頼して来た依頼人である彼女に、テレパシーで呼び掛ける。

『…………』

 杏子は一拍置いてから、安堵と失望の混ざったような声音で『うん』と返した。

 三時間目の授業は既に開始され、十一時を回る頃。

 落合視聡(みさと)の行方不明を解決する糸口は、未だ見当たらない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ